二八年間続いた内田市政の末期は、日本経済が混迷し、社会的にも政治的にも先が見えないという時代となっていた。地方自治の面でも重大な転機が訪れていた。市町村合併問題はその代表的な例である。
平成一四年(二〇〇二)七月一日、富田林市・太子町・河南町・千早赤阪村の一市二町一村による合併協議会が発足した。六回の会議を重ね、とくに合併の期日については、一五年四月を目途とする案も出されたが、参加市町村の意見がまとまらず、この問題のむずかしさをあらわしていた。
内田市長は平成一四年の九月議会で、任期満了前の引退を表明し、翌一五年二月、四月三〇日付で辞職することを市議会議長に申し出て受理された。内田市長の任期は八月二六日まであるにもかかわらず、任期途中の四月三〇日付で辞職することにしたのは、四月の統一地方選挙の市議選にあわせて後任の市長が選出されるようにするためであった。
四月二七日に富田林市長選が行われ、市政の刷新を掲げた多田利喜が徳山博一を破って当選した。多田の得票は二万八八三四票、徳山の得票は二万三〇三五票であった。
多田は昭和二六年(一九五一)二月四日、現在の富田林市常盤町に生まれ、PL学園高校を卒業、近畿大学商経学部を卒業後、家業のミシン販売業に従事する一方、地元商工会青年部で活躍した。昭和五八年四月の市議選で初当選し、平成一一年三月に退職するまで市議を四期つとめた。
平成一一年八月八日の市長選には、当時の市長内田次郎の対抗馬として立候補した。当選した内田の得票が二万〇二一二票であったのに対し、多田は一万八七五〇票であった。その差はわずか一四六二票であった。