その後ミカン園面積が縮小し、栽培農家が激減すると、これらの施設は使用されなくなった。他の大産地での農業協同組合主導の計画生産・出荷と対照的に、一般にこの地域では、選果も貯蔵も個人で行われた。貯蔵は、ミカンをセイロと呼ばれる浅い四角の木製の箱に並べ、これをタンス状の棚に納める。個人で貯蔵小屋を持ち、セイロにも規格はなく、大きさも一枚に納める量も農家によって異なっていた。
このようにミカンの貯蔵も出荷も個人が仲買いを通じて行う形態が多かったが、みかん選果所や共同の貯蔵所が建設されたことで、共同出荷・販売の条件を整備する意味があった。
地域農業にとって最大の貢献をしたのは、農道の建設であったが、構造改善事業をきっかけに、多くの農家での収穫その他の運搬用のモノレールの設置も各ミカン園内で個人的に行われた。従来、収穫期には雇用労働による人力で行われていた輸送手段の近代化によって、労働負担が軽減され、規模拡大が可能になった。
昭和四〇年度までの第一次農業構造改善事業では、ミカン栽培の将来性が期待されていた東条地区の経営環境の改善に重点的に補助金を得たのである。
これに続く昭和四五年度を終了年次とする第二次農業構造改善事業は、段丘部における野菜栽培の近代化のために行われたもので、ハウス、温室、集荷場、作業場、農道の建設などを目ざしたものであった。
同じような補助事業は、より温暖な西南日本の各地に主産地を形成し、結果的に温州ミカンの過剰生産を招き、泉南、南河内のミカン栽培は産地間競合に勝ち残れないことになる。野菜の場合のように、都市近郊の利点は大きくなく、自動車の普及、道路の整備が進むことで、遠隔の産地から大量のミカンが流入する流通形態が確立し、自然条件に恵まれず、経営規模の小さい旧東条村などのミカン栽培は苦境に立つ。
旧富田林町では、ミカン園の平均規模は昭和五〇年(一九七五)の最大時で約二〇アールにすぎなかった。三〇アール以上の経営は常に少なく、ミカン栽培の中心からは離れた存在であった。