昭和三一年(一九五六)の古市図幅と三三年の富田林図幅に見る羽曳野丘陵は現羽曳野市、美原町、大阪狭山市と富田林市にまたがっている。針葉樹のマツと広葉樹のコナラなどが混交する、いわゆる里山の景観が広がり、数多くの谷池が築造され、これに依存した樹枝状の谷地田(やちだ)が発達していた。羽曳野丘陵の規模が小さいために、これを開析する谷の集水面積はごくわずかで、ここで得られる水量は多くない。したがって水稲栽培時の灌漑用水を確保するために、これらの谷地田のほとんどは冬季にも排水しない湿田であった。この樹枝状の谷地田が羽曳野丘陵の土地利用のもっとも大きな特徴であった。丘陵の分水界が極端に東に偏り、富田林市域では、平(ひら)と毛人谷西方を除いて、谷地田は主として南東から西北の方向に発達した谷に開かれている。これにたいし、傾斜変換線沿いに、丘陵の周囲に小規模な果樹園が散在し、富田林市域では大きな集中は加太、五軒家に見られ、西甲田や須賀に小さな集団があった。
以上の状況はこの地域の最初の地形図が作成された明治中期の段階とほとんど変化していない。つまり昭和三〇年代初めの段階では、その後この丘陵に見られる都市化の波は地図上にまったく現れていない。
明治二二年(一八八九)の二万分の一地形図狭山図幅(図11)では、現在の須賀は錦郡新田、伏山は伏山新田、加太は加田新田と記されており、さらに北方の現美原町域に菅生新田、羽曳野市域の東、中、西の各新田の呼称が見られる。これによって羽曳野丘陵の西側の麓では緩傾斜面の開発が遅れていたこと、富田林市域では、一部狭山藩の支配が及んでいた廿山と錦郡の領域であった地域に東側の村を親村として枝村が成立したことが示されている(『市史』二 四五二~四六〇頁)。なお、この明治二二年発行(二〇年測図)の二万分の一地形図は、現富田林市の大部分については発行されていないので、市域全体について掲載することはできない。
廿山は羽曳野丘陵上に立地する唯一の集落であり、東南から西北へ、錦郡から狭山に通ずる道路に沿って尾根上に立地する。その形態はきわめて不規則で、道路沿いというよりも、主たる尾根から分岐した支尾根上に分岐している。この尾根を挟む形で西北から谷地田が開かれた二本の谷が入りこんで、廿山の集落の主たる生産基盤となっていた。
西北に流れる谷を堰きとめた九郎五郎池は旧廿山村に属しているが、旧新堂村と毛人谷村の水田がこの池の水を利用しており、本来の方向とは異なる石川斜面に流れている(図13)(『市史』二 六〇六頁)。