竹籠製造の原料と技術および労働力を活用する形で、明治一〇年(一八七七)ごろ、京都伏見の竹すだれ職人から技術が伝えられて、富田林での竹すだれ製造が始まったとされる。国内市場向けであったものを、明治以降海外輸出の試みがなされたが(『富田林市誌』)、手工業の一般的な問題として製品の低品質と規格不統一のために、輸出産業として安定しなかったのに加え、経済情勢の問題があった。終戦後はアメリカ軍兵士が持ち帰り日本趣味の一端を担ったのを契機にインテリアとして評価され、輸出産業として発展した(富田林市『新市建設計画 総説・基礎調査』)。
当初は新堂地区に集中していたものが、中野、錦織、須賀、伏山など市内各地区から河内長野市天野山地区などに拡散した。昭和三〇年(一九五五)以降、新規参入業者の増加と供給過剰により経営は困難を増し、倒産が続いた。昭和三二年ごろの業者数を一一〇軒前後、そのうち、富田林市内に八五軒、河内長野市内に二〇~二五軒とする情報がある(大阪府立商工経済研究所編『大阪の地場産業』二)。昭和三六年ごろからは台湾製品と競合し、昭和三八年からはビニールすだれとの競合が厳しくなったといわれる(日本地誌研究所編『日本地誌』一五)。