現地ロケ編全文テキスト

■要町あさやけ子ども食堂


(「要町あさやけ子ども食堂」のテラスで)
【山田和夫さん】まあ、普通の自宅の作りだったんだけれども。テレビ局が来てさ、こんなふうに小綺麗に改装してテラスなんかも作って、子ども食堂仕様の家になっちゃってるんですよね。餌箱も作っているんだけども、雀もよく来ます。
 
(室内を案内しながら)
【山田さん】最初はね、ここだけで子ども食堂を始めたんです。和室ですし、小さな子どもも、椅子に座れない子どもなんかも使えるので、ここで子ども食堂始めたんですけども、足りなくなっちゃって。で、今度向こう側に食事できる場所を作ったんですね。
(読書室を見せながら)児童書を出版会社からいろいろ寄付していただいて、1000冊くらい集まっちゃったんで慌てて本箱を作って、「あさやけ文庫」っていうのを作ったんだよね。これね、私が看板作ったんだけど。ここで子どもたちは好きに本を読んで、あと紙芝居をやってくれるので、紙芝居をみんなここで観ます。
みんなで子どもたちと一緒に歌を歌いましょうっていうグループがいて、その人たちが来て、子どもたちにちょっと新しい曲を教えて。みんなで披露する場所がなくて、ここの階段にみんな座ってさ、で、みんなお客さんは向こう側に座ってさ。感動したよ。
【スタッフ】(もう舞台ですね)
【山田さん】舞台。子ども食堂で歌声が聞こえるなんて最高。
 
 

■すずめが丘アトリエ村跡


【山田さん】(テラスで)今、喋ってるこの庭も私の子どもの時はアトリエでした。この向かいのところに大きなお家があって、そこの息子さんが藝大だった。で、その息子さんの為にアトリエを建てたんですよ。そしたら、お友だちがアトリエ建てて欲しいっていうことで、アトリエがばたばた出来て。藝大から通う良い距離なんですね、池袋って。で、池袋にたくさんのアトリエ村が出来るんですけども。ここも、すずめが丘アトリエ村っていうのもできましてね。
 
(子ども食堂の外に出て、近所の家を指しながら)
【山田さん】ここもアトリエで、ここもアトリエだったんですよ。で、そこもアトリエだったんですよ。
【稲富文子さん】で、ここにアトリエ村の道しるべっていうのがあって。最近作られたと思うけど。
【山田さん】そうそう。じゃあ行きましょうか。
【稲富さん】行きましょう。
 
 

■本橋家


(本橋家の庭で)
【稲富さん】ほら、綺麗ですねやはり。
【本橋勇さん】うん、ちょうど今…。
【稲富さん】ちょうど咲き時。
【本橋さん】うん、良いところですね。今年は肥やしが効いたと見えて、だいぶ…。
【稲富さん】いろんな種類ですね。また、色がね。
【本橋さん】私からいうと、曽祖父。ひいお爺さん。非常に富士信仰に熱心な方で、
この時もあの富士塚を作ったのが、昭和の13年。
【稲富さん】13年。
【本橋さん】ええ。6月って後ろにに刻んでありますけど。
【稲富さん】(富士塚の石碑を見ながら)60回ってあそこに書いてあるけど、何?
【本橋さん】登山回数。講の人たちを引き連れて、先達が先頭に立って。で、登山するわけですよね。その回数が60回。「大先達」という名をもらうには、登山回数を33回やらないと大先達にはなれない。というようなことのようですね。(曽祖父の写真を見せながら)この衣装は登山、富士登山をする時の。
【山田さん】こういう格好だったんですね、昔は。
【本橋さん】ええ、御衣(ぎょい)っていうんですよね。御衣を着て、それで登山をしたと。これがお数珠。
【稲富さん】すごい。
【本橋さん】(数珠を首にかけながら)これをこう…。
【山田さん】(本橋さんの曽祖父の写真を指しながら)あ、これがそう?
【本橋さん】そうです。これをこうかけて、それでいろいろ着て、鈴を持って…。
【稲富さん】六根清浄(ろっこんしょうじょう)。
【本橋さん】そうですね、六根清浄ですね。現在の要小学校、あれは長崎第二尋常小学校だった。その当時、第一小学校って椎名町の向こうの方にあったんですよ。で、この地域にないってことで、この爺さんが骨を折ってこっちへ引っ張ったという話を聞いております。
 
(「カフェ藤香想」にて)
【山田さん】藤香想もできて何年でしたっけ。
【本橋香里さん】ええと、いま5年目ですね。
【山田さん】もうそんなになるんだ。
【本橋さん】はい。
【稲富さん】やっぱり、作りたいなというお気持ちは、何かきっかけがおありで?
【本橋さん】私はもうここが生まれ育ちなので。で、しかも、せっかくあるこの大事なものをどうやって残していったら良いかなと思って…。で、かつ、それを囲っていては別に意味がないものなので。皆さんに見ていただきながら、かつての「こんにちは」って言って誰もが入ってきて、お話を、会話を交わしながら、時には喧嘩をすることもありながら日常を送っていったっていう…そういう繋がりがあるところが欲しいなと思ったのでここを始めました。
【山田さん】お名前がさ、藤香想っていうんですか。その、「藤」じゃない。藤っていってもそんなに大きいのは(ここに)ない。
【本橋さん】かつての私の祖先が、藤をここで栽培して、で、町に売りにいった。
【山田さん】え? そうなんだ。
【本橋さん】はい。そうなんです。
【山田さん】それはなに、あの、鉢か何かで?
【本橋さん】そうなんです。鉢植えにして売りにいったそうなんですね。
【山田さん】へえ…。
【本橋さん】で、それでまああの、ちょっと財を成したというところも聞いていて。
【山田さん】ソメイヨシノっぽいけどね。
【本橋さん】それが、藤だったんです。
【山田さん】藤だったんだ。
【本橋さん】はい。
【稲富さん】「想」は「想い」にしたんだ。
【本橋さん】ええ。ここが、いろんな思いで作られているよっていうことと、繋がりがあるよ、ヒストリーがあるよということで。その想いを当てはめて「想」という字にしました。
【稲富さん】お洒落ですね。
 
 

■要町通り


(要町通りを歩きながら)
【山田さん】ここね、ほんとに桜がすごいんだ。
【稲富さん】綺麗よね。
【山田さん】うん。入学式の時、本当に綺麗なんだ。
【稲富さん】結構、早く咲いたりね。
【山田さん】(要小学校の校門を見ながら)前は「要町小学校」だったんだけど、統廃合になって「要小学校」。来たー。ちっちゃいの、来た。
【稲富さん】可愛い子たちが来た。で、ここの通りが本当にこんな(両腕を1mほど広げて)もんでしたね。拡がる前は。そして、その辺に銀行があったり、いさみ屋さんて、今あっちにいっちゃったけど、そこら辺にあって。それで小さなお店がいっぱいあって。
それがこの(手書きの)地図に載ってますけど。お友だちのお家も、新聞屋さんやってたり、お肉屋さんやってたり、靴屋さんとか乾物屋さんとか、本当にいっぱいありましたね。
【山田さん】要小学校はだって、道路に面してなかったもん。
【稲富さん】ですよ。
【山田さん】ここにあったんだもんね。
【稲富さん】そうですよ。
【山田さん】ちょっと奥に入ってたんだから。今は道路に面してるでしょ。
【稲富さん】その辺が三角みたいになってて、そこら辺にパン屋さんか何かなかった?
【山田さん】いや、覚えてないけど。さっきのこの、あの商店街の地図ありません? これ。(地図を指しながら)今ね、さっき(ここに)要小学校があって、今この辺を歩いてるんだよね、この辺。だから、ずっとここにこう酒屋さんまでこうお店があったんですね。
【稲富さん】ありとあらゆる商店があったね。
【山田さん】今はもうないよね。しょうがないけどね。この辺がね、外車通りです。
【スタッフ】(いつ頃から外車のショールームみたいになってるんですか)
【山田さん】あの通りが綺麗になってから。それでね、あんまり渋滞しないんですよ。で、道が綺麗であんまり渋滞しないのと、池袋にダイレクトだっていうのとで、だから池袋支店くらいのことを言ってるんじゃないの。
 
 

■粟島神社


【山田さん】ここが粟島神社です。まあ、我々は弁天って言ってるかな。
【稲富さん】弁天さんって言ってますけど。
【山田さん】お参りしますか。
【稲富さん】しましょうか。来たんですから。
 
(旧平和小学校にて)
【山田さん】平和(小学校)のさ、シンボルってさ、鳩だったよね。
【稲富さん】鳩、白鳩。
【山田さん】確かにあの、入り口の門のところにこう…上に白い鳩が描いてあって、その真ん中に「平和」って金か何かの文字で書いてあったんだよね。
【スタッフ】(平和の、それこそ象徴ってことだったんですかね)
【稲富さん】そうです。
【山田さん】まあ、戦後ですからね。新しい学校なのに、朝礼すると生徒数が750人とかですごいよね。
【稲富さん】うわー。
【スタッフ】(校庭いっぱいですか?)
【山田さん】そうそう。運動会もそこでやったから。だから父兄もたくさん来るしね。
で、綱引きするでしょ。そうすると、生徒数が多いから、ロープ、綱が長くてね、向こう側に門があって、そこから綱がでちゃってさ。
【稲富さん】ああ、そうだった?
【山田さん】砂の外からやってて、もう自動車はみんな止まっちゃって。
【稲富さん】2代目の校長先生が、遠足の度に雨が降るのでこれはなんとかしなきゃいけないって言って、それで自分で蛙の親子の陶器を買ってみようって。で、それを校長室に飾って、それで遠足の前の日にお酒をかけて「明日お天気になーれ」とやって、ということをおっしゃってましたね。それからね、あんまり降らなくなった。それで、初代校長さんはもっとその前ですけど、学校の前に泥水の川があって。だからもう、学校に行くのに毎日、長靴履いて行ったよって。すごくご苦労されたっていうのは聞きましたね。(学校は)昭和29年に創立です。で、うちの息子は10年後です。39年に入学しましたから、10歳。
【スタッフ】(その10年でさっきの750人が…)
【稲富さん】そうなんです。すごいでしょ? ガーっと減っちゃったんですよね。びっくり。結構ね、学校が多かったのよ小学校が、この地域は。それでね、近いところに割とあるので、やっぱり自分の子供、今はどこでもいけるみたいですけど、当時は親がお役所に行って。子供が飛び出したりするといけないからっていうので、2通り、通りを通るので、だからって言うんで他の学校へ行ったりって結構、分散するんですね。で、千早小学校もあるしね。学校がいっぱいあるから、こう散らばっちゃたんだと思うんです。でもやっぱり、小さい学校っていうのは目が届くってことで、先生も親も親しくなるし、先生たちも全部の子どもたちの名前もよく覚えてらっしゃって。で、帰った後も時々自転車でまわってくださったり…。うん、なんかすごく、面倒見がよかったかな。
【山田さん】うん。あの、風邪で学級閉鎖になると担任の先生が結構、家に周ってきたり。
【稲富さん】ねえ。家庭訪問に来たり。
【山田さん】私なんかは外で遊んでて怒られたり。
【稲富さん】結構、山田さんやんちゃだったんじゃないの?
【山田さん】どうですかね。
 
 

■要太鼓


【見米初枝さん】一応メインは盆踊りなんですね。それでまあ、いろいろなところからお声掛けいただいて。例えば、桜祭ですとか、敬老会ですとか、お誕生日会ですとか、お正月、新年会ですとか。そこでお披露目をしてますね。今年の10月で、(「要太鼓保存会」の活動は)35年になります。
【稲富さん】35年?
【見米さん】はい。
【稲富さん】すごいですねぇ。
【見米さん】最初の1期生がいま41歳とか。うちの子、1期生なんです。いま41歳です。いま、姪御さんとかお孫さんの代になりつつあって。もうどうしよう、これから何年頑張れるかな。
【稲富さん】大丈夫、大丈夫。
【見米さん】はい、頑張りたいと思います。(子どもたちを指導しながら)はい、じゃあ女子入ってください。2番、2番が男子ね。
 
(「要町あさやけ子ども食堂」の前で)
【稲富さん】はい、着きました。
【山田さん】はい。お疲れ様です。
【稲富さん】はーい。
【山田さん】なんか、写真撮るのかな?
【稲富さん】うん。そうおっしゃってた。どこでかな?
【スタッフ】(はい、ありがとうございます。大丈夫です、ありがとうございます)