経営構造

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竹すだれは国内市場もあるが、発展したのは海外市場が開拓されたためであり、それだけに海外の需要と国内での生産能力に市況が大きく左右された。

 富田林市の生産額は昭和三〇年(一九五五)に六億円を超えたが、その後昭和三三年にその水準を回復するまで、輸出額の短期的な変動はきわめて大きく、これは生産量の変動によるよりも価格の不安定に支配されるものであった(表137)。最盛期の昭和三〇年の大阪府下の業者数が約一六〇あったものが、過当競争による倒産・廃業が続いた昭和四七年には元請業者が九社、下請け、内職などの業者が三〇社となり、輸出額も昭和四五年には、二億円程度に低下しており、衰退が著しい(日本地誌研究所編『日本地誌』一五)。コストの安い台湾産との競合に破れたことと当時急速に進んだ円高傾向が衰退に拍車をかけたと考えられる。

表137 竹すだれの輸出額
年次 全国 富田林市 対全国比率
億円 億円
昭和27年 9.99 3.57 35.7
昭和28年 13.42 4.23 31.5
昭和30年 18.38 6.44 35.0
昭和31年 7.25 1.77 24.4
昭和32年 6.29 2.51 39.9
昭和33年 18.00 6.72 37.3

注)富田林市『新市建設計画 総説・基礎調査』より作成。

 昭和四七年に大阪府輸出すだれ協同組合に加入していたのは河内長野市に三事業所、富田林市に六事業所であったとされる(日本地誌研究所編『日本地誌』一五)。河内長野市の二業者は従業員も五〇人前後に達する規模であるが、富田林市内では、最大の従業員二、三人規模の事業所の出荷額は極端に少なく、この資料の信頼性は低い。しかし、富田林市内の六事業所のうち、伝統的に竹加工業の中心であった若松地区には、三事業所のみが記録され、他の三業者はより南の川西、錦織、須賀に立地することを考えれば、大規模な事業所が河内長野市に立地することもあわせて、この段階で、竹すだれ製造業は他の竹製品への転換と同時に立地も移動していることは推察できる。

 昭和五六年発行の『大阪の地場産業』には、正確な年次は示されていないが、前後の文脈から昭和五〇年代前半と考えられる数値として、大阪府下の竹すだれ業者は合計二〇事業所、そのうち、富田林市が一三、河内長野市が六、河南町が一という記載がある(大阪府立商工経済研究所編『大阪の地場産業』二)。工業統計などでも、竹すだれについての独立の調査は行われていないために正確な実態の把握は困難であるが、富田林市域における縮小、立地の拡散は明らかである。

 聞き取りによれば、一般に竹すだれ製造については、就業形態も不安定な農家の副業その他の下請けが多く、季節的な農家労働との関係もあって、就業者数の確定などは難しいという。