昭和五〇年の市長選

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昭和五〇年(一九七五)は、統一地方選挙の年であった。四月一三日の府知事選挙では三人の有力候補(立候補者は九人)のうち、政党としては共産党だけが推薦した黒田了一が再選された。この時、富田林市でも黒田が最高得票であった。ところが、同日の府議会議員選挙では、前年二月の補欠選挙と同様に、保守無所属の三木義成が共産党の有川功に圧勝した。以後、富田林市選出の府議の座は三木が当選を繰り返し、平成五年(一九九三)四月四日の死去まで続いた。

 統一地方選挙の一環としての富田林市議会議員選挙は四月二七日に実施された。定数二四の議席を二九人の立候補者が争った。党派別当選人は、社会党が一議席で変わりなく、共産党四議席で二人増、公明党四議席で一人増、あとは無所属であった。金剛団地の有権者数がほぼ一万五〇〇〇人であり、富田林市の全有権者約五万七〇〇〇人の二六%を占めるという状況での選挙であった。団地住民の立候補六人のうち五人が当選し、うち四人が革新系であったという点に、新興団地が古いまちに与えた影響がみられる。

 一六年前の三四年四月三〇日、市議選当日の有権者数は二万一一八五人であった。このたびの五〇年四月二七日の有権者数は五万六九八六人であった。二・七倍にも増えたのである。ときあたかも高度経済成長期は過ぎ、安定成長・低成長の時代を迎えていた。新しい時代の流れの中で、富田林市は変化していく。

 昭和五〇年は富田林市の市長選の年でもあった。西岡潔市長の前回の当選は四六年八月八日であった。任期満了日は五〇年八月二六日である。五月二〇日、富田林市選挙管理委員会は西岡市長の任期満了にともなう市長選の告示を七月三一日、投票を八月一〇日と決めた。なお、昭和五〇年は市制実施二五周年の年でもあった。