農業構造改善事業など

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連作障害が克服されるという栽培技術上の進歩を受けて、ハウスが固定化されたことが大型化、機械化を可能にした。この固定式大型鉄骨ハウスでのナス加温栽培を中心にした野菜栽培の近代化には、昭和四二年(一九六七)から四五年にかけての近郊農業近代化施設設置事業や昭和四三年から四六年にかけての第二次農業構造改善事業などの公的な農業振興施策が影響している。

 近郊農業近代化施設設置事業では、伏山、若松、喜志、中野、錦織(錦郡)などの集落を単位とする農協などに、温室、作業場、集荷場の建設が補助対象となった。

 第二次農業構造改善事業では、その後のハウスナス栽培の基盤が整備され、北大伴園芸組合の五四棟、一万四一一八平方メートルのハウス建設のほかに富田林青果物出荷組合の野菜出荷所、北大伴の農道五五〇メートルなどが建設された(『富田林市総合計画策定資料』Ⅰ)。

 その後、桜井(四五棟、一万〇九二七平方メートル)、南別井(三七棟、一万一八三五平方メートル)、中野(二九棟、一万二四六六平方メートル)などの補助事業としての大型固定式ハウスの建設が昭和四六年から四九年にかけて進められた。これらはいずれも、灌水施設を備え、一部は加温式であった。

 注目すべきことは、市域のハウスナス栽培にあって、初期には桜井や中野など石川西岸の段丘面が分布の中心の一つとなっており、西板持は必ずしも中心ではなかったことである。

 昭和五〇年代に入ると、五一年の佐備五料(二九棟、八七九二平方メートル)、五四年の東板持(一八棟、九〇二四平方メートル)、五五年の錦織(九棟、四九七四平方メートル)、西板持(六二棟、二万二六八九平方メートル)の園芸団地が成立したが、その後六〇年度までに、西板持では、一三棟=四四三二平方メートル、一〇棟=四三八〇平方メートル、二六棟=五一五五平方メートルの三団地が国や府の補助金を受けて建設された。市域の北部から中部の段丘上に一一団地が成立し、昭和六二年で七六戸がこれに参加していた。昭和五〇年代に西板持とその周辺地域が、各種補助事業の対象として、富田林市のハウスナスの中核となっていったことが示される(図63・表134)(富田林市農業協同組合『富田林なすの歴史』)。

図63 園芸団地と大型固定式ハウスの分布と規模(昭和60年)
表134 園芸組合の普及
地域・組合 年度 参加農家数 棟数 面積 事業資金など
m2
北大伴園芸組合 昭和43年 7 54 14118 第一次農業構造改善事業
桜井園芸組合 昭和46年 10 45 10927 大阪府農業振興事業
南別井園芸組合 昭和46年 7 37 11835 大阪府農業振興事業
中野園芸組合 昭和48年 7 29 12466 大阪府園芸団地整備事業
佐備五料園芸組合 昭和51年 5 29 8792 圃場整備事業
東板持園芸組合 昭和54年 5 18 9024 圃場整備事業
錦織園芸組合 昭和55年 5 9 4974
西板持園芸組合 昭和55年 15 62 22689
グリーンハウス園芸組合 昭和57年 5 13 4432
共進園芸組合 昭和58年 5 10 4380
西板持園芸組合 昭和60年 5 26 5155

注)『富田林なすの歴史』より作成。

 これらの補助事業は個人を対象にするものではないから、各集落を中心にした園芸組合などが事業主体となる。したがって、これらの事業は単に施設の近代化、大型化を意味するだけではなく、ナスの生産と販売の集団化、組織化を伴っている。昭和三九年ごろからの富田林出荷組合連合会のほかに、四八年までの四園芸組合を中心に富田林市そさい振興会が結成され、昭和五六年には富田林市農協なす部会がナスに関する諸活動の主体となった。

 表134に見るとおり、北大伴園芸組合が農業基本法の施策である農業構造改善事業として資金を導入して以来、大型ハウスによるナス栽培は単独の農家でなく、園芸組合を結成して公的な資金を受け入れる形で行われた。昭和四六年以後の活発化はコメの生産調整開始時期と対応している。