第一節では、富田林における第二次大戦後の人口増加とそれをもたらした都市化の展開について述べた。ここでは、こうした大きな変化がどのような人々によってもたらされたのか、人口構成の面から考えてみたい。
人口増減には出生や死亡による自然増減と人口移動による社会増減があるが、当然富田林市のこの急激な人口増加は住宅開発により転入してきた人々によってもたらされた社会的な増加である。その転入前の居住地を市区町村別で見ると(表96)、昭和六三年(一九八八)には、堺市が一一七三人ともっとも多く、第二位の羽曳野市の三六四人を大きく引き離している。堺市域の広さ、人口規模の大きさもあるとはいえ、隣接地域としてのつながりの強さも示しているといえよう。同じく隣接する市では羽曳野市のほかに、大阪狭山市が三六二人、河内長野市が三〇八人で、三〇〇人を超える。松原市は二四四人と少し差があるので、堺、羽曳野、大阪狭山市ならびに河内長野市が富田林市への主な転入地といえよう。以下の松原市なども含め、大阪南部方面からの郊外に向かっての住居移動であり、六位以下には大阪市の平野区や東住吉区も並ぶ。
| 市区町村名 | 人数 | |
|---|---|---|
| 1 | 堺市 | 1173 |
| 2 | 羽曳野市 | 364 |
| 3 | 大阪狭山市 | 362 |
| 4 | 河内長野市 | 308 |
| 5 | 松原市 | 244 |
| 6 | 大阪市平野区 | 202 |
| 7 | 大阪市東住吉区 | 159 |
| 8 | 藤井寺市 | 150 |
| 9 | 大阪市住吉区 | 138 |
| 10 | 南河内郡美原町 | 132 |
| 11 | 東大阪市 | 123 |
| 12 | 八尾市 | 108 |
| 13 | 南河内郡河南町 | 107 |
| 14 | 大阪市住之江区 | 80 |
| 15 | 大阪市阿倍野区 | 79 |
| 16 | 和泉市 | 77 |
| 17 | 柏原市 | 73 |
| 18 | 大阪市西成区 | 62 |
| 19 | 高石市 | 57 |
| 20 | 吹田市 | 54 |
| 21 | 豊中市 | 52 |
| 22 | 枚方市 | 48 |
| 23 | 茨木市 | 48 |
| 24 | 南河内郡太子町 | 42 |
| 25 | 大阪市生野区 | 40 |
| 26 | 大阪市天王寺区 | 32 |
| 27 | 寝屋川市 | 32 |
| 28 | 南河内郡千早赤阪村 | 32 |
| 29 | 守口市 | 31 |
| 30 | 大阪市西区 | 29 |
| 31 | 大阪市東成区 | 28 |
| 32 | 大阪市淀川区 | 27 |
| 33 | 箕面市 | 27 |
| 34 | 大阪市浪速区 | 26 |
| 35 | 岸和田市 | 26 |
| 36 | 門真市 | 22 |
| 37 | 泉大津市 | 20 |
| 38 | 大阪市南区 | 20 |
| その他の府下市区町村 | 331 | |
| 合計 | 4965 | |
注1)表には転入者数が20人以上の市区町村を取り上げた。
2)表中「大阪市南区」は現大阪市中央区の一部。
次に、堺市内のどの地区から転入してきた人が多いのかを昭和六三年三月の転入者を取り上げ、もう少し詳しく見る。もっとも多いのは南野田で、北野田周辺や泉北ニュータウンの三原台・新檜尾台、金岡町・新金岡・中百舌鳥など南海高野線と泉北高速沿線が多い。
こうした移動は、子供が産まれ成長することに伴う、地価の安いさらに外側の郊外における、より大きな家の取得による転居が多いと考えられる。この人口の外方への移動という側面とともに、大阪を中心に近鉄南大阪線沿線や南海高野線といった鉄道沿線に沿った扇形の地域のまとまりも見いだせる。つまり大阪を中心に職場への利便性やこれまでに慣れ親しんだ一定の沿線で外側へと人々が移動してきたことがわかるのである。また、こうした移動は、不動産情報が沿線ごとに提供されることにも影響されている。外側の河内長野市のみは隣接地であるがための人口移動関係とみなせる。