大都市圏への編入

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現代社会が求める複雑多岐にわたる機能は、かつての富田林が持っていた中心地機能では満足させられない。もちろん幕藩時代にも大坂や堺との結びつきはいろいろな水準で保たれていたが、現代ではたとえばテレビ放送などという新しく加わった機能はより広い地域とより大きい中心によってしか維持できないものである。さまざまな行政機関や企業の立地の場合も出張所とか支店であり、直接的には大阪市に立地する本店、本社あるいはより上位の支店などによって管理されているところが多い。

 かつての富田林町の場合はそこに定住する人々がそこで仕事をする形を取るのが普通であったが、現在では職場と住居が別になり、富田林市が以前の性質を大きく変えて、大規模な住宅が建設されたことにより、その住民の多くが富田林市内ではなく、通勤の形で大阪市やその他の郊外の事業所で働くことになっている。

 近鉄長野線富田林駅の年間乗降客数は昭和四七年(一九七二)に定期利用者が約三〇三万人、定期外利用者が約一五九万人であったものが、平成五年(一九九三)には、合計約四一二万人となり、同年に南海高野線金剛駅の数値は約八五〇万人に達する(『富田林市統計概要 昭和四十八年度版』『富田林市統計書~センサス富田林~平成六年度版』ほか)。都市が多くの機能を具え、小さいながらも独立性の強い、かつての富田林のような都市であり続けることは困難になっている。