PL病院

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富田林市内の総合病院として、富田林病院のほかに、医療法人宝生会PL病院が存在する。大正一三年(一九二四)一〇月に立教したひとのみち教団(立教当初は御嶽教徳光大教会)は、昭和一二年(一九三七)四月、当局の弾圧によって解散のやむなきに至ったが、戦後すぐの二一年九月、PL教団の名で立教した。そして、四九年一二月、教団名を「パーフェクト リバティー教団」(略称PL)と改称した。学校や病院は、その名称にPLを冠している。

 昭和二八年三月、PLは富田林市の現在地に教団本部建設の鍬入れ式を行い、この地を聖地とするようになった。そして、三〇年四月にPL学園高等学校を開校、以後、三四年中学校、三九年小学校、四二年幼稚園、四九年女子短期大学、五二年看護専門学校と次々と教育機関を創設した。

 PLは医療機関にも力を注いだ。同教団は昭和三〇年に医療法人宝生会を設立し、翌三一年一一月に宝生会病院を開設した。開設当時の診療科は内科・外科・小児科・歯科・放射線科で病床数は八六床であったが、うち結核病床が三〇床と約三五%を占めていた。これは、明治・大正期から昭和二五年まで、日本人の死亡病因の一位を常に結核が占め、その後もなお衰えを見せていなかった時代であったことを反映している。

写真164 PL病院

 当時は、府立結核療養所羽曳野病院(南河内郡埴生村、現羽曳野市)が開設されたばかりであった。昭和二七年一二月に開院し、翌二八年一月に業務を開始したこの病院は、医療・看護・管理面において最新最高の条件を具備した東洋一の結核療養所といわれた。みどり豊か、空気が澄んだ、豊かな自然に恵まれた羽曳野丘陵に位置する羽曳野病院は、結核患者の入院希望が殺到した療養所であった。

 羽曳野病院と同じ丘陵に立地したPLの宝生会病院も、恵まれた環境を生かして、結核治療に重点を置いたのであった。その後、宝生会病院は医療技術の向上と疾病構造の変化に応じて、診療科・病床数はじめ諸設備を着々と充実させた。昭和四五年に医療法人宝生会PL病院と改称し、富田林市の要請に応じて一般に病院を開放した。富田林病院が診療を開始した昭和五二年一〇月当時、PL病院は診療科数一二、病床数二一六であったが、その後さらに諸設備の拡充が図られ、平成一五年(二〇〇三)現在、診療科数一二、病床数三七〇の総合病院として大きな役割を果たしている。

 一方、羽曳野病院のその後について述べると、当初の結核病床三二〇床が昭和二九年八五〇床、三二年一〇〇〇床と増加したが、疾病構造の変化にともない、四八年以降、一般病床の割合を増やし、五一年には病院名称から「結核療養所」を外し、府内全域を対象とする結核・アレルギー性疾患の基幹・専門病院としての府立羽曳野病院となった(平成一五年一〇月には府立呼吸器・アレルギー医療センターに改称)。そして、診療科によっては地域医療の要望に応えている。