昭和四五年(一九七〇)と平成二年(一九九〇)について専・兼業別の構成を見ると、昭和四五年段階ですでに専業農家率が五%に満たない集落が一三、五%以上一〇%未満の集落が一〇を数え、五〇%を超えるのは西板持と中山の二集落にすぎなかった。市内、市外の農業外の就労機会が多い羽曳野丘陵の東西の集落で専業農家率が低い。全体として石川東岸、佐備川流域で専業農家率が高いのは鉄道駅を通じた就労機会が少ないこと以外に、競合に耐えて農業が労働力を内部に保有する力にもよる。それは野菜生産を確立しつつあった西板持や北甲田と、ミカン栽培に特化していた中山などの佐備川流域での専業農家率の高さが証明している(図53)。
平成二年には、金剛団地が進出した羽曳野丘陵周辺で専業農家率五%未満の集落は減少して、専業農家率が見かけ上回復したのは、主に零細な第二種兼業農家の減少による。佐備川流域では依然専業農家率が比較的高いが、中山では専業農家率は昭和四五年の約七〇%から平成二年の八%まで低下し、岸之本や蒲でも急落した。その中で、西板持や北大伴の野菜地域では、低下したとはいうものの、高い専業農家率が維持されている(図54)。
第二種兼業農家率が八〇%を超える集落の数は昭和四五年に二〇、平成二年には二二で、佐備川流域以外ではむしろ減少している。特に第二種兼業農家率が九〇%を超える集落数は一二から八へと減少した。
富田林市域の農業は、西板持などを例外として、もはや兼業なしに成立し得ない。