金剛団地

556 ~ 558

富田林市の西部を南北に走る羽曳野丘陵地帯は、山林としての利用価値が低く、耕地とするにも困難をともない、従来から市の発展に役立つように利用されていなかった。昭和二七年(一九五二)に至って、市面積の三分の一に及ぶ羽曳野丘陵への積極的な住宅誘致を開始した。翌二八年三月、PL教団本部がこの地に移り、多くの施設を建設したことによって、山容は大きく変化した。三七年から富田林市は、人口五万人の都市をめざした開発事業を始めた。同年四月一日から、日本住宅公団は加太(かた)、廿山、伏山(ふしやま)、錦織、青葉丘と狭山町(現大阪狭山市)池尻、半田の一部で土地立入調査測量を実施した。この調査は一二月三一日まで行われ、金剛地区の住宅開発が具体化された。富田林市では、住宅公団による金剛団地の造成が千里ニュータウンにみならった大プロジェクトとして、巨大団地を生むことになったのである。

 翌三八年は、工場誘致、住宅誘致が軌道にのり、羽曳野丘陵をはじめ、市内各地は宅地造成のラッシュとなった。一一月二九日、日本住宅公団がつくる金剛団地の起工式が行われた。金剛団地は、南海高野線金剛駅から廿山地区にかけて、丘陵西麓の加太・伏山間に挟まれた二一六・四ヘクタールの土地を造成し、賃貸住宅・分譲住宅あわせて約八〇〇〇戸、人口三万人の巨大住宅団地を八か年でつくるというものであった。四二年一二月二〇日には、団地中央部の二八棟四八〇戸の最初の入居が始まり、年末までに約三〇〇戸九〇〇人が入居した。

 金剛団地の入居に備えて、小・中学校の建設が進められていたが、高辺台小学校と金剛中学校が四三年一月八日の三学期から開校した。開校時、高辺台小学校は全校児童三七人と教員が八人、金剛中学校は全校生徒七人と教員が六人であった(高辺台小学校「沿革史」金剛中学校「沿革史」)。団地中央部につくられた金剛公設市場は、総面積六六〇平方メートル、二三店舗が入居開始とともに開店した。

写真159 金剛団地