寺内町内部の商店街、近鉄長野線富田林駅周辺の商店街で生活に必要なものを買っていた市民が鉄道を利用して大阪市まで買物に出かけたり、たとえば外環状線沿いに立地する郊外型の大型専門店に車で出かける現状は富田林市民だけではなく、かつて富田林の商業やサービス業に依存していた人たちの多くが、必要に応じて買物などの範囲を外側に拡大していることを意味する。かつて富田林市の商圏をなしていた地域は依然として富田林と強いつながりを持つものの、以前よりははるかに強く直接大阪市などと関係し、富田林市は昔の地位を失ったといえるかもしれない。
小売商圏や卸売り商圏あるいは通学圏、通勤圏が大阪大都市圏の一部として構成されるようになっているのである。
このような変化の基礎条件として交通機関の近代化がある。かつて富田林は東高野街道や富田林街道による陸上輸送の拠点、喜志地区川面に痕跡をとどめる石川の水運の拠点であった。富田林は鉄道建設以後もバス交通によって石川谷の町村と結ばれたことで、その中心地としての機能を保証されていた。石川谷の半開放性、半閉鎖性によるものである。普通乗用車の登録台数は昭和四八年(一九七三)にわずか六五台であったものが、平成七年(一九九五)には六四三四台に達した(『富田林市統計概要 昭和四十八年度版』『富田林市統計書~センサス富田林~平成九年度版』ほか)。自家用自動車の浸透によって閉鎖性は次第に失われ、富田林市民も石川谷流域の住民もその自由な行動範囲を広げた。そのため富田林市は地域の中心都市という性格を残しながらも大阪大都市圏に属する住宅機能が強い都市へと変容したのである。