市街地の拡大

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別添袋入りの付図4は、富田林市北部における市街地の拡大を、昭和三五年(一九六〇)、四五年、六〇年と平成七年(一九九五)の国勢調査報告の人口集中地区により示したものである。人口集中地区とは、付図解説のように人口密度が一定以上の地域で、市街地に相当すると考えられる。

 高度経済成長の始まる昭和三五年には、まだ富田林の市街地は、寺内町や富田林駅前の地区のみであった。その他の市域は田園地帯や丘陵の里山などが広がっていた。大阪の東南郊外全体で当時の市街地を見ると、堺の東側や南海高野線初芝駅東側などの第二次大戦以前に開発された郊外住宅地、それに近鉄南大阪線に沿った松原や藤井寺の駅周辺などの市街地、羽曳野市域では古市の市街地が見られるだけである。昭和四五年になると南海高野線や近鉄南大阪線の郊外鉄道沿線で市街地は拡大し連続してゆく。また、飛び地となって古市の西に羽曳が丘、堺市の南には泉北ニュータウン、付図4に示した富田林市域では西部で金剛団地が市街地を形成し始めている。

 その後昭和六〇年までには泉北ニュータウンや狭山ニュータウンが形成され、後者は富田林市の金剛団地と連続するようになり、さらに上記の初芝などの高野線沿線の市街地は、これらを経由して南の河内長野(付図4の左下端の市街地)まで連続するようになっている。近鉄南大阪線の沿線でも先の羽曳が丘や古市まで包みこむように市街地は拡大し、付図4の近鉄長野線沿線でも富田林駅を中心に南北に市街地の拡大が進み、また東南に石川を渡っての都市化も見られる。

 平成七年国勢調査の人口集中地区において、富田林市域の東西に分かれていた富田林駅周辺と金剛団地からの市街地が初めて連続している。これはこの間、すなわちバブル経済期における金剛東地区の開発が急激に展開したことを反映するものである。同様に富田林市域北部においても、梅の里から隣接する美原町さつき野にいたる住宅地が新たな人口集中地区を形成している。

 このようにこの地域では、昭和三五~四五年の高度経済成長期には鉄道沿線の都市化が進み、次の昭和六〇年にいたる低成長期には金剛団地や泉北ニュータウンに代表される大規模開発が主に展開している。次いでバブル期を挟む平成七年までの開発の特徴は、鉄道沿線からの市街地の遊離とでも表現できる。先の時期の泉北ニュータウンではまだ泉北高速鉄道の建設を伴い、鉄道沿線の開発とも位置づけられたが、この時期には金剛東ニュータウンなど南海高野線と近鉄長野線の中間の丘陵地を埋める形で住宅開発が展開している。この地域はたとえば整備が進められた国道三〇九号にも近く、いわば自動車指向の郊外化であったともいえよう。もちろん、都心などへの通勤にはバスと電車を乗り継いでの通勤手段が基本となるが、それ以外の買い物やさまざまなサービスの利用には自動車の利用が基本となるものであろう。このような郊外住宅地では、職場が遠距離、渋滞、駐車などの問題がある都心などである場合以外、たとえば郊外間の通勤ならば、通勤手段としても乗用車の利用が多いであろう。日本の大都市圏でも、アメリカの郊外や日本の地方都市と同様、公共交通から離れた市街地の形成が今や進んでいることをこれは示している。