佐備川流域の果樹栽培の衰退

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昭和四五年(一九七〇)以降の「農業センサス」によって旧東条村域の佐備地区や龍泉を中心とした佐備川上流地区で盛んであったミカン栽培の変化を追跡する。

 東条地区では、ミカン園一ヘクタール以上の農家は、昭和三五年には四戸=二%であったものが、昭和四五年には二一戸=九・三%と規模が拡大したが、平成二年(一九九〇)には五戸=四・五%に後退した。逆に三〇アール以下の小規模なミカン農家は、昭和三五年には一三五戸=六八%、昭和五五年には九六戸=四六%、平成二年には四七戸=四三%となる。一戸当たりミカン園の平均規模は昭和二五年の一九アールから着実に増大して、昭和四五年の四四アールで頂点に達し、その後平成二年の三八アールまで漸減している。

 旧東条村の農業集落別にこの間の推移を見ると、最大の果樹園面積を持つのは、中佐備と龍泉の両集落であるが、昭和四五年段階でそれぞれ二九三〇アールと二八二〇アールであったものが平成二年の販売農家(経営面積〇・三ヘクタール以上または販売額五〇万円以上)については、中佐備で一四二〇アール、龍泉で一三六九アールへと減少している(図64)。これにたいし、イネ、露地野菜、ハウス野菜の多少の増加はミカンの減少を補うものではない。

図64 東条地区果樹園面積の増減

 ミカン栽培は傾斜地で行われるために、市況が悪化しても他の作物に転換できないし、永年作物であり、収穫が可能になるまで年数を要するという意味でも、土地利用としては硬直性を伴って転作は困難である。

 ミカン園が存続する一つのあり方は観光農園である。嶽(だけ)山の農道は山頂の宿泊設備との関連で拡幅されているために、大型自動車の通行が可能で、沿道の果樹園ではもぎとり型の観光ミカン園が成立した。平成七年現在、二つの観光農園が近鉄とタイアップし、ミカン狩り以外の観光的要素も取り入れて営業している。

 一方で現在嶽山の東斜面の植林地は、転作奨励金によるミカンの樹の伐採、植林の結果である。

 ミカン園は耕作放棄されるか、植林されるか、存続しながら観光農園化するか、あるいはそのまま経営を続けるかという選択肢のほかに、大規模な農地造成工事の対象という選択が場所によっては可能となった。それは地形環境に関係するし、保有労働力を中心とした農家の経営能力がもっとも重要な問題となる。