図19は昭和初年の富田林周辺における道路網を示している。コンパクトにまとまった道路密度が高いところは、たとえば富田林寺内町やその東北の新堂、東高野街道に沿った南西の錦郡など旧集落内部で道路が網状になっているところである。しかし、それ以外の農村部では、たいていの地域では旧街道を踏襲した国道や府道がおおよそ格子状のネットワークを形成している。富田林市域では、北東から東高野街道が石川の谷に沿って南下し、いくつかの集落の網状道路がその近隣に見られる。図の西方でも北から南下する何本かの道路が西高野街道に収斂してゆき、最終的には河内長野で先の東高野街道と合流する。
図の上部中央から左下方向に、道路密度が低く図全体の疎密でいえば疎の部分がある。ここでは道路のパターンが大きく異なり、西北から東南への数本の道路のみからなる。ここは羽曳野丘陵に当たり、先の斜行する道路は丘陵を越える道路群である。金剛東ニュータウンを通り羽曳野丘陵を横切る現在の国道三〇九号はこのルートの近代化されたものである。このパターンの東側には上述の石川谷の南北ルートがあり、さらに石川右岸では村落部の南北の谷筋を基本とする道路ネットワークが見られる。
次の図20は昭和六〇年(一九八五)前後の道路網で先の図19からおおよそ五〇年後の姿である。都市化の展開により、先の図19では一部の集落内でしか見られなかったような道路密度の高い地区があちこちに見られる。これらのほとんどが住宅開発による団地群である。富田林寺内町も道路パターンだけから見ると同様に見える。またこれらの新しい住宅地はむしろ丘陵部に展開している。その結果、先の昭和初期の図19に見えた道路の疎密の差が少なくなっていることがわかる。まだ市域南部の農村部などではこのような地区が少なく、都市化の前線がどの位置かもよくわかるものとなっている。
また、図の中央上部(市域の西北)ですっぽりと道路網が抜けているところはゴルフ場である。かつて週末のみに通う場所としてゴルフ場開発が行われた羽曳野丘陵において、そのゴルフ場の隣接地に今や住宅地が開発され、毎朝通勤者が大阪に向かっている。一方、このゴルフ場の西側では、よく見ると道路が囲むブロック(街区)が他の住宅団地より少し大きいことがわかる。同様の街区は近鉄富田林駅の東北にも南北に長いものが見られる。これらは先のものが美原町の大阪木材工業団地であり、後者は富田林中小企業団地である。ともに工業・流通団地として、区画分割は一戸建てなど住宅地スケールでなく工場や流通センターの敷地を単位とするため、結果的に街区の大きな特徴が道路パターンに表れている。