旧富田林町の農家総数は昭和二五年(一九五〇)から昭和三五年にかけて、二二二四戸から二一三四戸へ、指数九六と減少し、旧東条村では三三五戸から三四三戸へ、指数一〇二と増加した。両年次を比較した農家数の増減指数では、南河内郡全体でも九六で、大阪府平均の九二を上まわっている(表114)。旧南河内郡内でも北西部の町村に比べて、旧富田林町、旧東条村とも多くの農家が残存していた。昭和四〇年ごろまでは、主食自給が重要問題であり、米作の振興という基本政策があったから、農家数は必ずしも減少せず、南河内地方では農家数は増加または微減という地域と明らかな減少という地域が見られた(図34)。
その時代、大阪府下でもかなりの開拓農家の緊急入植が見られ、羽曳野丘陵の旧富田林町域では、昭和二三年までに入植があった五地区で、昭和二五年現在で、小金平=二〇戸、西山開拓=六戸、富田林開拓=一〇戸、旭ヶ岡農場=七戸、廿山(つづやま)第三=四戸の合計四七戸の開拓農家が記録され(『富田林市誌』)、昭和三三年には、旭ヶ岡=八戸、九四反、小金平=一六戸、一六三反、西山=七戸、八一反の合計三一戸の開拓農家と三三八反の作物収穫面積があった。開拓農家の経営規模は平均一〇反を超え、緩傾斜地に畑を開き、自給用のムギ、イモ類を多く栽培していたが、販売用にモモ、ブドウのわずかな果樹園もあった(農林省農地局「開拓組合別建設、入植営農概況」)。国有地であったこれらの開拓地は昭和四二年、金剛団地の計画が進捗中に、入植者に払い下げられた(富田林市農業委員会資料)。