旧富田林町は古くから南河内地方の中心都市として繁栄する一方で、より大きい中心である堺や大阪の影響圏に組みこまれていた。また現富田林市域にはそのような中心集落としての旧富田林町のほかに、農業の盛んな村落を含んでいたが、第二次大戦後、都市化の影響を強く受け、社会的、経済的な機能が変化し、景観が都市的なものへと変化した。
国勢調査によれば、昭和二五年(一九五〇)の市内人口三万〇三九九人が昭和三五年には三万六二六一人、昭和四五年には、倍増して七万五七五四人となり、高度経済成長が本格的になった一〇年間に人口は絶対的にも相対的にも大きく伸びた。昭和五五年までの次の一〇年間には九万七四九五人まで増加したが、増加率は小さくなっている。昭和五九年には市内人口が一〇万人を超えたが、平成に入っての人口増加は五年間で一万人程度にとどまり、富田林市の人口は昭和四〇年代にもっとも激しく増加したことが知られる。
都市化は社会的関係、経済的関係の変化であるとともに、自然環境、特に地形や植生と人間活動の関係の変化でもある。都市化が進行する地域内では、羽曳野丘陵のような緩傾斜地はもっとも強い変化を受けた。それまでの里山の地形と植生が改変され、大規模な住宅地などに変化し、周辺農家のあり方にも影響した。一方で、平坦な段丘地域の農地も潰廃(かいはい)、住宅地化されて、新しい市民を受容し、従来の住民の生活も変化した。
富田林市は、山地、丘陵、河谷とそこに展開する人間活動が、この場所だからこそという個性を持つ一方、大阪あるいは南河内地方という富田林市を包む地域と共有する一般性をも併せ持っている。
地理編では、比較的新しい時代について、富田林市の地域としての機能と景観について述べるが、それは都市としての富田林と農村としての富田林という、この都市が持つ二つの側面を意識したものとなる。
同時に、富田林市がより広い地域とより強く結びつくことになったという視点が基本になる。このことは富田林市域が内部の変化の要因もさることながら、外部の変化の要因によって強く動かされる傾向が強まったことを意味している。都市化の問題も農業の変化の問題も決して富田林市単独の問題ではない。
なお、地域名の呼称については、行政域としての地域名と住民の日常生活における呼称とは、必ずしも一致しない。また、藩政村としての旧富田林村から出発して、旧富田林町へさらに旧東条村との合併によって、現在の富田林市が成立したように、「富田林」によって表現される行政域は時代によって変化している。したがって、「現」、「旧」をつけるのは、基本的には行政域についてであり、日常生活感覚での表現では、これらの区別はしない場合が多い。地理編の記述においても、この感覚を尊重する。旧村のまとまりは、現在の行政域ではないが、統計資料の地域単位として用いられているので、地理編では、「地区」で表現することが多い。
南河内地方という場合は、昭和二〇年末段階で、図33(第三章)に示す富田林町と長野町を含む南河内郡とするが、昭和三五年段階では、昭和二〇年あるいは最初の「農林業センサス」の数値が市町村別に得られる昭和二五年には南河内郡に属していた町村が、その間の分離合併などにより、堺市(南・北八下村、日置荘村)、松原市(丹南村、北八下村)、柏原市(国分町、志紀村)などに加わった。できるだけ統計上の連続性を確保するためにこれらを除外し、残りの範囲を南河内地方として扱うこととする。また、羽曳野市に入った丹比村の一部などは、その後の統計処理については南河内地方に含まれる。なお、現在堺市に編入されている野田村、大草村は、地図上は南河内地方に含めなかったが、統計処理の問題もあり、編入以前の段階に則して南河内地方に含んだ処理を行った。
第一章で自然的、人文的環境と人間の活動の関係を概説した後、第二章で都市としての富田林市の問題、第三章で南河内地方の農村としての富田林市の問題、第四章で富田林市内部の経済活動の問題をいくつか取り上げる。
なお、統計数値の年次については和暦を基本とするが、場合により西暦を用いる。