なお金剛団地は富田林市と南河内郡狭山町(現大阪狭山市)にまたがって建設され、その境界は複雑に入り組んでいるため、このままでは、同じ棟の住民が富田林市と狭山町に分かれる例も生じることになった。そこで境界変更を行うことになり、団地内の道路や水路などで境界を調整した。その結果、四二年(一九六七)七月一日、富田林市から狭山町に約三万七〇〇〇平方メートル、狭山町から富田林市に約二万七〇〇〇平方メートルが移った。面積に約一万平方メートルの差がついたのは、狭山町の新地域の多くが池のためであった。この境界変更によって、富田林市の面積は三九・六六平方キロになった。
さらに日本住宅公団は、昭和四六年から廿山、新家、加太の一部で金剛東団地の開発を始めた。これは総人口約三万人が住む計画であり、金剛団地とあわせ、羽曳野丘陵は生まれ変わることになった。この事業は、近畿圏整備計画の一環として計画され、四四年三月に「富田林都市計画事業金剛東土地区画整理事業」として事業決定し、二三〇・五ヘクタールを開発するというものであった。