経済成長期の地形図

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昭和四四年(一九六九)の古市図幅では、大きな変化が見られる。最大の面積を占めているのは、PLの施設で、本部施設、ゴルフ場、PL学園などが地図上に現れているが、羽曳野丘陵の変化はこれらPL関係の施設に限らない。昭和四四年の図幅では、羽曳野市の農林技術センターと美原町の大阪木材工場団地が示される。PLゴルフ場と大阪木材工場団地は、毛人谷から美原町平尾に通ずる富田林街道の最高点である平尾峠の東西に展開するが、標高も高く、幅も広いところで、何本かの浅い谷の比較的傾斜の緩やかな最上流部に当たり、この部分で集落から遠い谷地田の最初の潰廃があった。

 羽曳野丘陵南部では、錦織の西側の大谷女子短期大学など、公的な土地利用の進出以外に、個人的な住宅地の大小の開発が始まっている。昭和四〇年代現地調査の地形図では、富田林市域では旭ヶ丘、南旭ヶ丘、富美ヶ丘、錦ヶ丘、青葉丘などの小規模な住宅地がすでに成立する一方、羽曳野市域で羽曳が丘、富田林市域で金剛団地の大規模住宅地の造成が進んでいた。廿山の集落の西側に入りこむ二本の比較的大きい谷の北側の谷は谷地田が地図上に残存しているが、南側の谷では、廿山集落のすぐ南側を除いて谷地田は消滅し、この谷はその後高辺台と寺池台、久野喜台を隔てる道路となった(図12)。

図12 羽曳野丘陵の開発(a図とb図は南北に連続している)
b 2万5千分の1 地形図「富田林」(昭和47年)