羽曳野丘陵

602 ~ 603

石川本流の西側に高まりを見せて連なる羽曳野丘陵の分水界は極端に東によっており、東側の斜面は短くて急であるのにたいし、西側では浅くて長い谷が北西から南東の方向に丘陵を刻んでいる。したがってこの丘陵の東斜面と西斜面では地形も異なり、その利用の形態も昔から異なっていた(付図1)。

 この羽曳野丘陵は里山として周辺の多くの集落に肥料、飼料、燃料としての必須の資源を供給してきた。同時に、狭長な谷が谷地田(やちだ)として利用されてきた。また西北流する各谷に沿って上流部から階段状に親池、子池、孫池と呼ばれる溜池が築造され、その下流の谷地田に灌漑用水を提供しただけでなく、一部は東麓の石川本流沿いの段丘面にも用水を供給した。

 農業との関連とは別に、羽曳野丘陵には、石川谷を独立の地域として西方の大阪平野南部と区分する働きがあった。石川谷と支流の河川上流部に及んでいる谷口集落あるいは河谷平野の中心としての富田林の商業機能は、鉄道開通以前は羽曳野丘陵によって保護され、独立性を保障されていた。逆に、羽曳野丘陵によって富田林の影響圏は石川谷を中心に限定されていた。市域に属する須賀、伏山(ふしやま)、加太(かた)、五軒家(ごけんや)など西麓の集落では、伝統的な行政面ではともかく、日常生活においては南海高野線の開通以後は、旧来の町の中心であった寺内町との距離感が拡大したのである。

 第二次大戦後は里山としての経済的機能が次第に減退したのに代わって、羽曳野丘陵にPLの宗教施設と娯楽施設が立地し、造成された住宅地に多くの人口が定住することで、羽曳野丘陵の機能も富田林市の都市機能も激変した。富田林旧寺内町の中心地機能は相対的に衰え、丘陵西斜面の金剛団地をはじめとする大住宅団地によって、かつての谷地田と溜池、雑木林からなる丘陵の景観は一変した。同時に、農村とその中心としての旧寺内町に、旧富田林市街地を経由することなく直接大阪と結びつく住宅地域が加わった。羽曳野丘陵はそれまでの里山という、農業と農村の生態的な組み合わせの一環としての存在とは無関係な空間として変貌を遂げたのである。