主産地による市場支配

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トマトは昭和三五年(一九六〇)までは旧大草村や道明寺村(現藤井寺市)で、昭和四五年には旧平尾村と黒山村(ともに現美原町)で小規模な作付が多かったが、昭和五五年には消滅した。これは基本的には、保有労働力の弱体化(藤田武弘「大阪市中央卸売市場本場の産地仲買業者『青和会』による地場流通」藤島廣二・山本勝成編『小規模野菜産地のための地域流通システム』所収)や農地の潰廃(かいはい)によるが、近郊農業が大規模産地の圧力を受けて、常に作目の選択あるいは転換を迫られていることの反映でもある。

 南河内地方全体で見ると、昭和二五年に栽培面積で圧倒的に一位だったダイコンが激減し、富田林町では露地野菜類合計にたいする比率は、昭和二五年の二一%が平成二年(一九九〇)の四%に低下した。ダイコンは一般に日もちがよいために遠隔地での栽培に適する一方、重量がかかり安価であるから、長距離輸送に適さない性質があった。しかし、特に自動車輸送の発達によって長距離輸送の運賃が低下したために、遠隔地に主産地が形成され、近郊に立地したダイコン生産は消滅したと考えられる(吉田忠『農産物の流通』)。

 輸送園芸と呼ばれる遠隔地の大産地での生産が増大し、すべての作物について規模の小さいこの地域の野菜生産を圧迫してきた。かつて多様な組み合わせで、多くの野菜を生産した南河内地方あるいは旧富田林町は、農地の転用が進んで、土地資源が足らず、労働力の流出あるいは高齢化によって、飯米自給農家となるものが増えている。労働集約的な商業的野菜生産は近郊地域では大産地との競合のために困難になり(坂本英夫『輸送園芸の地域的分析』、藤田武弘「大阪中央卸売市場における地場産野菜への集荷対応」『中国農試農業経営研究資料』一一〇)、農産物の輸入拡大によって近郊野菜産地は衰退した。

 昭和四五年以降の野菜類の地位低下は国内の主産地形成に対応するものであり、このことは昭和五五年ごろに一挙に拡大したが、日本農業の広域市場の形成は昭和三五年ごろに始まり、昭和四五年以降本格化した。

 富田林市西板持の場合、特に経営規模が大きく、強い共同性が確保されて、比較的多くの労働力を農業内部にとどめて、ナスの特産地となったことは、近郊農業と遠隔主産地の性質を併せ持っていることを示す。