富田林におけるグラスボール製造の起源は明治四〇年(一九〇七)ごろに始まるとされるが、順調に成長したものが、昭和初年の大恐慌時に、主たる輸出先であったアメリカ合衆国市場の不振によって衰退し、第二次大戦後の復活を待たねばならなかった(『富田林市誌』)。その後生産・輸出は順調に回復し、三〇年代初めまでの生産額については、表136に示した数字が残る。
年次 | 全国 | 富田林 |
---|---|---|
昭和24年 | 約2億円 | |
昭和25年 | 約6億円 | |
昭和26年 | 約10億円 | |
昭和30年 | 約10億円 | 約7億円 |
昭和31年 | 約9億円 | 約6億円 |
昭和32年 | 約8億円 | 約5億円 |
昭和33年 | 約4億円 |
注)昭和26年まで『富田林市誌』、昭和33年まで富田林市『新市建設計画総説・基礎調査』より作成。
概数にすぎないが、昭和三〇年(一九五五)を頂点に、その後は減少に向かい、昭和三〇年代後半には米国市場が縮小して、激減した。昭和四〇年代でも転廃業、企業規模の縮小が進み、生産は減退した。全国の輸出額の推移でこれを見ると、昭和三一年に八億三三〇〇万円の輸出があり、これを一〇〇とするとその指数は多少の浮沈はあるが、昭和四〇年に四九、四三年にやや回復して六一となっている。この間に米国への輸出は一貫して全体の六〇~七〇%を占め、ヨーロッパ諸国がこれに次ぐ(大阪府立商工経済研究所編『大阪の中小企業―二〇年の歩みと当面する問題』。以下、特に断らない場合も同じ)。