対立候補が名乗り

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昭和三八年(一九六三)から五〇年にかけて、富田林市の市長は西岡実・潔の父子がつとめた。西岡実市長死去のあと、四二年八月に市長に就任した西岡潔は四四年一二月に再選、四六年八月に三選され、ごみ問題に代表される難問山積の中で新しいまちづくりに努力してきた。年齢的にも四六歳の若さであり、市長職継続の意欲満々であった。

 西岡の対立候補として、富田林市立金剛中学校長であった内田次郎が名乗りをあげた。内田は大正九年(一九二〇)三月一一日に生まれ、昭和一二年府立富田林中学校を卒業、大阪府天王寺師範学校(現大阪教育大学)に入学、一四年に同校を卒業して、堺市立安井小学校訓導となった。満一九歳になったばかりの先生であった。

写真167 内田次郎市長

 昭和二年四月制定の兵役法では、師範学校卒業生短期現役制が定められていて、師範学校で教練を修了した者の服役期限は五か月、未修了者は七か月となっていた。この短期現役制は、昭和一四年三月の兵役法改正によって廃止された。師範学校を卒業して小学校訓導になったばかりの若い男の先生たちが一般の青年たちと同じく軍隊に入り、戦場におもむくことになったのである。

 昭和一五年に満二〇歳になった内田は、短期現役制の廃止によって、一六年陸軍に入隊し、中国戦線に派遣され、二〇年に復員した。二二年以降、富田林市域の小学校・中学校で教鞭をとり、三二年富田林市立第二中学校教頭、四四年南河内郡美原町立美原中学校長、四六年府教育委員会南河内郡出張所学務課長、南河内教育事務所次長兼指導課長となり、四九年には富田林市立金剛中学校長に就任した。翌五〇年三月をもって金剛中学校長を辞し、市長選に備えた。