昭和四〇年代の末には羽曳野丘陵にはすでに北部で羽曳が丘、南部で金剛団地の造成が一部終了し、住宅の建設も進んでいる段階で、段丘面上はむしろ大規模な変化が起こっていないのが特徴であろう。石川谷両岸で、従来の農村が次第に都市化するというのではなく、丘陵部に突然大規模な住宅団地が出現するのは、それぞれの土地の交通面の利便性、都市化への抵抗力を左右する農地の生産性、大規模開発が可能な空間的な大きさなどの要因が働いている。
昭和五九年(一九八四)の古市図幅では、これまでも触れてきた新堂、中野の集落の東側の氾濫原に中小企業団地が出現し、平成一二年(二〇〇〇)の地図では、この団地が完成しているのが河谷平野部での最大の変化である。この部分では場所による違いはあるものの、条里地割が東西方向の線によって確認されていたのが、新しい道路の形態が作り出され、工場の建物が立ち並んで、景観としてはまったく異質のものが出現した(図10)(第二章第三節三)。
佐備川が石川の河谷平野に出る部分、板持から下佐備にかけては、昭和四四年図幅で寿美ヶ丘荘園(東板持)、四七年図幅で楠風台、五三年図幅で山手町の各住宅地が加わって、中規模の住宅地開発が進行したことを示す。
昭和五三年現地調査以降の古市図幅にはいわゆる大阪中央環状線と羽曳野市内で一部未完成であるが外環状線が見られ、西名阪自動車道がすでに藤井寺市内を通じ、国道三〇九号、金剛団地と富田林旧市内を直結する府道森屋狭山線が完成あるいは整備中であることが読み取れる。南部佐備川流域の道路交通の基盤がまだ整備されない段階で、丘陵部を中心に急激に道路体系が整備されたのが昭和五〇年代であったといえる。これは富田林市が強く外部と結びつき、ますます深く大阪大都市圏に組みこまれる条件が整備されたことを意味する。