一九五〇年代には、ナス生産は大阪府下の東部と南部に偏りなく分布していたが、昭和三五年(一九六〇)になると南河内地方は最大の生産地となり、昭和四〇年以降はハウス内での促成栽培が富田林市と周辺の農村に集中し特産地としての地位を確立した。
露地栽培のナスは五月上旬に定植し、初夏から中秋にかけて収穫するもので、収穫期間は長いが、他産地との競合が避けられなかった。昭和二五年には、4Hクラブなどがパラフィン紙を用いた小型トンネル栽培を導入し、ナスの促成栽培が普及し始めた。この促成栽培ナスは、大阪市場において初夏のナスの地元産の割合を高め、販売上有利な地位をもたらし、高価格が普及・拡大の要因となった。昭和三五年までは大阪市場へのナスの入荷量は四月、五月は少なく、六月と七月に多くなり、六月からは価格が低下した。促成栽培のナスは五月までの春季の高値期に出荷するものであり、その普及によって昭和四五年には大阪市場における四月、五月の入荷量が急増し、五月と六月の価格差は急激に縮小した。しかし、鮮度が重要であるナスは大阪市場において地元産の割合が高く、富田林市産のナスはある程度の価格決定力を有した。