昭和三五年(一九六〇)の農業集落別の農家数や専・兼業別農家数が知られるので、昭和四五年以降の「農林業センサス集落カード」で得られる数値と比較して、農業の衰退が地域的にどのように進行したかを考えてみる。すでに南河内地方についての考察で明らかにしたように、昭和三五年は日本全体で農業がまだ力を持っていた時期であったのが、昭和四五年は都市化や工業化の進展によって、地域によっては農業が弱体化を迫られた時期に入っていたと考えられる。
昭和三五~四五年の一〇年間に農家数がもっとも大きく減少したのは若松町一丁目で、この一〇年間に一挙に三三になっており、これに次ぐのが加太(かた)の六一、須賀の七〇であるから、この増減指数に関して他の農業集落とは大差がある。そのほかでは、川西新家、北大伴、喜志新家、東板持、下佐備で八〇を下まわった。大部分の集落は八〇~一〇〇の間であるが、木戸山(きどやま)、一心(いっしん)、嬉(うれし)では増減がなく、北甲田=一〇四、芝=一一一、平(ひら)=一一五、中山=一一七など、増加した集落があるのも看過できない。このように、全体としては、農家数の著しい減少が見られたが、この一〇年間の農家数の増減には、著しい地域差がある。経営規模が小さく兼業農家率が高かった若松町一丁目で農家数の減少が激しかったのは当然であるが、増減指数の分布は市域の各部分で明確な規則性、地域性を示すものではなかった。
しいて言えば、その中で、丘陵西部の加太=六一、須賀=七〇、五軒家(ごけんや)=八二はまとまって減少率が比較的大きい集団である。逆に、旧東条村地域では、減少率が小さいか、中山のように大きく増加した場合がある。芝・錦織地区を除外すると、地区別の増減指数はかなり分布の幅が縮まる。減少率は若松地区と丘陵西部で大きく、市域中心に近接して交通の便がよい都市化進行地域である大伴や板持などの地区でやや大きいが、市街地の富田林・川西地区と喜志近辺で鉄道駅に近い場所で意外に減少率が小さい。逆に、甘南備(かんなび)などの佐備川上流部や佐備地区、彼方(おちかた)以南の石川右岸上流部の富田林市街から比較的離れた地区での減少率が小さいということも理解できる(図49)。