南河内の中心都市

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第一章で述べているように、近年は大阪のベッドタウンとなった富田林であるが、かつては石川谷を中心とする大阪府南部・南河内地方の中心地であった。郡役所など町村を越えた広域行政機能や旧制中学といった教育機能の立地からもその状況は示されるが、ここではその様子を明治・大正期の地誌資料や地図からながめてみよう。明治初期の日本各地の状況を記した資料として、『共武政表』と呼ばれる軍事目的の地域統計がある。ここでは明治一二年(一八七九)『共武政表』で中心地とされている町をあげる。

 この資料では人口一〇〇人以上の集落を輻輳地(ふくそうち)と呼び、中心地としてあげている。このうち河内国(現在の大阪府東部)で戸数一〇〇〇戸を超えるのは八尾のみで戸数が一〇二二戸で人口は四二四三人、五〇〇戸を超えるのが枚方駅(京街道の宿駅)が五二三戸(人口二一八〇人)、奈良盆地へ抜ける街道に沿った国分村(現柏原市)が六四〇戸(人口二七一一人)で、古市村(現羽曳野市)は五四八戸(人口二四六六人)である。これらに比べ必ずしも古くからの幹線交通路に当たらないにもかかわらず、富田林(村)は七五二戸、人口三一九八人で八尾に次ぐ中心となっている。当時の大阪は近世より人口は減少していたとはいえ三〇万人弱の人口を有する大中心地であり、周辺地域における中心地としては堺(人口約四万五〇〇〇人)があり、和泉国ではほかに岸和田(人口約一万三〇〇〇人)や貝塚(人口約六〇〇〇人)があった。摂津平野郷(現大阪市平野区)も人口七〇〇〇人弱の在郷中心となっていた。しかしながら大阪平野東南部の内陸において富田林は、同様に中世以来の中心地である北の平野や八尾とともに、重要な中心地となっていたと考えられる。

 同様に当時の大阪平野南部における中心地の状況は、図14の大正三年(一九一四)発行の二〇万分の一地図からもよくわかる。この図で長方形の凡例で示された集落は人口一〇〇〇人以上の宿駅市街であり、八尾より南の河内南部では富田林のほかに、長尾街道や竹之内街道に沿った国分と古市などである。このうち富田林の北隣の新堂(現若松町)は明治一九年発行の同図では人口一〇〇〇人以上の村落として楕円で表示されていた。また前述の明治一二年『共武政表』では、新堂村は人口八九〇人あるが富田林村(人口二三〇八人)と合わせて一般に富田林村というとする注釈がついている。なお、この図では高野登山鉄道(現在の南海高野線)や河南鉄道(現在の近鉄長野線)が長野(現河内長野駅)まで開通している。後者は、まず現在のJR柏原駅をターミナルとして建設されたことも読み取れる。

図14 輯製20万分1「和歌山」(大正3年鉄道補入)