作物類別販売額一位農家率の分布

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昭和四五年(一九七〇)と昭和六〇年について、コメ販売一位の農家数を全農家にたいする比率で示すと、昭和四五年では、果樹地域である旧東条村と野菜地域である市域中央部に比率が二〇%に満たない集落が一一存在する一方、五〇%を超える集落が市域北半部を中心に一一集落ある。コメ販売が多い北部地域と少ない中南部地域の対照が著しい(図60)。

図60 コメ販売額1位の農家の率 昭和45年

 昭和六〇年では、コメ販売一位である農家率二〇%未満の集落が一七存在する一方、五〇%を超える集落は七である。旧東条村でコメを一位とする農家の率が高まり、北部を中心にして販売なしの農家率が増大し、コメ販売型農家率の低下が著しい。昭和四五年に比べて南北の対照が弱まり、均等の分布に近づく傾向を見せ、コメ販売農家が弱体化する一方、野菜と果樹の部門もコメに流れる農業の消極化を意味している(図61)。

図61 コメ販売額1位の農家の率 昭和60年

 図62は昭和六〇年に、コメ以外の商品作物生産として、施設園芸、露地野菜、果樹が一位である農家の率を重ねて示したものである。たとえば中山はこれら三項目すべてが果樹を中心に組み合わされており、西板持は昭和四五年とは逆転して、施設園芸の産品を販売する農家がなお盛んな露地野菜の農家を上まわっていることがわかる。旧東条村では、なお果樹が一位を占める率が高いが、龍泉や上佐備に施設園芸が浸透している。

 白抜きの部分は、コメ以外の商品作物の販売が一位となる農家率がいずれも一〇%未満で、水田の規模も小さいから、積極的な商品作農業に参加しない農家が多い。そのような集落が増加し、中部を中心に一九ある。平の場合、コメ販売が一位の農家率は五〇%で、ほかは果樹が八%であり、錦織の場合は総農家数二三のうち、販売額一位部門として記録されるのは、コメが一戸、露地野菜が三戸、果樹が一戸にすぎない。

図62 施設園芸・露地野菜・果樹販売額が1位である農家の率 昭和60年