現地ロケ編全文テキスト

■椎名町駅


 
(椎名駅前周辺を歩きながら)
【羽山勇二さん】おはようございます。
【古賀久恵さん】おはようございまーす。
【知人】おはようございます。今日は?
【古賀さん】今日は豊島区の撮影で…。
【古賀さん】駅が新しくなる前は、電車が見えたら走れたんですけど、今はちょっと余裕をもってこないとね。乗り遅れちゃう。
【羽山さん】だから、うちらかするとこれ(駅)は3代目。
【古賀さん】3代目か。
【羽山さん】3代目の駅になりますね。むかしは木造の…。
【古賀さん】木造のね。
【羽山さん】手売りの切符を。硬い紙でしたもんね。
【古賀さん】分厚いのね。
【羽山さん】そして新人の方がね、切符切りの練習をカチャカチャ、カチャカチャやりながら。
(タジユキヒロさんを見つけて)これから出勤? …違うって(笑)。
【スタッフ】お住まいになってからは、それほどまだ時間は経ってなかった?
【タジユキヒロさん】そうですね、4年程度で。しかもほとんどその、仕事行って、まあライブの方の仕事もあって、行ったり来たりで。もう夜帰って来てほぼほぼ最初の2、3年は寝に帰るだけの街だったんで。ようやく余裕ができて、羽山さんとお会いしたお店とかも飲みにいくようになって、っていう感じだったんで。
【羽山さん】椎名町改築となって、新しくリニューアルになるっていうんで、まあ他のところからの地域でイベントやらないかっていうことを依頼されまして、長崎一丁目町会と他の他町会と合同で、じゃあみんなで楽しくやろうよっていうことでイベントを企画して、その中でせっかくなんでタジさんに1曲描いてもらいたいと。
【タジさん】(ギターの弾き語り)♪大都会ブクロで出会ったあのコの町へ行こう、着いた隣駅はいつしか時間を止めて何年? そう代官山と違うし、おしゃれじゃない下町だけど毎日が特売日よ、そんなアタシの町を、愛してほしいな、ほしいな愛してほしいな、しいな・まち・こがれ~ ♪
【古賀さん・羽山さん】(拍手しながら)イエーイ。
 
 
 

■小村氷室


 
【羽山さん】すいません、おかあさん。おはようございます。
【小村ゆみ子さん】おはようございます。
【古賀さん】ここの前で、すいどーばたの人かなんかが氷を使って彫刻したよね?
【小村さん】西池(西池袋)に。
【羽山さん】はい「どばた」の前。
【小村さん】水研? 今なんて言うんですかね名前は?
【羽山さん】すいどーばた美術(すいどーばた美術学院)ですか。フルネームはそんなような感じですよね。
【小村さん】その時に私がまだ来た頃、彫刻をこの前(お店の前)でやったんです。
【古賀さん】来た頃っていつですか?
【小村さん】39年だから、45年くらいかな…。
【古賀さん】で、たぶん彫刻をいきなりやると大変だから、氷で練習したんだと思うんですけど、そういうのはどのくらいの頻度であったの?
【小村さん】そうね、結構ありました。2か月に1回とか3回とか。(純氷の入った段ボール箱を開封しながら)これがね、こういうふうになってるの今は。こうなってんですよ、で、ぽんぽんってやればかき氷にできる。(氷を専用のトングで持ち上げる)
【古賀さん】羽山くんがやったらいいんじゃない。羽山くーん。
【羽山さん】ちがうんだよー、仕事が。(氷をトングで持ち上げながら)はあー…。
【古賀さん】片っぽだけよ、持ってんの。難しいの?
【羽山さん】難しい。たぶん中心をちゃんと捉えるのは。
【古賀さん】今ぜんぜん売り上げがないようなものなんですけど、その当時はバイトさんが5人ぐらいいた。
【小村さん】25年から30年くらい、で、お正月に私が来ないときはみなさんおめでとうございますって来て、あれしましたけど。それが芸大の人ばっかり。
【古賀さん】そうなんですよ。
【小村さん】それでこの辺は、画廊とか絵描きさんとか詩人とか、いっぱいこの街にいるんですよね。
【古賀さん】戦前の流れでね。
【小村さん】戦前はね…。今はいなくなってね。
 
 

■ファミリーイン西向(さいこう)


 
【古賀さん】私、テレビの特集か何かで観たんですよ。外国人に人気の宿みたいな。で、観てたらあれ? 椎名町だと思って。
【羽山さん】今日はもう満室ですか?
【大野金幸さん】いや、満室ではないんですけどね。比較的静かだったような、静かではなかったような、なんですけどね。ちょうど今来られてるお客さん(の出身国)はこんな感じで。
【羽山さん】なるほど。
【大野さん】(各国の国旗を見ながら)今、出られたお客様がコロンビアのお客様で、今日チェックアウトされるのがアメリカの方、後はイタリーとか向こうの方とか。まあ来られている方が、こんな感じで旗をあれしているんですけどね。2010年の5月にこちらの方をオープンしまして、まあ約10年目ってことですかね。
【羽山さん】元はちがうご商売をお父さんとされてて…。
【大野さん】そうですね、昔からここは八百屋をやってまして。ね、みなさん方とは色々ね、仲良くさせていただいたと思うんですけどね。(ゲストブックを見せながら)最近はほとんど書いていただいていないんですけど、まあこんなところにゲストブックということで。もうだいぶ前ですよね。なんかこう、いろいろ書いていただいたりですね、手紙を送っていただいたりとかって、まあ。(手紙を見せながら)これなんかもみんな、外国人の方ですけど、日本語で書いていただいたりとかですね。いろいろこう、いただいています。ただまあ、ありがたいことに色々リピーターの方にお越しいただいて、もうほんとにアメリカとかルーマニアとかいろんなね、ヨーロッパの方々もお越しいただくと1週間、2週間くらい滞在されていただいてですね。
【古賀さん】施設のお名前なんですけど、このあたりって元々は西向(にしむかい)だったんですよね。
【大野さん】ええ。
【古賀さん】それとあれですか、いいよー、みたいな意味の「最高ー!」をかけたんですか?
【大野さん】まさしくその通りで、名前をどうしようかなと思ったんですけど、西向不動産があるし、まあ外国人にはですね、西向をそのままいただくのも失礼かなと思い、それだったら外国人のベストの最高でどうかなというような。ちょっと音読みと訓読みを入れ替えたかたちで、まさしくその通りで…。
【古賀さん】よかった、当たった。(笑)
 
 

■画家・榑松正利


(住宅街を歩きながら)
【古賀さん】(戦前は)そこの角の辺りに金子病院っていうのがあって、周りにお家が全然なくて、その金子病院さんだけが夜でも電気がついていたので、それを目指してアトリエ村に行ったっていう風になんか聞いています。アトリエ村の名前が「さくらが丘」っていう、その名前の由来なのかどうかはちょっと自信がありませんが。
【熊澤雄一さん】(榑松正利さん宅のチャイムを押す)どうも熊澤です。
【古賀さん】こんにちは。
【熊澤さん】お話を伺いに参りました。
【古賀さん】失礼します。
【榑松次郎さん】どうぞ。
 
(アトリエがあった部屋で)
【熊澤さん】ここで制作をなさってたわけですね。この床を抜いたかたちで。
【榑松さん】ここはもうアトリエとしてね、最初は、ここは1階の屋根がこう…。
【熊澤さん】ですね。
【榑松さん】それで、その辺にトップライトがあってね、それで最初、増改築したのは南側の半分は2階建てにしてね、こっち側はアトリエがそのまんま残ってたんですね。だから屋根に登ったりできてたんですけども。もう根こそぎ全部建て直してる訳でね、まったく名残はないしね。
戦後まだ数年しか経ってない混乱の時期でね、絵描きや彫刻家があそこに行くといっぱい住んでて、夜な夜などんちゃん騒ぎなんていうのもね、特別なことにならなかったっていう、時代背景もあるような感じはしますね。というのは、個々のアトリエのあるところから1本道を渡ったらもう別世界かって言うとね、そういう感じは全くなかったしね。
【熊澤さん】溶け込んでいたんですね。
【榑松さん】そうだと思います。なんでここにアトリエをいっぱい建てたのかという根拠は、僕もよくわからないんですね。でもね、結果的にはやっぱりそういった風な試みがね、成功したかどうか分からないけども、豊島区の中では非常にユニークなね、地域には、そのとりわけ昭和20年代はね、まあ30年代くらいまでかな。そういうところだったですよね。
 
(住宅街を歩きながら)
【熊澤さん】ここ…?
【榑松さん】ここはね、ここのところにパルテノンの看板があったんですよね。
【熊澤さん】ああ、ここにパルテノンの。ああ…。(奥の家に向かいながら)この建物なんですよね、気になってるんですけど。どなたの建物だったんですか?
【榑松さん】ここはね、去年亡くなられた西田さんっていうね、長沢節さんのお友達がね、ここでお独りで住まわれていたんですね。でも(建物の)様子はなんとなくね、こういう感じでしたね。
【熊澤さん】むかしもこんな感じ。
【榑松さん】そうですね。(昔のアトリエ村の写真に写った場所を指しながら)この家の北側から、絵を出してる写真。
【古賀さん】ああ…。
【熊澤さん】そうなんですね。
【榑松さん】それで、枯れているけども桜の木がね、そこにね、奥にも1本、木があってね…。
【熊澤さん】ほんとにちょっと歩けばすぐ絵描きさんがいるってとこだったんですね、ここは。
【榑松さん】隣は絵描きとかね。
 
 

■小鹿田焼(おんたやき)ソノモノ


 
【熊澤さん】こんにちは。取材に参りました。
【古賀さん】こんにちは。はじめまして。
【熊澤さん】もう、お店ここ出来てから長いですよね。
【榑松そのこさん】8年目ですね。
【古賀さん】8年目…。
【熊澤さん】素敵なお店ですよね。
【榑松さん】ありがとうございます。小鹿田焼ってご存じでした?
【熊澤さん】日田ですよね、知ってます。
【榑松さん】元々はあの山向こうに小石原焼っていうのが福岡県にあって、そこの職人さんを呼んで始めて、最初3軒が今10軒。で、一子相伝でほぼ必ず長男が跡を継ぐっていうので、まあそれもかなり特色なんですけど。他所から職人さんとか人を入れないで、家族で作ってる。みんなが家族みたいな感じで。
【スタッフ】こちらの長崎でお店を出そうとされた、何かきっかけとか、思い入れをもしお話しいただければ…。
【榑松さん】自宅が近い。生まれも豊島区なんですけど、近くに自宅があるので。子どもが、始めた時まだ小学生だったので、じゃあ通ったりするのも大変だし、子どもが学校から帰って来てもここに来られるみたいな感じで。長小(長崎小学校)だったので。
【熊澤さん】あー、そうですか。
【榑松さん】なので、全国からここにわざわざ皆さん、小鹿田焼を見に来てくれて。
 
 

■カフェレストラン「ストーク」


 
【熊澤さん】すいません…。
【古賀さん】こんにちは。
【清水良浩さん】どうぞお入りください。
【古賀さん】もう長崎一丁目からずっと朝から歩いているもので。
【清水さん】大変ですねえ。
【熊澤さん】8時半からです。
【清水さん】そうですか、それはそれは…。52年前ですか、そこで開店いたしました。僕はジャズが好きなもので、ジャズ喫茶が流行ってた時期で、それでジャズ喫茶で年中ジャズが聞ければいいと思ってやったのが動機でございます。あの、こういう喫茶店であの、話をしてだべってね、時間を費やすのが多かったですので。ですから皆さんそういう芸術関係の方とか、この地域にふさわしいようなお客さんが多かったです。
【熊澤さん】(店外の道路を指しながら)ここのところはね、川が流れていたんです。向こう側。
【清水さん】千川っていうのがね。
【熊澤さん】それはね、暗渠化(地下に埋設された導水路)した、暗渠ってねえ…。
【清水さん】向こう側の歩道のところですね。向こう側の歩道のサミットのちょうど前あたりですね。あそこでずーっと流れてまして、学生運動の時には芸闘員ってのが芸術学部でできましてね。闘っていたんですけど、ここへ全部機動隊の車が停まって、ここから村へ行くような感じでした。そういう激しい時代でしたね…。
 
(記念撮影)
【古賀さん】笑った方がいい?
【スタッフ】是非、笑顔でお願します。ホームページのトップのところに…。
【古賀さん】熊澤さんももっと笑いましょうよ(笑)。
【スタッフ】はい、OKです。どうもありがとうございました。