昭和四四年(一九六九)図幅では、金剛団地が造成され、廿山西方の丘陵はそれまでの景観を失った。寺ヶ池の上流にあった二つの谷と加太から廿山南方に通じた長い谷の谷地田は消滅した。
昭和四五年調査の図幅では、久野喜台、高辺台、寺池台に集合住宅が建設され、学校が開設されている。昭和四二、四五両年現地調査の富田林図幅を比較するかぎり、この間に金剛団地の住宅建設が進捗したことを示している。
しかし旧市街地に通ずる道路はまだ建設されていない。金剛団地の交通環境は、南海高野線金剛駅のみに依存して、旧市街地との連絡も悪く、なかば孤立し、現在のような道路網、自動車交通の発展とは無縁のものであった。この状況は羽曳野丘陵の東西の新旧の市街地で異なる二つの鉄道体系に依存したことで強調されている。
この新旧部分の違いは交通面にとどまるものでなく、古い伝統的な町に新しい市街地が加わったことにより、都市としての性格を新たにしたと同時に、旧来の旧寺内町と農村部に加えて第三の要素を内包することになった。
富田林市域では、新しい都市的土地利用と伝統的な農業的土地利用が対立する景観が市域全域で見られたが、羽曳野丘陵では、低生産力、遠隔のために農業の側の抵抗力がもっとも弱い部分で、大規模な開発が行われたのである。