図22は富田林市内の鉄道駅における駅乗降客数変化を示したグラフである。昭和四〇年代後半から乗降客の急激な増加を見た南海高野線の金剛駅は、住宅開発が見事に反映されており、図22の右下のグラフに示されるように、上りの難波方面に定期で乗車する利用者は四〇〇万人を超えている。これは下り方面の定期利用者が七〇万人ほどであるのにたいしてきわめて多い。これにたいして近鉄長野線の富田林駅は、下り方面からの定期外利用者に典型的に示されるように、昭和五〇年代をピークに乗降客の減少を見ている。その理由としては、モータリゼーションの展開、商業施設が幹線道路沿いに郊外化したことに伴う中心地としての相対的な地位低下などが考えられる。
このように、中心地としての富田林の相対的な地位低下は、住宅開発の展開による人口増加と並行したものであった。すなわち増加した人口は、大阪への通勤者を世帯主とし、買い物などでも大阪と日常の生活で結びついた行動パターンを持つ人々であった。石川谷という幹線ルートの中心地であった富田林中心市街地は、大阪に直結する開発の堺方面からの延長として新たに建設された市域西部の住宅地の人々からは、丘陵を越えた裏側の感覚でとらえられることとなったのである。