集落の形態と道路

623 ~ 624

地形区分と集落立地の関連で見れば、丘陵上に立地する廿山を例外として、多くの集落が丘陵を取り巻いてほぼ一定の間隔で立地する。傾斜変換線に位置する各集落も段丘面にその生産基盤を有していた。

 西板持の西方および新堂・中野両集落の東方の、石川河道に沿ってもっとも広く分布する、低く平坦な氾濫原にはまったく集落が立地しない。西板持の集落は比較的低い場所に立地しているが、それでも集落西方の耕地との間には二メートル程度の高度差がある。段丘面上の集落の分布密度は密であるのにたいし、氾濫原には集落が立地しないのは明らかに洪水の危険を避けたものである。

 石川本流と東条川流域の段丘面では、耕地の地割が条里の遺構を残して、東西南北の直線によって区切られた方格地割であることは、丘陵の谷地田あるいは佐備川上流域の狭い谷平野と大きく異なる点である。耕地だけでなく、農村の住居の集合体としての集落もその一町四方の地割に規定されていることは石川本流右岸の西板持、東板持、山中田、北大伴、南大伴、北別井、南別井などの集落形態を見れば明らかである(『市史』一 七一二~七一九頁)。

 昭和三一年(一九五六)図幅に見る集落の形態と道路形態は戦前のそれと比べてほとんど変化を示していないことは、たとえば、明治二〇年(一八八七)測図の陸地測量部による狭山図幅と比較すれば明らかである(図11)。昭和四四年発行の地形図では、旧来の集落の外側に新たに建てられた家屋が付加している。明治期以降の村落人口の増加に伴って、集落のすぐ近くの農地に住宅を建てたことで集落がわずかに拡大したものであり、本格的な住宅地化を示すものではない。近鉄の駅周辺と道路沿いなどには建物が立地し始めており、都市的な土地利用の進出が認められる。