二 商店の分布と買い物

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 前述のような通勤という富田林市民の生活に見られた変化は、人口の郊外化とともに、就業先という都市機能の郊外化による変化でもあった。同様に富田林の商業にとっても、郊外化は人口の増加による需要の拡大とともに、大型のスーパーや専門店などに代表される商店の立地の大きな変化でもあった。

 図32は、平成一四年(二〇〇二)現在の富田林市とその周辺における売場面積一〇〇〇平方メートル以上の大型小売店の立地を示している。近鉄長野線富田林駅周辺にも一万平方メートルを超えるスーパーをはじめ、いくつかの大型小売店が見られる。このスーパーは駅西側に昭和五一年(一九七六)に開業した全国チェーンであり、後で見るようにそのころの駅西側はまだ工場とアパートなどが散在する駅裏側であった。図で黒の記号で示した昭和五四年以前に開設された大型小売店を見ると、市域内では当時は大型小売店としても旧市街地側の駅前に昭和三七年開店の店舗があるほか、喜志の家具店、金剛団地の小売市場(昭和四二年開設)とスーパー(昭和四五年開業)が見られるだけであった。なお、平成一四年現在のスーパーなどの大型小売店を示すこの図には含まれないが、平成一〇年の閉店まで東京系全国チェーンのスーパー(昭和四七年開店)が旧市街地の北にあり、現在もこの商業施設では三〇店ほどの小売テナントが営業している。図の左端の大型小売店は、現在の大阪狭山市に立地する富田林駅西側の店舗と同じ全国チェーンのスーパーで、昭和五二年に開店している。このように旧来の中心地であった東の旧市街地と、昭和四〇年代に新たに人口が急増した西の金剛団地とその周辺に、この時期には大型小売店が開設されている。これらはともに駅の周辺に立地するという特徴を持つが、図32にグレーや白の記号で示したその後の大型小売店の立地展開は、モータリゼーションを反映し、主要道路沿いなどへの立地の傾向が顕著となる。その傾向を代表するのは、富田林市内で現在最大の大型小売店で、国道三〇九号に沿った金剛東ニュータウンに立地する、全国チェーンを核テナントとする平成元年に開設された店舗である。こうして、商業機能の郊外化は、大阪などに出向かなくてもかなり品揃えのある大型小売店が富田林やその周辺に立地したという利便性の向上とともに、富田林市内においても、旧市街地や駅前からの商業の郊外分散が展開したという地域の変化をもたらしている。図32で旧市街地周辺に見える最近開設された大型小売店についても、ミクロに見れば郊外の道路を指向した立地となっていたり、自動車利用者への対応を行っている。同様の傾向は、駅前にあった富田林郵便局の市役所南への移動、寺内町の西側にあった富田林税務署の駅の北部への移転など公共施設にも見られる。

図32 大型小売店の分布

 付図5は、昭和四七年の住宅地図から抜き出した商業などの施設を、少しそれより古いが、昭和四一年の都市計画図におとしたものである。先に述べた駅西側のスーパーもまだ開設前で、資材置き場があり、その周辺には農地が広がっていたことがわかる。このような土地利用の変化は、別添の三年次の土地利用図(付図1~3)からも読み取れる。それにたいして、駅前に当たる駅の南側、当時の国道とその南部、東南の金剛大橋に延びる楠公通にかけてスーパーなどの大型小売店も含め多くの店舗が見られる。高度成長期を反映した電器店や家具店(図の凡例では物販小売店)なども多い。旧寺内町の富田林町の北部から本町にかけて(図の中央部)も、北の駅に向かう本町通や中央通の南北道路を中心に、食料品やサービス業、その他の物販小売店が多く見られる。昭和四四年の坂口啓子の調査によれば、両者のうち、駅前および東南の楠公通にかけては昭和三〇年代に入って開業した店舗が多く、昭和三五年以降、四四年までの間にスーパーや寄合百貨店などの六つの大型小売店が開店した。一方、後者の本町通では、昭和元年から二〇年ごろまでに開業した商店が多かったようである。明治三一年(一八九八)の河陽鉄道の柏原・富田林間開業以降、寺内町に加えて駅前に商店が立地してきていた様子がよくわかる。

 一方、旧寺内町内部では、東方にも通じる堺筋に、付図5の凡例での物販小売店がもっとも多く並んでいる。この通りは寺内町の中核となる興正寺別院や妙慶寺の北側に位置し、東西方向のメインストリートであった。図に見られる物販の商店は仏壇店や文具店、日用品などで、洋服店(凡例では衣料品店)も見られる。南北道路では中央の城之門筋(城之中筋)にあまり店舗が見られず、東の三和通(寺内町時代の旧称は亀ヶ坂筋で、この通りの三つの親睦会がまとまって三和会を組織し、これにちなんで三和通と呼ばれるようになった)で、東高野街道が寺内町に入る一里山口の高札場のあった辺りや、上述の堺筋の近くに店舗は多く立地する。三和通と堺筋との交差点北西には銀行が立地していた。このように北の一里山口から三和通を南へ通り、堺筋で西口へ抜ける寺内町以来の中心となる街路には、この時点でも多くの店舗の立地を見ることができる。また先の昭和四四年の坂口による調査によれば、なかでも中心となる堺筋では明治以前から昭和まで各時代に商店が開業しており、三和通や堺筋の東部に大正期に開業した店舗が比較的多い。一方、堺筋を東に抜ける旧街道方面ではこの時点ですでに廃業していた店舗も目につく。これも鉄道開通など交通体系の近代化の影響であろう。

 付図6は、現在(平成一三年)の住宅地図から商店などの記載をひろい、都市計画図におとしたものである。先の昭和四七年の図に比べて、寺内町に当たる富田林町やその北の本町において店舗が明らかに減少し、旧寺内町を中心に駐車場が目につく。この間の人口の分散とモータリゼーションは、徒歩や鉄道による顧客を減らして寺内町やこれと駅を結ぶ道路などの商店の減少を招いた。また、徒歩交通を基礎として形成された高密度な旧市街地では、駐車スペースの不足をもたらしたことが明らかである。駅北側でも大型小売店などが立地するとはいえ、やはり駐車場の多さが目を引く。また、旧市街地東北部にも都市化が進み、駅の東にも飲食店が多く見られるようになっている。楠公通より北東のこの辺りは、先の昭和四七年の付図5では、市営若松団地が水田の中に建設されていた。なお付図5では、商店や集合住宅の記号は昭和四七年の住宅地図によるが、付図5自体のベースマップは、昭和四一年都市計画図によるため若松団地の記入はベースマップにはない。また寺内町西側には、税務署(付図6では移転)・法務局出張所・電報電話局・青果などの卸売市場・映画館など、近代以降に地域中心としての施設群が立地している。

 このような商業の変化とともに、市民の買い物先に見る購買行動も変化してきている。現在の状況を大阪商工会議所の平成九年の調査(『大阪都市圏住民の買物行動』)で見ると、都心百貨店などをもっとも指向すると思われる贈答品の買い物先でも、一貫して大阪市内主要ターミナルへの出向率は昭和六三年以降減少してきている。最多額支出をどこで行ったかでは、大阪の郊外全般において、大阪市内の商業地区での買い物先は意外に少なく、一位に大阪市内の商業地区がくるのは豊中市が梅田を示すだけで全般に郊外の商業地区でのまとめ買いが見られる。富田林市では難波が二〇%で三位に入るが、一位の買い物先は「その他の地区」で四二%、二位が金剛・河内長野地区で二六%と郊外でも分散した傾向が見られる。なお、地元出向率も五〇%に達しない。最多額出向先全体(ここでの地区集計は富田林・河内長野・大阪狭山市をあわせたもの)では、難波が一八・七%でもっとも多く、次に多いのは、「富田林市内のその他の店」で一四・九%、そして国道三〇九号に沿った金剛東地区にある市内最大の大型小売店(一二・六%)となる。近鉄富田林駅周辺は二・七%にすぎない。「その他の地区」や「その他の店」が多いことは、幹線道路に沿った大型の専門店などに購買先が分散していることを示すわけで、都心から郊外の大型ショッピングセンター、郊外型の専門店といった多様な購買行動がここから見えてくる。

 一方、以前の状況を見る資料としては、昭和四九年に富田林市と富田林商工会がアンケートをとった『消費者購買動向調査』がある。これによると、市外への流出率がもっとも高い商品は、背広やスラックス・ブレザーで八一%が市外であり、そのうち難波・心斎橋が二五・五%、阿倍野が一五・八%となっている。先の大阪商工会議所の調査によると、これらの都心地区への富田林・河内長野・大阪狭山市をあわせた地区からの平成九年の出向率は二二・九%と半分近くに減少している。現在は郊外の幹線道路沿いにある紳士服専門店で購入されることも多いことを考えると、この間の商業や購買行動の郊外化という地域の変化の大きさが感じられる。昭和四九年にそのほかに市外で購入されることが多かったのは、ハンドバック・鞄や呉服で、ともに七〇%を超えている。食料品を除くと、富田林市内の旧市街地周辺で購入が多いのは、たとえば先に触れた楠公通の北側にあった東京系のスーパー(昭和四七年開店、平成一〇年閉店)で、婦人服でスーツ・ワンピース・スカートでも購入率が二〇%を超え、子供服・ベビー服が三三・八%、肌着など日常衣料品では三八・六%となっている。こういった日常的な商品はすでにこのころには市内のスーパーでの購入がかなり多かったことがわかる。なお平成九年の婦人服の出向率は、難波・心斎橋・阿倍野に三一・六%で、昭和四九年のスーツ・ワンピース・スカートのこれら都心への出向率三六・九%よりもやはり低下している。また先の店舗分布でも見られたとおり、家庭電気品や家具、自転車などでは昭和四九年には富田林駅周辺での購入が一〇%を超え、特定の買い物場所としては比較的高い割合を示している。

 この昭和四九年の調査では市内の地区別の購買動向も報告されている。そこからは市内でも金剛団地地区がかなり異なる購買動向を示している。先の婦人スーツ・ワンピース・スカートでも、富田林駅方面での購入はなく、難波・心斎橋が五二・二%、阿倍野が三%、南海高野線沿線で堺東方面でも二〇・九%の購入が見られる。このように郊外スーパーでの購入は見られるが、基本的に鉄道利用であり、現在のように鉄道沿線を離れた車による購買行動は見られない。なお、金剛駅西北の大型スーパーの開店はこの調査の三年後である。