竹籠

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起源が明らかでないが、新堂地区には古くから竹細工製造が行われていて、日常生活用品、農具などとしての各種の籠が盛んに作られていた。農家の余剰労働力を活用して現金収入を得るためであったと考えられる。江戸時代から明治以降、安定した地方市場に販路を有したのである。

 原材料の竹は石川流域の特に西岸の段丘崖には豊かに繁茂していたから、労働力と伝承された技術、販路、原料が確保されて、この地域の地場産業として確立していた。グラスボール製造が比較的新しく、市場も海外であり、原料供給も地域外からの移入により、市況も不安定であったのとは事情を異にしていた。

 第二次大戦中の衰退は労働力不足が主たる原因であるが、戦後は技術の継承が必ずしも円滑に働かず、まったくの手作業としての竹籠製造は、技術がより単純で、アメリカなどに市場が拡大した竹すだれ製造に転業する者が多くなったという。昭和二七年(一九五二)当時、減少したとはいえ、竹籠製造に関わる者は新堂地区で一一四人を数えた(『富田林市誌』)。