その三つの地形環境要素のうち、古くから現在まで人間活動がもっとも盛んであったのは、水稲栽培に基づく農業生産が最大の集中を見せてきた河谷平野である。
氾濫原(はんらんげん)と河岸段丘を合わせた河谷平野は石川本流沿いでは嬉(うれし)以北、佐備川流域では、東板持以北がこれに当たり、千早川(東条川)流域では富田林市別井から千早赤阪村森屋辺りまでさかのぼると考えられる。この段丘面には考古学的な遺跡も多く、先史時代から人間が好んで定住してきた地域であるし、古代には大規模に施工された条里地割が今も残存する地域である(『市史』一 七一四頁)。段丘は富田林市域では、中位と低位の二面が明らかで、板持、山中田(やまちゅうだ)、南大伴、北大伴辺りでは氾濫原よりも高く、富田林市街地などがのっている中位段丘に比べて低いことから低位段丘面に当たることがわかる。佐備川の谷に沿っても小規模の中位段丘が見られ、南北別井付近の東条川流域には平坦な段丘面が広く発達している(『市史』一 二二~二三頁)。
西板持でナスのハウス栽培が盛んな石川本流東岸や現在富田林中小企業団地の東部をなしている本流西岸の低地部分は低位段丘面よりも一段と低い氾濫原であり、歴史時代に入っても氾濫を繰り返してきた。
西板持の集落がのる部分は低位段丘面で、条里地割が明らかであるが、低い段丘崖を下った西方の石川の堤防にかけての氾濫原の部分では、地割は乱れていて条里地割は認められない。彼方(おちかた)から西板持にかけて、石川の右岸堤防近くに約一〇か所の比高三~五メートル程度の小さな高まりがあった。多くが近年になって除去され、平成一〇年(一九九八)ごろでは二か所だけが残存している。昭和三三年(一九五八)までに発行された二万五〇〇〇分の一地形図に明示されているこの高まりは、地元では、つか=塚と呼ばれ、大小の礫からなっている。大正時代以前の比較的新しい洪水によって水田に散乱した礫を、水田を回復する際に集積したものであると考えられる(図6・写真172)。
いわゆる霞堤(かすみづつみ)が錦織や喜志地区川面(かわづら)付近で見られ、川面付近とすぐ上流の中野の東方では、石川本流の堤防が不連続で、部分的に平行し、その間が開口する短い二本の堤防が見られた(図7)。同様の堤防は下流の羽曳野市古市付近でも見られる。時には洪水の不安がある氾濫原の耕地化も古いが、このような堤防は石川の洪水と地域住民の関係を示している。
洪水時には本流から逆流が生じて水田は冠水するが、本流の高水位を一時的に緩和する遊水池(ゆうすいち)の機能を持つ。霞堤は段丘崖と本流が比較的近接した氾濫原の幅が狭い場所に見られ、本流に設けられた井堰(いせき)とそこから取水する井路あるいは本流に合流する井路とに関わっている場合が多い。