ミカン園が最大規模に達していた昭和四五年(一九七〇)と平成八年(一九九六)現地調査の二万五〇〇〇分の一地形図を比較すると、佐備、中山、岸之本、龍泉、甘南備にかけての富田林市域のもっとも東南の部分で、地形の改変工事によって小起伏がなくなり、等高線の密度が低下し、自動車の通行可能な直線的な農道で区画された畑地が確認される。嶽山頂上から東方を展望すると、かつてのミカン園と谷地田が平行して南北に延び、東西に配列する景観が、規則正しい方形の畑地に一変している。樹枝状の谷の斜面のミカン園と谷底の谷地田に代わり、緩傾斜の主として畑地と一部果樹園からなる新しい農地が造成された。
昭和六一年着工のこの事業は「府営農地開発事業 東条地区」と呼ばれ、平成五年には計画地区南端に富田林市農業公園が開園している。千早赤阪村森屋に通ずる府道狭山森屋線の南、府道甘南備川向線の東で、中山の集落から南へは地区の東端を通って農免道路が建設されていた。千早赤阪村境近くまで南北に延びたこの地区は約九〇メートルの高度差のある丘陵地域で、マツを主にした雑木の山とミカン園および谷底の谷地田が交錯し、コメの生産削減とミカンの不況という状況で、急傾斜と過小な農地が営農を困難にしていた。
山林約八三ヘクタール、谷地田約一八ヘクタール、樹木畑約二・三ヘクタールを含む一〇六ヘクタールの土地の、尾根を削り谷を埋めるという形で、畑約四〇ヘクタール、樹木畑約一五ヘクタールを造成するほか、水田一二・六ヘクタール、樹木畑二・三ヘクタールの圃場整備を行って、合計六〇ヘクタール強の農地を造成・整備する計画である。農地内には、幅員三~四メートルの農道、土壌改良、暗渠排水、ポンプ揚水を行い、畑にはホース、水田には開水路で灌漑している。単なる圃場整備ではなく、新規開墾や土地改良、道路や排水路の整備など、経営規模の拡大と基盤整備のための大規模な事業である。
地区内では、合計二〇六戸の関係農家のうち、〇・五ヘクタール以下の零細規模の農家が五五%を数えていたが、事業完成後は農事組合法人四と農家九二戸に削減し、農家の五三%、四九戸は一~二ヘクタール、七%、六戸はこの地域としては最大級の二~三ヘクタール規模を中心とした構成が考えられた(図65)(大阪府『府営農地開発事業東条地区概要書』)。
これまでの小規模な水稲栽培と不振のミカン栽培から脱却して、野菜の大幅な導入が想定されてきた。
野菜では、表作として、ナス一九ヘクタール、キャベツ一三ヘクタールを主とし、果樹は、ブドウ六・三ヘクタール、モモ三・五ヘクタール、ウメ三ヘクタール、ミカン二ヘクタールが計画され、ミカンから他の果樹への転換を目ざす。裏作として、キュウリ、イチゴなどが考えられた。ナス、キュウリ、イチゴは施設園芸としてハウス内で行われる性格のもので、特に、ナスとキュウリの組み合わせは西板持を中心としたハウスのナス特産地からの波及と考えられる。
多額の資金を投入しているが、この計画に参加している農家の場合でも、労働力の確保は深刻な問題であり、造成された農地の有効利用は必ずしも楽観できない状況である。