富田林市の人口は、平成一三年(二〇〇一)現在一二万六三一一人で、一貫して増加を続けている。図15(グラフ)では同様の人口規模を持つ大阪府下の他市と人口増加パターンの比較を、合併前についても現市域を単位として行っている。たとえばこのグラフからは、これらの都市群が昭和三〇年(一九五五)ごろにはほぼ人口三万五〇〇〇人前後で人口規模が近かったことがわかる。しかしそれらのうちから門真市が、高度成長期を迎えた昭和三五年から四五年にかけて爆発的な人口増加を記録し、かつては倍ほどの人口があった富田林市を抜き去った様子がはっきり示されている。同様の人口急増はやはり大阪市に近い松原市も同時期に記録している。大東市では松原と富田林の中間的な人口増加傾向となっている。
一方、富田林市も決して人口が停滞していたわけではない。昭和四〇年代には先の都市群同様の人口急増を見た。これはちょうど市域西部に多くの集合住宅を含む金剛団地が造成された時期に当たる。人口増加はいったん低成長期に沈静化した後、次にはバブル経済期に増加している。この時期には後で見るように羽曳野丘陵中央部で住宅地の造成が進んでいた。昭和三五年の人口規模が近かったこれらの市だが、最近再び人口規模は接近してきた。大都市からより遠い北の箕面市や南の河内長野市が上記の各市の後を追って人口を増やしている。民間による一戸建て住宅開発の盛んな地域である。
人口増加の進む市区町村の分布を見ると、図16のように昭和四〇~五〇年にはコントラストの強い人口増減パターンが読み取れる。大阪などの中心市域の人口ドーナツ化が顕著であり、また大都市圏外の人口減少も激しい。昭和六〇~平成七年(図17)になると全体の増減のコントラストは先の時期ほどではなくなる。神戸市の旧市街などで人口減少が顕著に出ているのは震災の影響である。人口増加地帯はより外側に拡大・拡散し、周辺農村は広範に都市的になりつつある。
富田林について見ると、昭和四〇年代には河内長野市とともに人口急増地帯の東南の縁に位置しているが、昭和六〇年代に入ると和歌山県へと南海高野線沿線の住宅開発は延伸し、橋本市まで人口急増地帯となっている。京阪神大都市圏全般にこの時期には人口急増地帯はかなり外方化が進み選択的・分散的になっているが、その拡大・分散化した人口増加のドーナツの輪に富田林は入っている。
このような富田林市における人口増加は言うまでもなく住宅開発の展開によるものである。図18は高度成長期とその後の低成長期における、富田林市とその周辺における住宅開発の展開を示したものである。大阪府南部では昭和三〇年代の新金岡団地(堺市)の建設で始まった大規模住宅開発は、その後、昭和四〇年代に入り、富田林市西部の金剛団地、堺市では泉北ニュータウンの建設へと本格化してゆく。これらに挟まれた現在の大阪狭山市でも、民間による狭山ニュータウンの建設が同じ昭和四〇年代に進められた。
これらの大規模造成地は、すべて泉北や羽曳野の丘陵地に当たり、燃料革命の中で利用されなくなった里山の開発でもあった。平野部ではもっとも起伏の大きい丘陵部であるが、地質的には粘土層であり、第二次大戦後導入された大型土木機械による近代的な土木技術により、容易に削平や盛り土が行われ平坦な住宅地へと姿を変えていった。近代技術はいわば自然条件を克服し、丘陵地の里山などは、自由にデザインできる白紙の画用紙のように思えた時代であった。しかし本質的にはもとの谷や尾根といった地形はなくなったわけではなく、震災時などには造成地で被害の疎密となって現れたりしている。
こうした丘陵開発では、北隣の羽曳野市の羽曳が丘が昭和三〇年代に開発され住宅地となっている。多くの住民の通勤先である大阪への距離から考えると、富田林市域では北から順に開発が進められてもいいように思えるが、鉄道アクセスの点から、実際には列車の頻度も多い西側の南海高野線側から大規模な開発が進んだわけである。また、国道三〇九号という道路アクセスの整備とともに、隣接する美原町域の羽曳野丘陵に大阪木材工業団地が造成されている。遅れて昭和五五年以降に民間により富田林市域北端から美原町域にいたる大規模住宅開発も展開した。
こうした大規模開発にはある程度まとまった用地買収が必要であるが、都市化の先端部では、そのようにまとまった買収は困難なことも多い。そのような地域では、土地所有者が所有地を互いに少しずつ提供して道路や公園など公共用地をつくる土地区画整理事業が行われる。富田林市では石川左岸に、中小企業団地がこの手法で建設されている(本章第三節三)。