昭和四七年(一九七二)の図幅では、蒲(がま)(甘南備)の西側の尾根から東斜面に果樹園の記号が新たに見られるほか、下佐備、東板持南部、嶽山北麓などの周辺部で、規模は大きくないが、果樹園の拡大が見られる(図8)。
中山集落(佐備)の東方などでは、もとの水田に果樹園記号が新たに記されている場所もある。したがって、昭和三三年以降の一〇年間に、嶽山山地と東条丘陵では、果樹園の分布中心からの外延的拡大が多少見られたこと、谷地田の一部が果樹園に転換していることが注目される。地形図は農道の建設・拡充を明示している。佐備、龍泉、蒲が利用する嶽山周辺の道は、昭和三三年図幅では車の通行の不可能な道幅一メートル未満の小径と表されていたのが、昭和四七年図幅では、嶽山東斜面の果樹園を南北に抜ける上下二本の道路その他が幅員一・五~二・五メートルの道路となり、この農道は蒲の集落を大きく取り囲む形でも建設された。その結果、この道路より下の斜面に前記した新しい果樹園が開発されたことは明らかである。
集落の形態には両年次間に違いはない。この南部山地・佐備川谷に集落景観上の都市化の影響はほとんど見られず、羽曳野丘陵での大規模住宅地の開発工事とは対照的である。明らかに南部山地は農村の景観をそのまま残し、土地利用も従来どおりの段丘上の水田と丘陵内の谷地田、斜面の果樹園という類型をはずれるところは少ないのである。
羽曳野丘陵で生産力の小さい谷地田を埋める形で農地を潰廃し、住宅団地が建設されつつあった時代に、佐備川流域の南部山地では、谷地田を温存しつつ、一方で農道という新しい輸送手段その他の技術の導入を前提とした道路の建設を通じて、斜面にミカン畑を開発する事業が進行していたのである。東条地区での第一次農業構造改善事業が関係するものである(第四章第二節三)。
その他、大規模な養鶏団地も図上に見られ、この地域の経済活動が指向していた方向が農業の拡充であったことは明らかである。