樹木畑の減少

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「農林業センサス」では、植木類の扱いは調査ごとに変更があり、継続的な資料を得ることは困難であるが、土地利用の樹木畑と類別収穫面積の種苗・苗木類あるいは花き・花木類の項目からある程度の推定は可能である。その市町村別統計では、昭和四五年(一九七〇)の類別収穫面積の種苗・苗木類は、池田市で三八ヘクタール、河南町七ヘクタール、八尾市、富田林市でそれぞれ五ヘクタール、美原町で四ヘクタールなどが記録されている。花きと種苗・苗木類とを合わせた面積を見ると、池田市が四五ヘクタール、河南町が七ヘクタール、富田林市が六ヘクタールとなっている。八尾市の三〇ヘクタールには花きが多く含まれるが、信貴山麓に植木園が多い。

 五軒家では、昭和四五年には花き・花木類は〇で、種苗・苗木類は五ヘクタールあった。以下合計の数字を挙げると、昭和五〇年=一二・二ヘクタール、昭和五五年=一五・六ヘクタールと増加したものが、昭和六〇年=一三・六ヘクタール、平成二年(一九九〇)=一一・八ヘクタール、平成七年=一・六ヘクタールと減少した。植木植栽面積の減少と平行して、田の面積も平成二~七年の五年間に一一・八ヘクタールから、四・三ヘクタールへと減少し、農家数そのものも同様に減少した。周辺の加太地区などに比べて住宅地化が遅れたこの地域に大規模な宅地開発が行われたからである。

 しかし、河南町中では、昭和四五年に四・二ヘクタール、以下昭和五〇年=七・六ヘクタール、昭和五五年=六・五ヘクタール、昭和六〇年=一〇・七ヘクタール、平成二年=一三・七ヘクタール、平成七年=一二・四ヘクタールと平成二年まで急増し、平成七年にようやくわずかに減少したのである。これは、平成七年は別にして、五軒家や菅生での減少を中や南接する馬谷などで補完した形である。羽曳野丘陵西部の都市化地域の外側で最後まで都市化に抵抗して存続した植木園が都市的土地利用との競合に敗れて、より外側の地域に移転した事例である。

 それは都市化だけで説明できる問題ではなく、他の集約的農業と共通する労働力の高齢化、近隣地域での一戸建て住宅の建設頭打ち、高度成長期の庭木需要が経済停滞により縮小したことなども重要な要因である。