インタビュー全文テキスト

■礒﨑たか子さんインタビュー


令和元(2019)年12月23日、15時~17時30、「麦の家」にて
 
【吉田いち子さん(以下、吉田さん)】いろんな資料を拝見させていただきまして、抜けてたのが生年月日ですが、お年は――。
【礒﨑たか子さん(以下、礒﨑さん)】昭和21年1月31日です。
【根岸豊さん(以下、根岸さん)】そうすると、学年は僕と同じだな。
【吉田さん】戌ですよね。
【礒﨑さん】戌年です。
【吉田さん】早生まれだから昭和21(1946)年。
【根岸さん】20年生まれと同じ学年。
【吉田さん】では自由に(お話を)……。とにかく普通、お子さんのことがないとこの世界には入らないと思うんですね。ものすごく人生ってチョイスというか、道がわかれるんだなって思ったんですけど。
【礒﨑さん】ああ、そうですね。
【吉田さん】その辺から話をうかがいたいなと思います。豊島区に来られたのは結婚がきっかけですか?
【礒﨑さん】結婚するちょっと前ですね。
【吉田さん】何年頃かわかりますか?
【礒﨑さん】私が18~19歳のときですかね。
【根岸さん】東京オリンピックの頃ですね。
【礒﨑さん】そうですね。
【吉田さん】1964年。
【礒﨑さん】(オリンピックが)終わった後だったから、19歳になってたかな。姉がやってた飲み屋を手伝いに来ていた関係で。
【吉田さん】実のお姉さま?
【礒﨑さん】そうです。豊島区に来る前に、実の姉がスモンという病気(薬害)になって。その時代はスモンというのがまだわかっていなかったので、看病してたんですけどなんの病気かわからなかったんですよ。最終的に東大の先生が診にきてスモンだというのがわかりましたね。東大に入院したりしている間に、その姉が私より上の上だったもんですから、私ともう1人の姉と交代で、ずっと看病してて。(看病が)終わった時点で、そのまま姉の(豊島区にある)お店を手伝ってお小遣いをもらってました。
【吉田さん】それまではどちらに? お生まれは?
【礒﨑さん】鮫洲、品川です。
【根岸さん】都民であることは変わりないですね。
【礒﨑さん】そうなんです。都民でも下町の、京浜の工場地帯のなかという感じで。旧東海道のあたりです。
【吉田さん】この間、北品川に行ったので、何となく雰囲気はわかります。
【礒﨑さん】北品川から大森海岸までの、近いほうですね。あのへんがちょうど学校区域で遊び場所でしたね。
【吉田さん】それで18歳ぐらいでこちら(豊島区)にいらして。
【礒﨑さん】そうです。
【吉田さん】お姉さまのご病気は治られたんですか?
【礒﨑さん】姉はもう、そのままです。目も見えなくなって、下半身不随で今も施設で生活してますけど、普段のことはほとんど私がやらせてもらってます。連絡がくると洋服を買ったりとかそういう世話をしてます。施設に入ってるから、食べさせたりする世話はないんですけど、趣味的なことは私が全部やっています。
【吉田さん】それで豊島区とご縁ができたんですね。(お姉さまの)飲み屋さんは池袋あたりですか。
【礒﨑さん】この近くの上池(袋)の3丁目で。
【吉田さん】上池3丁目。
【礒﨑さん】そのあたりでやってたんですね。
【吉田さん】初めての仕事が飲食店業で、なかなか大変だったんじゃないですか。
【礒﨑さん】いえ。姉が夫婦でやってた小さい飲み屋さんだったものですから。洗い場にいたりとかして、お客さんの前にはめったに出なかったですね。そういうのは苦手だったので、うしろでお茶漬けの鮭をほぐしてみたりとか、お酒のおつまみを並べてみたりとか。1か月交代で山梨の病院と(店とを)行ったり来たりしてました。東京に戻ってきたときはすぐ上の姉が向こう(病院)に行って、っていう感じだから、勤められないじゃないですか。だから姉の店を手伝ってお小遣いをもらって、お金を貯めてまた(看病に)行くっていう。
【吉田さん】ひとつ上のお姉さまとふたつ上のお姉さまで、(年齢が)接近した……『若草物語』じゃないですけど、ずっと親しくしてらしたんですね。
【礒﨑さん】よく言えばね(笑)。
 
【吉田さん】ご結婚されたのはいつ頃ですか?
【礒﨑さん】主人がひとつ下だったから……主人が20歳になって、私が21歳のときですね。主人が20歳になるまでは、親が、主人側がなんとなくだめっていうか。
【吉田さん】じゃあ、すごく若い結婚ですね。
【礒﨑さん】そう。あまりにも若いのでみんなから反対されましたけど。
【吉田さん】それはお姉さまの看病とかあるから、そうですよね。結婚されてからは、豊島区に?
【礒﨑さん】ええ、そのままです。主人は豊島区出身ですから。
【吉田さん】豊島区のどこですか。
【礒﨑さん】今、私たちが住んでいる上池袋2丁目です。
【吉田さん】ちなみにどうやってお知り合いに……。ごめんなさい、すみません、どうでもいいことかもしれないけど。
【礒﨑さん】いえいえ(笑)。主人が同級生たちとたまたまうちへ飲みにきてからですね。
今はないんですけど、向こう側の3丁目、4丁目のところに寮がありましたよね。今は公園になってますけど。
【スタッフ】堀之内公園?
【礒﨑さん】あの……堀之内公園というよりも、新しい公園ができましたよね。北池袋駅からまっすぐ明治通りに抜けるところに。造幣局の寮があったのかしらね。そこに住んでいる人がうちの店とすごく近くて、まだ20歳ぐらいだったのでお父さまが連れてきて。なんていうか、「飲み屋さんってあまり行かせたくないけど、ここならば近くで安心だから」って連れてきて、その友だちとして(主人が)来たのが縁ですね。だから、20歳ぐらいのとき。そんな感じで、向こうの仲間と私の話が合ったという感じですね。
【根岸さん】合コンだ、今で言うね。
【礒﨑さん】そうですね。
【吉田さん】ちょうど高度成長の時期で、割と活気で満ちてた東京、という感じだったんでしょうね。それで意気投合というか、ご結婚されて、上池袋に住まわれてからは長いと。
【礒﨑さん】そのまま、ずっと住んでますね。
【吉田さん】当時は、普通の専業主婦をされていこうという感じだったんですか。
【礒﨑さん】そうですね。主人が印刷関係の仕事をしてて、袋物が間に合わないと家に持ってきて内職を手伝ったりとか、近所にアルバイトに行ったりとか、そういうのはちょこちょこしてましたね。
 
【吉田さん】今のNPOとかのお仕事をする一番最初の、入り口みたいなのは、お子さまの――。
【礒﨑さん】そうですね。娘が病気になって障害を持ってからです。娘が高等部のときに、いろんなところに見学に行ったりとか勉強会とかに出たりしてたんですけど、「豊島区手をつなぐ親の会」の会長さんから、その会を手伝ってほしいって言われて。私の前の会長さんです。そこでは、駒込の方で本人(障害者)たちに作業をさせてたんです。それを手伝うようになって、そのうちに役員として動くように言われて、いろんなことをやってるうちに一応、今のような感じで。
その方から、大きな団体に入りこめない障害者がいると聞いて、自宅を開放して作業所にしてたんですよ。昔は箸入れが一番多かったんですね。箸袋に箸を入れる作業です。こういう子たちはそういう作業をすると落ち着くというんですね。それで、そのまま自宅を開放してたんですけど、区からお金をもらうには自宅ではだめだということで、転々としながらここ(「麦の家」)に落ちついたのです。ここも、もともと障害者のお姉さんが持っていた家で、それを借りてそのままです。今はオーナーが違うんですけど、理解のある方で、そのまま使っていいよということで、借りてます。
【根岸さん】お子さんが生まれたのはおいくつのとき?
【礒﨑さん】えーと、一番下の娘だから……ちょっと数えてくださいね(笑)。うちの娘は昭和48年生まれなんですね。
【根岸さん】昭和48年?
【礒﨑さん】じゃあ私はいくつでしょう(笑)。28歳ぐらいだったと思う。
【吉田さん】(その娘さんは)ご長女?
【礒﨑さん】いえ、三女(次女)ですね。3人目の子(上から男子、女子)です。
【吉田さん】昭和48年生まれ。
【根岸さん】その方に障害があった。
【礒﨑さん】そうです。一番下の子です。2歳のときに化膿性髄膜炎という病気になって、その後遺症で障害を持ったということですね。化膿性髄膜炎ではなくて、ただの髄膜炎だと意外と元に戻るんですけど、化膿性ということは熱を持ってて炎症を起こしちゃう。先生が言うには、肺に行けば肺炎になるでしょうし、うちの子は(細菌が)脳に上がって脳室に菌が入っちゃったので、一晩ぐらいで髄液が濁ってしまったんです。ものすごく熱を出したときに。
【根岸さん】それはいくつぐらいでわかったんですか。
【礒﨑さん】2歳半ですね。頭が痛いって言ったときはもう、そうなってたって感じですかね。
【根岸さん】病院はどこに行かれました?
【礒﨑さん】普通の風邪だと思ってたからご近所に行ってましたけど、あまりにもそこで治らないので、レントゲンを撮ろうかとなったときに、目が上がったんですよ。上がったっていうのは、「がっ」と(白目をむくように)なったので、これはもう無理だというので日大(日本大学医学部附属板橋病院)に行ったんです。
【根岸さん】板橋病院。
【礒﨑さん】日大も偶然というか、救急車を呼んで。私もそのとき初めて体験しました。救急車の中でどこの病院がいいですかって聞かれるんですね。私、病院に行ったことがないからどこがいいかとか言われてもわからなくて、「まずこういう症状を診られるところをお願いします」ってあちこち電話して、この近くで日大になったんです。
【吉田さん】2歳じゃ自分の症状をそんなに訴えられないですよね。
【礒﨑さん】でも本人はすっごく、痛いらしいんです。2歳でも。
【吉田さん】頭が?
【礒﨑さん】割れるぐらい痛いらしくて、こうやって(頭を)押さえて「お母さんここが痛い」って。普通はどこって言わないけど、「ここが痛い」って言ったのでなんか(いつもと)違うかなって思って。それまではどこが痛いとか言わなかったのが「ここが痛い」って言って初めて、そこが本当に痛いんだと思いましたね。
【吉田さん】最初はかかりつけというか、普段の病院に行ったんですね。
【礒﨑さん】そう。普通の風邪だと思ってますからね。
【吉田さん】でも、やっぱりおかしいなということで。
【礒﨑さん】そうです。
【根岸さん】当時は専業主婦としてずっとやってらしたんですね。
【礒﨑さん】うちで内職してるぐらいでしたね。
【根岸さん】近所づきあいなんかはあまりなかった?
【礒﨑さん】いや、ありました。みんな子どもの歳が同じぐらいだったので、一緒にご飯を作ったりとか。
【根岸さん】じゃあ、そういう交流はあったんだ。
【礒﨑さん】交流は今でもたまにしてます。
【根岸さん】それは幼稚園とか保育園の関係?
【礒﨑さん】いえ、保育園、幼稚園は違うところへ行ってても、集まってましたね。夏になると道路の真ん中にゴムプールを出して子どもを泳がせたりとか。あの頃はやっぱり専業主婦が多かったですからね。今でこそ皆さん働いてらっしゃるけど。
【根岸さん】保育園も少なかったですもんね。
【礒﨑さん】働いている人のほうが少ないぐらいだった。
【吉田さん】ちょうど団塊の世代ですもんね。ご主人も団塊の世代ですよね。
【礒﨑さん】そうですね。一番人数が多いときに生まれた。
【吉田さん】人数が多いときですよね。
【根岸さん】僕らのときは一番少なかったから。
【礒﨑さん】私の時代が一番少なくて、そのあとのあとが多かったんですよね。クラスの数が全然違います。
【根岸さん】小学校はどこでした?
【礒﨑さん】うちの子どもたちは、そこの池一(池袋第一小学校)ですね。中学からは、いろんなことがあって私立に入れましたけど。下の子がそう(病気)なんで私もなかなか難しいので中学から私立に入れました。下の子にかかりきりなのでなにもできなくて。
【根岸さん】上の子はちょっと寂しかったんですかね。
【礒﨑さん】そうですね。すぐ上の子は(次女と)年子だったので大変な時期もありました。
【吉田さん】女の子ですか。
【礒﨑さん】そうです。1番目の子が男なんです。(次女の)すぐ上の女の子は、小学校から中学にあがるときは大変でしたね。口には出さないけどかなり大変だったんだと思いますね。
 
【根岸さん】娘さんが学齢期になったときは、どういうふうに。
【礒﨑さん】病気のほうの子ですか?
【根岸さん】ええ。
【礒﨑さん】学齢期は最初から養護学校(現・特別支援学校。以下同)です。もう無理なのがわかってるし、たしか豊島区に「千川子どもの家」というところがあったんです。障害児を入れてくれるというところ。
【吉田さん】障害児を入れる、初めての保育園ですよね。
【礒﨑さん】そうです。そこに1年間、入ったんです。そこに入るのも大騒ぎだったんです。
【根岸さん】倍率が高くてということで?
【礒﨑さん】うちは発作があったので。 
【吉田さん】(入園したのは)何歳?
【礒﨑さん】退院して3歳半のときに。普通の幼稚園は行けないので、どこか入るところがないかって探したときに、東京都のセンターに行ったら「豊島区はすごくいいところあるじゃないか、千川子どもの家へ行きなさい」って言われたんで、すぐに行ったら、発作がある子は受け入れられないと言われて。(娘のケースは)前例がなくてわからないから怖いっていうことだったんですね。それで、「発作があったらなんとかして迎えに来るから」ってものすごく交渉して、入れてもらいました。
【吉田さん】入ったわけですね。
【礒﨑さん】その代わり、毎日のように呼び出しです。毎日、発作があるから。毎日だから、私も慣れてきて「そのぐらいは大丈夫です」みたいになってきて。最初はいちいち行ってましたけど、発作ってあっという間の出来事なので、ここから自転車で千川まで行くと、もう元気になってるんですよ。
【吉田さん】ちょっと気を失う、という感じなんですか?
【礒﨑さん】そう。「切れる」というか、意識が止まるんですね。
【吉田さん】大変でしたね。
【礒﨑さん】でも、もうそこで私も慣れたんです。本人はあまり気がついてないんですけど、私のほうが発作の扱いにだんだん慣れてきて。
【根岸さん】ストレスがなくなっていったんですね。
【礒﨑さん】そんなに焦らなくても大丈夫かな、と。よっぽど、(ケガをするような)危ないところにぶつからない限りは大丈夫かな、という気持ちになって、養護学校に行くことにしました。王子の第二養護学校(現・東京都立王子第二特別支援学校)です。
【根岸さん】先ほどのあれ(千川子どもの家)は昭和51年で、養護学校に行ったのは何年?
【礒﨑さん】普通にです。小学校上がる年です。
【根岸さん】普通に学齢期に。
【礒﨑さん】計算しなきゃいけない(笑)。
【根岸さん】昭和54~55年か。
【礒﨑さん】そうですね。
【根岸さん】その頃、都としては障害児に対する対応なんていうのは?
【礒﨑さん】私も知らなかったんですけど、うちの娘が入る3年前から全員就学になったらしいんですね。
【根岸さん】就学免除しなくなったんですね。
【礒﨑さん】どこかに入るという形になったので、王子(第二特別支援学校)でも私が行ったときはそんなことなかったけど、3年先輩のお母さんたちに聞くと、よその人には絶対に見せなかったって。大変なところとか。動き回る子とかいろんな子がいたのを隠してたそうだけど、私たちが入ったときはそういうのはなかったです。
【根岸さん】考え方がだんだん変わってきたんですね。
【礒﨑さん】3年前の親がすごく運動してくれたらしいです。「そんなことはない、普通にしてくれ、オープンにしてくれ」って言って、変わったらしいです。話を聞くとね。ですから、娘が入ったときはそういうのはなかったですね。ただ、うちは発作があるというのはどうしても引っかかりましたけど。
【根岸さん】ヘッドギアみたいなのをしてるんですか?
【礒﨑さん】かぶりました。でも結局、かぶっても発作があると、上がる(脱げる)んですよ。だから、かぶっててもかぶってなくても同じなんです。だいたいこの辺(頭部)を打つので、頭になにか載せたりかぶったりするのが嫌で。今でも頭の中に、シャントっていう水圧を調節するポンプを入れてるんですね。
脳の中ってお水が回っているんですね。それで、高齢者になるとそのお水がたまるのでぼけたりするんですけど、小さい子どもの場合は、水がないのでぱんぱんに張ってるんですって。でも、病気のせいでその水がはけずに高齢者と同じようにたまってしまうので、つねにポンプで腸に落とし込んでおしっこと一緒に流してるんです。(体に)管を通してポンプを入れて動かしてるというのもあるので、(学校の職員が)すごく怖がるんですよね。全然怖くはないんですけどね。
【根岸さん】面倒を見るほうが怖がると。
【礒﨑さん】そうなんです。何ともないんですけどね。つまったりすると意識がなくなったりいろいろしますけど、すぐに取り換えればいいことなので。
 
【根岸さん】王子養護でバスのお迎えが始まったんですね。
【礒﨑さん】うちの子が入るときに、私が無理やりバスを近くまで巡回してもらいました。それまでは、この一帯は高島養護(現・東京都立高島特別支援学校)だったんですけど、高島養護だとバスが西口の向こう側だけ回ってて、東に回ってなかったので「バスを回してほしい」って言ったんですが、ダメだって言われて。それから王子(第二特別支援学校)を探し当てたので、「王子からバスを回してくれ」って大騒ぎしたら、回してくれたんです。うちの学年から文京区の一部と豊島区が王子に入学できるようになったんですね。
【根岸さん】そのときにどういうふうな動きをされました?
【礒﨑さん】どういう動きって……ずっと役所に行きっぱなしでした。
【根岸さん】役所と戦ったんですね。
【礒﨑さん】窓口でずっと言ってました。
【根岸さん】それは豊島区ではなくて?
【礒﨑さん】豊島区です。
【吉田さん】何課に?
【礒﨑さん】福祉課です。もうほとんど毎日のように、福祉課に行きました。なんとかしてほしいって。
【根岸さん】一緒にやろうという人は何人かいらっしゃった?
【礒﨑さん】だからそのときは私、全然そういう考えを知らなかったんです。単独で行っても平気って思って、自分の子どもをどうにかしなきゃと思ってたから、そういうのは全然考えられなかったというか、知らなかった。
【根岸さん】まだ仲間を作るとか、そういう――。
【礒﨑さん】段階ではないですね。
【吉田さん】当時の福祉課はどういう対応だったんですか?
【根岸さん】わかんなかったのかな。
【礒﨑さん】そう。わかんないから「それは教育のほうだ」とか「福祉のほうだ」とかっていう――。
【根岸さん】たらいまわしだ。
【礒﨑さん】たらいまわしになるんですよ。身障学級(特別支援学級)にいく人は教育課なんですよ。王子養護学校(王子第二特別支援学校)だと福祉課なんですよ。でも、私の発想は「すべて福祉課でしょ」っていう。「それっておかしくないですか」っていうのが、私の第一の疑問だったんですよ。(学校の)行き先によって課が変わるというのは違うんじゃないですかって思って。
【根岸さん】その時期は孤独な戦いですね。役所との。
【吉田さん】でもそれは今も変わらないんでしょ?
【根岸さん】今は、ある程度サポートするグループがあるから。ただ、そのへんはまだ課題ですよね。その頃、(豊島区の)ボランティア連絡会とかの関係は?
【礒﨑さん】私が動けなくなったりとか、本人(娘)をどこかに連れていかなきゃとかいけないときは、ボランティアセンターを使わせていただきましたね。
【根岸さん】当時は阿部さんとか。
【礒﨑さん】そうです。阿部さんにはすごく。
【根岸さん】警備員だった阿部さん。
【礒﨑さん】すごく面倒を見ていただきました。当時はなにしろ、なにも知らなかった。それまで自分の子ども3人ともが元気だった、というのがありますよね。急に障害者になったということで、どうしたらいいかわからないけど、とにかくあちこち駈けずりまわっていろんな人に聞いたり探したりして、それを(役所に)伝えにいって……。やり方が正しいかどうかわからずにやってました。「あの学校に行かせてほしい」とか、いろんなことを自分で交渉するという感じでした。
【根岸さん】(礒﨑さんに)そういう力があったんだ。
【礒﨑さん】いや、どうなんでしょう。無我夢中でやったっていう(笑)。
【吉田さん】お兄ちゃんとかお姉ちゃまというのは、お母さんが割と下の子につきっきりになっちゃうと、いろいろと大変な思いも?
【礒﨑さん】(一番)上の子はもう大丈夫でしたけど。
【吉田さん】お兄ちゃまのほうですか。
【礒﨑さん】(長男は)結構、妹が具合悪いとかそういうのはわかってました。けど、すぐ上の女の子は(次女と)年子ですからわかりづらくて、「なんで自分の遠足にはついてこないの」とか、「PTAのときには出てこないの」とか。
【根岸さん】寂しいんだね。
【吉田さん】(上の女の子は)昭和47年生まれということですか。
【礒﨑さん】そうです。
【吉田さん】ああ、年子なんですね。それは大変。女の子ですよね。
【礒﨑さん】ええ。私立中学に行ったときも、私立だと毎月の保護者会がないから楽なんですよ。学期ごとなので。だからなるべく(次女を)人に預けたりしながら(保護者会に)行くようにはしてましたけどね。
 
【根岸さん】親の会(豊島区手をつなぐ親の会)に入ったのは、その頃ですか。
【礒﨑さん】親の会に正式に入ったのは、娘が(特別支援学校の)高等部を卒業してからですね。
【根岸さん】そうすると、だいぶあとだ。
【礒﨑さん】そうです。平成3年。ただ、それまでも(親の会と)話はしてて。ただ当時は王子養護に親の会のような……学童というか、学校サイドの――。
【根岸さん】PTAみたいな?
【礒﨑さん】PTAで全国的にやってる組織の中に入っていたので、(親の)会は知ってました。PTAのほうも活動させていただいてたので、あちこち交流はしてましたね。
【根岸さん】高等部が終わった後に入ったということは、18歳のときですよね。
【礒﨑さん】そうです。
【根岸さん】そのときに親の会に入ったおもな理由は?
【礒﨑さん】もう、手伝ってと言われて手伝ったという感じで、たまたま。今、西池袋にさくらんぼの家(福祉ホームさくらんぼ)ってありますよね。一晩泊まれたり、レスパイト(介護者の負担軽減を目的とした短期入院システム)やったりとか、3年間の訓練したりとかっていうのがあるところ。あそこができたときに、最重度のうちの娘が預けられたらいいなって思ってたら、当時の福祉課の女性が「預ければ」って何度も勧めてくれたんです。
【吉田さん】さくらんぼにですか。
【礒﨑さん】はい。最重度のうちの娘が預けられるんだったら、そこはマルだという感じだったんですね。
【根岸さん】区の職員がそうやって助言してくれたと。
【礒﨑さん】そう。当時のその人が、言ってくれたんです。
【吉田さん】福祉課の方が。
【礒﨑さん】ええ。さくらんぼができる前は、障害児の親が病気になったりしたときに(障害児を)預ける場合は東京都に行くしかなかったので、豊島区でも欲しいって運動したら、長汐病院に一部屋、作ってくれたんですよ。
【根岸さん】ああ、池袋の(長汐病院)ね。
【礒﨑さん】今は高齢者ばかりの病院だけど、一応全科あるんです。4階の、高齢者ばかりのところへ障害者用に1室借りて、親に何かあったときは(障害を持つ)お子さんを預けられるようにして、家政婦さんをつけて診てくれたんです。正直言うと、うちはそれで助かりました。うちの主人が、がんで入院したときに。
【根岸さん】ああ……大変だったんだ。
【礒﨑さん】9か月そこへ預けて診てもらいました。私はずっと付き添いでした。
【吉田さん】長いしお(汐)って書くところですか? 病院は。
【根岸さん】そう、さんずいの。池袋に昔からある有名な病院。一緒に運動したって今おっしゃったけれど、どういった人たちと?
【礒﨑さん】親の会の人たちと。それから、「豊島区幸せを進める会」っていうのが、前にあったんですよ。その会にも入って一緒に運動しましたね。
【根岸さん】そこでネットワークみたいのができた。
【礒﨑さん】そうですね。
【根岸さん】じゃあ、親の会が基本になって、そこから。
【礒﨑さん】正直言って、区は個人で行くとあまり受けつけてくれないけど、後ろ盾があると、なんとなくこう……。
【根岸さん】議員さんをうまく使えばね。
【礒﨑さん】親の会とか大きな組織があると、そういう感じで見てくれるので。いまだにそうですけどね。
【根岸さん】でも先ほどおっしゃったように、職員さんから勧められたっていうのもあって、そういう意味では一生懸命やっている職員もいっぱいいるんですよね。
【礒﨑さん】そうですね。だから本当に、泣きもしましたけど、職員のほうも泣きもしますし、お互いにぶつかって、なにが一番困っているか聞いてくれたのがよかった。
【吉田さん】そのあたりはコミュニケーションできてたっていうことなんですよね。
【礒﨑さん】そうですね。だからいまだに、職員とすごくやり取りしたときに「礒﨑さんにはかなわないよ」って言われるけど(笑)、なんとかしなくちゃって行くだけで。今はお互いに笑い話もしますけどね。だから、なんか困っていれば言わないと向こうもわからないしね。やっぱり、障害児を持ってない人にしてみれば、日常生活そのものがわからないから、事細かに言わないとわからないかなって。
【根岸さん】想像力だけではわからないですからね。
【礒﨑さん】そうなんですよね。「ここが不便です」って言っても、どういうふうに不便かっていうのは本当にわかりづらいのでね。だからそれを伝えていくのがとても難しいんだけど、伝えていかなきゃいけないかなっていうのがありますよね。
【根岸さん】あと、(豊島区民)社会福祉協議会とはなにかありました?
【礒﨑さん】社会福祉協議会とは、ボランティアセンターさん(との関係)とか、こういう仕事をし始めてから協議委員をさせてもらって話を聞いてもらったり、いろんな計画の委員に入れていただいたりとか、後見人制度の話とか。あと民生さんとか……今のところは全部関わらせていただいてます。
【根岸さん】そういう意味では、今はいろんなバックを持って発言できるわけですね。
【礒﨑さん】本当に。今日も(「麦の家」に)来ていただいているお手伝いのCSW(コミュニティ・ソーシャルワーカー。地域住民・施設と連携した福祉活動員)さんの関係があって。
【根岸さん】福祉協議会ですもんね、CSWがいるから。大竹さんは来ます?
【礒﨑さん】大竹さんには理事にしていただいて。なかなかこういうNPOって、組織がわかっているようでわからないんですね。だから難しいんですけど、個人ではやれないので。
【根岸さん】今、流行のクラウドファンディングというのはご存じだと思うんですけど、あれでも結構集めているところありますからね。
【礒﨑さん】でも、なかなか言いづらいですよね(笑)。
【根岸さん】この間、ホームレスのグループがアンブレラ(「東京アンブレラ基金」。ホームレスの緊急宿泊支援のためのクラウドファンディング)でやってましたけどね。
【礒﨑さん】同じようなものだと思いますよ。資金は福祉課から下りてくるものでやってるという感じで。うちはⅢ型(豊島区地域活動支援センターⅢ型事業所)なので、本当に一番最低の金額でやらせてもらって。出てるのは職員の人件費だけなので、なにかをするためにこれが欲しいあれが欲しい、買っていいですかって言わないと買えなくなっちゃう。(「麦の家」の)看板の横に馬主の車がありましたけど、あれも馬主にお願いして、馬主さんの審査をすごい受けてからいただいたんですよ。
【根岸さん】「ブルース協会」って書いてありましたね。
【礒﨑さん】馬主協会さんの名前が違うときにもらってたんです。NPO法人になる前にもらってたので、それが残ってて。そういう感じで、いろんなところに声をかけて、大きなものは寄付していただかないともらえないんですね。
 
【吉田さん】「noie(ノイエ)」(「麦の家」で制作している布製品)の名前の由来は、「麦の家」からですよね。
【礒﨑さん】そうです。本人たち(通所者)が「麦の家」から(名づけた)。そうだ、これ(「noie」)を、職員たちが宣伝してって(笑)。すみません。
【根岸さん】ああ、「noie(ノイエ)」。ホームページに書いてあった。
【礒﨑さん】これは布に直接、絵を描いてもらっているんですね。(「noie」の巾着袋やポーチを見せながら)こんな感じで、その人ごとに(絵の)特徴があるんです。なんでもいいよって言うとなかなか描けないんですよね。だから、「今日はこんな感じで描いてみようか」とか、ちょっとしたヒントを与えながら。この子なんかは自閉なんだけど、お魚って言っても、何って言っても大体こんな雰囲気の絵になるんですね。でもみなさんそれぞれで。
【根岸さん】あ、「mugi(ムギ)」ってこれ(ロゴ)が入ってるんだ。
【吉田さん】これはなにで描いてるんですか。
【礒﨑さん】筆を使ったり、お箸を尖らせて線みたいに描かせたり、そのときによっていろいろです。洗っても落ちない布用の絵具を使ってます。(製品を見せながら)こんな感じで、本人は落花生だって言って描いてるんですよね。それに見えるかどうかは別として、みんなに「何を描いているの?」って聞くとちゃんと決めていて、何を描いているか言うんです。
【根岸さん】この(ロゴ)マークはいいですね。
【吉田さん】「むぎ」って。
【根岸さん】これの収入は、描いた子にある程度還元すると。
【礒﨑さん】そうなんです、全部。
【吉田さん】全部ですか。
【礒﨑さん】少ないですけどね……。この自主作業と、受注作業をいただいているのと。これがすごく売れるといいんですけど、なかなか売る場所がなくて。福祉まつり(「ふくし健康まつり」。バザーや行政相談所を設けた福祉関連のイベント)と、「はあとの木(はあとの木マルシェ+)」(豊島区内の障害者福祉施設による、ものづくりを介した交流プロジェクト)があるので、そこで年2回。今は区役所の――。
【根岸さん】1階でね。
【礒﨑さん】1階のとしまセンタースクエアで売るぐらいで。あとはたまにいろんなイベントに声がかかるので、出張して売りにいくんですけど、でも売れても1万円いくかどうかですもん。
【スタッフ】巣鴨の販売所はもうなくなっちゃったんですか?
【礒﨑】巣鴨のところはなかなか売れないんですよね。
【吉田さん】こういう袋自体はできあがっているんですか。
【礒﨑さん】いや、こちらで職員が作ります。
【吉田さん】職員の方が作って、それに絵を描いて。
【礒﨑さん】大きい生地にばーっと描かせて、「ここの部分はこの製品にしよう」っていうふうにして裁断をして、職員が縫ってます。だから私もときどき縫うんだけど、だんだん疲れてきちゃう(笑)。(作るのは)好きなんですけど、売らなきゃいけないという気持ちと、自分で好きでやってるときの気持ちって違うじゃないですか。売るとなると、神経を使うので疲れるんですよ。
【吉田さん】年に2回、「はあとの木(マルシェ+)」と、今は――。
【礒﨑さん】福祉まつりです。あとはちょっとしたイベントにたまに行く。
【吉田さん】収益は各人にお渡しするという形ですね。
【礒﨑さん】今のところ8人ですので、8で割ります。季節ごとにいろんなところに行ったりすると、ボーナス用に貯めて渡すんです。ボーナスも雰囲気を変えて出さないといけないので。普段は3000~4000円しか渡してませんね。ボーナスのときに1万円ぐらいいく感じですかね。これよりも、受注作業のほうがいくらかお金がいいかもしれません。
【根岸さん】(受注作業は)今、どういうことが?
【礒﨑さん】巣鴨にある「マルジ」さんっていう赤い下着を売っているお店がありますよね。
【根岸さん】ああ、マルジね。
【礒﨑さん】あそこからいただいている仕事と、アクセサリーのセット組みですね。アクセサリーを作るためのセットがいろいろあるんですね。
【吉田さん】ビーズとか?
【礒﨑さん】そうそう。今は粘土にぽこんとはめるとブレスレットができたりするのがあるらしいんですけど、それのセット組み。粘土を量ってそれを袋に入れたりとか。粘土といっても特殊な粘土なんですけどね。
受注作業はそんな感じで、あとは今、(別の仕事が)増えるかどうかというところで。うちでできる仕事があるのかどうかっていうのがあるんですよね。
【根岸さん】マルジさんの仕事は(商品を)袋に入れる作業ですか。
【礒﨑さん】そうです。細かい作業なんですね。
【根岸さん】パンツをビニール袋に入れるとか?
【礒﨑さん】マルジさん(の仕事)はすごい特別で。赤い下着を作ったときに出た切れ端を適当な大きさに切って、マルジさんが印刷した「幸せのカード(正しくは「幸福のおすそわけ」)」っていうのをホチキスで留めてるんです。その作業をうちでやってます。それをマルジさんは(店で)無料で配ってるんですよ。それでうちにお金をいただいてるので、(マルジさんは)赤字だと思う。マルジさんはそういうサービスを無償でやってるんですね。
【根岸さん】それこそ地域貢献だ。
【吉田さん】地域貢献ですよね。
【礒﨑さん】そういうことです。
【根岸さん】巣鴨のお地蔵さま通りの赤パンで有名だけど、そういうこともやってるんだ。
【礒﨑さん】下着の大量生産なので、機械でガチャンと断裁しますでしょ。(端切れの束を見せながら)端っこがこういう感じで残るんですね。それを適当な感じに――これだったら切らずに折って、このカードをホチキスで留めるだけなんですね。それを納めてるんですけど、(店で)タダで配るじゃないですか。(マルジさんは)まるっきりの赤字ですよ。マルジさんから3.11のときにご連絡があって「どうやったら被災地に寄付できるんだ」と聞かれて、うちも「なにかお仕事ないかな」って話してたら、「じゃあこれ(端切れの仕事)あげるよ」っていうことになって。店員さんがやってた仕事をうちにくれたんです。
【吉田さん】1点いくらってことで、社会貢献ですよね。
【礒﨑さん】ダンボール1箱あたりの値段でいただく仕事なんですが、それがいいお金になるんです。夏はあまりないんですけど、この暮れはお正月休みが長くて結構、買い物にいらっしゃるので。
【吉田さん】カードを布にホチキスで留めると。割と、こう――。
【根岸さん】効率いいや。
【吉田さん】効率いいというか、簡単にできるというか。縫ったりすると大変だけど。
【礒﨑さん】そう。誰でもできるっていう仕事はなかなかないんですね。だからマルジさんには本当に頭が下がります。
【吉田さん】すごいですね、マルジさん。
【根岸さん】宣伝してやんなくちゃ(笑)。赤パンで有名なマルジだもんね。
【スタッフ】そんなことやられてるの、初めて聞きました。
【礒﨑さん】いろんなところに寄付したりするのをすごく心してる方で。常務さんがすごく、そういう感じの方なんです。
【根岸さん】巣鴨といえば赤パンで有名だから。
【吉田さん】赤パンといえばマルジ。
【礒﨑さん】マルジさんは新聞も作って出してるんですよね。お店の横に貼ってるんですけど、そこにもうちのお店のことや、事務所のことを書いてくれたりとか。
【吉田さん】それは3.11以来ずっと続いているってことですか?
【礒﨑さん】そう。その前からおつきあいはしてましたけど、(この受注作業は)そのときに「どうやって寄付するんだ?」って聞かれたのがきっかけですね。
【根岸さん】それはいい話だな。
【礒﨑さん】じかに渡したい、被災者にじかに届くにはどうする? ということで始められて。
【吉田さん】それは現在では、マルジの店頭で渡してるんですか?
【礒﨑さん】そう。買い物をした人に渡して、もらった人はこれを利用してなにか作ってまた(店に)持って行くんです。ちっちゃい手作り品。そういうものの展示会を(店で)してたことがあります。
【根岸さん】へえー。
【礒﨑さん】みなさん、そんな感じですね。だから、いろんなことに利用してるんだなって。
【吉田さん】それはすごい。
【礒﨑さん】そういう意味ではすごくうちも助かってますし、まわりで助けてもらえるっていうのが一番ですよね。知ってもらって、というのが。
【吉田さん】そうすると今(の受注作業)は、マルジさんと福祉まつり(ふくし健康まつり)と?
【礒﨑さん】アクセサリーと――。
【吉田さん】ビーズ。
【礒﨑さん】いろんなのがありますね。アクセサリーってそのときの流行すたりがあるじゃないですか。だから、ある仕事がばーっときたりとか。一時はお花を液の中に入れる作業をやってたんですよね。生花を液体につけて、造花みたいにして飾るやつがあるんですよ。
【吉田さん】プリザーブドフラワー。
【礒﨑さん】そうです。あれがすごい流行ったとき、グラムで量ってお花を袋詰めする作業がいっぱいきました。アジサイとか。
【吉田さん】地域の随所というか、細かいところにみなさんの力が反映されてるということですね。
【礒﨑さん】その(花の仕事の)方もすごく巣鴨に近い場所にいたんですけど、遠くに引っ越してしまって。でも、車で取りに行ってやってるんです。
【吉田さん】それはすごい。
【礒﨑さん】忙しいときはすごくせかされるので、職員のほうが参っちゃうんですよ(笑)。そんなにせかしても本人(通所者)たちはすごくのんびりしてるから。私たち職員だけがせかせかしてても、本人たちは普段通りだから。どんなに忙しくても普段通り(笑)。
【吉田さん】今こちらでお仕事をされてるのは8名ですか。
【礒﨑さん】そうですね。(そのうち)2人が、駒込にある豊島区の障害者センターでお掃除の仕事をしてます。付き添いの職員をつけて合計4人が出入りしてるんですが、私たちとまったく顔を合わせないわけにはいかないので、交代で行かせてるんですね。お掃除のできる子だけを行かせてます。
【根岸さん】朝、ここから出かけるんですか。
【礒﨑さん】自分のうちから行ってもらって、向こうでタイムカードつけます。見守りの職員がいるので、何かあれば電話がきて、そうすると私が飛んでいったりするんですけど、無事に過ごしていれば何も連絡はないですね。
 
【根岸さん】先ほど、ご近所サポートがあるってお話が出ましたけど、具体的にどういうことか、いくつか教えてください。
【礒﨑さん】サポートというより、「一緒に楽しむ」「なんでも一緒にやってみよう」みたいな感じでやってるんです。
【根岸さん】それは定期的に?
【礒﨑さん】月に1回やろうかという話でやってるんですね。(活動の資料を見せながら)こんな感じですね。
【根岸さん】「地域でみんなと生きていく」。
【礒﨑さん】これ(「麦の家」の看板)は社協(豊島区民社会福祉協議会)さんの流れでCSW(コミュニティ・ソーシャルワーカー)さんに入っていただいて。前はうちの看板がなかったんですね。昔は「小規模作業所」という形でやってたので、その看板しかなくて。その看板を外したままでいたら、地域の区民ひろばに集まってた人たちが地域を歩いたときに、うちを見て「なにをしているかわからないところだ、もしかしたらちょっと怖いところかも……」とか(笑)、そんな感じで訪ねてくださったんですね。そのときに「看板を作ったらいいんじゃないですか」って提案してくれたんです。色鉛筆を社協で集めてくださって、「じゃあみんなで作ろうか」ということになって。その後、作り替えて今ので2枚目ですかね。もうそろそろ……来年度あたり、作り直そうかって言ってます。
そんな感じで、夏になったら流しそうめんをしたり、お正月には他の場所に行ったり。去年は福笑いやってみたり。
【吉田さん】懐かしい(笑)。
【礒﨑さん】そうですよね。
【根岸さん】そのときは何人ぐらいの方が?
【吉田さん】福笑いって、今は知らない子どもたちも多いですもんね。
【礒﨑さん】親の会の新年会でも、壁に貼って福笑いをしたんですけど、「それは目だからね」って言えば、なんとなく目のところ持っていきますね。そんなこともやってました。
【吉田さん】いいですね、この「地域でみんなで生きていく」って。すごくいいですね。
【根岸さん】月に1回くらいの感じで?
【礒﨑さん】そうです。この間も、「今年の暮れはこれ(マルジの端切れの仕事)がものすごくたくさんきてて、間に合わせないといけなくて……」言ったら、手伝ってくれたんです。CSWさんは「じゃあ私は料理作るわ」って、余りもののそうめんをパスタ風に料理してくれたのをみんなで食べて。こっちは仕事、こっちはお料理してっていう感じでしたね。
【根岸さん】そういう意味では、CSWは(地域との)つなぎ役をやってくれるんですね。
【礒﨑さん】そうです。やっぱりそういう人たちがいないと、なかなか私たちが(直接)行くというのも大変なので、つないでもらってます。(上池袋)図書館ともつないでもらったし。
【根岸さん】上池袋図書館ね。
【礒﨑さん】さくら公園のところにある図書館。あそこに、うちでバスハイクで東武――。
【根岸さん】東武スクエア?
【礒﨑さん】じゃなくて、建物があるところ。
【根岸さん】日光の?
【礒﨑さん】あそこ(東武ワールドスクエア)にバスハイクで行ったんです。あそこに世界のいろんなミニチュアの建物があるじゃないですか。その建物について本人たちが事前に調べたほうが行ったときによくわかるので、図書館に行くことにしたんです。そしたら、図書館の人が「いつでも使ってください」って喜んでくれて、うちの宣伝もしてくださったりとかしたんですね。だから、そういうときはまた利用しようかなと。
【根岸さん】先ほどの区民ひろばって、どこの区民ひろばですか?
【礒﨑さん】上池袋ですね。
【根岸さん】前に児童館があったところですよね。
【礒﨑さん】そうです。
【根岸さん】線路際にある。
【礒﨑さん】あとは朋有(区民ひろば朋有)ですね。
【吉田さん】朋有はフレイル(東池袋フレイル対策センター)があるところかな。
【礒﨑さん】あの、前の時習小学校の。
【吉田さん】旧時習小の向こう側ですよね。
【礒﨑さん】帝京(平成)大学のちょっと奥ですね。
【吉田さん】わかりました。
【根岸さん】郵便局の前ね。
【礒﨑さん】あそこが合併して朋有小になったんですよね。
【根岸さん】区民ひろばの人たちはよくいらっしゃるんですか? (そのときは)たまたま?
【礒﨑さん】たまたまですね。
【根岸さん】でも、そうやって連携できるっていいな。
【礒﨑さん】だから私も、(区民ひろばで行う)防災訓練は、線路からこっちの東側は担当させていただいて、車椅子とか障害者向けの扱いとかはそこで講習してるんです。毎回、頼まれると年に3、4回は出てお話はしてくるんですけど。
【根岸さん】ぜひそういうの、大事にしてもらったら。
【礒﨑さん】そうなんです。どこかでつないでおかないとね。顔だけでも覚えてもらって、なんかあの人こんなこと言ってたなって思ってくれればいいかなと。いろんなところへ頼まれたら行く、そんな感じですかね。
 
【根岸さん】(「麦の家」を)NPOにした理由はなんですか。
【礒﨑さん】それは法律が変わったからです。
【根岸さん】どういう意味?
【礒﨑さん】「小規模作業所」ではお金がおりてこなくなったんです。
【根岸さん】そういうことか。
【礒﨑さん】それがあって、どの作業所も全部、NPO法人という形になったんですね。
【根岸さん】補助金が出ないと。
【礒﨑さん】そうです。
【根岸さん】法人じゃなくちゃダメだということですね。
【礒﨑さん】そうですね。
【根岸さん】小規模作業所はプライベートな施設だととらえられてたのかな。
【礒﨑さん】なんなんでしょうね。国が小規模作業所という言い方を嫌がったんですかね。そのへんは私もよくわからないです。
【根岸さん】それで藤井さんともつながりが?
【礒﨑さん】藤井さんとは、もっと前からです。藤井さんはボランティアセンターでずっとボランティアやってて――。
【根岸さん】そうだね。(藤井さんは)子どものときからやってたから。
【礒﨑さん】まだあの方が20歳のとき。うちの娘が障害を持ってる年月と同じくらいのときに(出会った)。(藤井さんが)学生時代にボランティアしてるときに、私が(藤井さんが関わっていた)事業――スキー教室かなんかに(娘を)連れて行って参加して、そこで(藤井さんと)話し込んだんですね。この子って若いけどなんなんだろう、という。
【根岸さん】いい男だからね。
【礒﨑さん】(以来)ずっと付き合ってて。
【根岸さん】椎名町で部屋を借りてみんなで集まってやってたんです、あの連中は。(社会福祉協議会の)阿部さんとかね。
【吉田さん】若いというのは10代とか?
【礒﨑さん】そうです。その頃に私も知り合って。
【根岸さん】中学生ぐらいからもうやってたんだ。
【礒﨑さん】あの人、老けてたからもっと年上だと思ってて、ものすごい文句言ってしまったんです(笑)。障害児の見方が違うとか、いろんなことを。でもうちの娘と同い年ぐらいだったので、ちょっとショック受けてたんですけど。
【吉田さん】あの人、四十何年生まれだったんだ。
【礒﨑さん】昭和43年。
【吉田さん】そうだったんですか。しっかりしてますよね。
【礒﨑さん】年よりすごい老けてるんです。考え方も。
【吉田さん】お若いんだ、あの人。なるほど、わかりました。
【根岸さん】連中は、部屋を借りて、そこで一生懸命、合宿みたいなことをやってたんです。でも、大将がオートバイで事故起こして死んじゃってね。
【吉田さん】大将?
【根岸さん】阿部君っていうのが。
【礒﨑さん】そうですね。あの方はすごく面倒見がよくて、あの方がいないと、私もボランティアセンター行ってもダメだったかもしれないですね。
【根岸さん】マスダさんとかね。マスイさんでしたっけ、いましたよね。……そうか、補助金が出ないってことでしたね。
【吉田さん】補助金が出ないと。
【根岸さん】そこがひとつのポイントだね。
【礒﨑さん】どこの作業所も全部NPO法人になってるんですよね。NPO法人だと資本金がいらないので、人数だけ集まればいいということで。
【根岸さん】領収書も収入印紙押さなくて済むから。
【吉田さん】(NPO法人化は)平成20年からということですか。
【礒﨑さん】そうですね。だからその前に辞めるか辞めないかをすごく――。
【吉田さん】迷われて?
【礒﨑さん】迷うというより、区からは辞めてもいいというようなことを言われたんですけど、一部からは「ここは貴重だから残せ」って言われて。なにが貴重かっていうと、行く場のない人たちに場所を残せるのは、知的(障害者)だと区の施設を除いてここしかないので、残したほうがいいんじゃないかということになったんです。でも、私がやるにしてもお金がないから、それならNPO法人にしてって言われたんですね。だから、ものすごく悩んだんです。そこで辞めちゃえば、私、もっと楽だったかもしれない……とか(笑)。
 
【根岸さん】礒﨑さんの後継者の問題もありますよね。
【吉田さん】事後継承というか。
【礒﨑さん】そうなんです。それが一番、問題なんですよね。
【吉田さん】どうやって継承していくか、とか。
【礒﨑さん】今、すごく悩んでるんです。ここのことも、親の会のことも。すべてのところが今、後継者がいないんですよね。
【根岸さん】一緒に(年齢層が)上がっちゃうんですよね。新しい人が入るシステムがない。
【礒﨑さん】正直な話、ここは職員によく言って聞かせて継がせる可能性はあるんですけど、豊島区にいないとここ(地域)の情勢がわからないじゃないですか。日中はここのまわりの人と交流できるけど、通いで来てる人(職員)は、夜になにかあってもできないし、土日のお祭りとかにはなかなか参加できなくなっちゃう。だから、私の考えでは、職員は住んでいる人がいいなと思いますよね。親の会も、入ってくる人が少ないという流れが、ある程度できちゃってるじゃないですか。
【根岸さん】社会的なシステムがね。
【礒﨑さん】すごく困らない限りは相談に来ないですよね。本当に親が動けなくなって初めて来る。行き場がなくなって最後の最後に来るから、結局行き着くところは遠くになっちゃうじゃないですか。その前に言ってくれればもっと近場にあったり、そこまでならないうちにできることを伸ばしておけば別の道があったり、とか。すぐに相談にこないと、そういうことがわからないから……。
【吉田さん】ギリギリまで……ということですね。
【礒﨑さん】みなさん、ギリギリまで。「(障害を持つ子どもが)私より長生きすると困るから先に殺す」「死んでもらいたい」、みたいな雰囲気もありますしね。
【根岸さん】そういうふうになる理由は、今、行政がある程度サポートしてるからですか。あまりし過ぎちゃって自立をそいでる?
【礒﨑さん】そうです。だから、親の方ですよね。子どもの自立に向けては、国中の組織でいろいろと取り組んでいるけど、親の自立ができてない。なんていうか、「この子は私がいないと絶対ダメなのよ」っていうの、あるじゃないですか。知的(障害者)の親は、それがすごく強いです。
【吉田さん】私がいないと、っていうことですね。
【礒﨑さん】「私がいないとこの子は生きていけない、この世の中渡っていけない」って思っちゃうんですよ。でも今はいろんなシステムができてるから、うまく使えばそんなことはないと思うんですけど……大変なところはあるかもしれないけど、どこかでそういうふうにしないと。
【吉田さん】親って自立できそうでできないんだ。
【礒﨑さん】そう。できないから。
【根岸さん】今、8050問題(80代の親と50代の子が、収入や介護などの面で社会的に孤立する問題)とかあるよね。
【礒﨑さん】逆に障害を持ってる子が、親の面倒を見ちゃうんです。逆走してるんですね。「私がいないとダメよ」って言ってたのが、今度は逆に、「私の面倒見て」みたいになってきてて、そこから抜けられないっていう。それはすごく問題ですよ。
【吉田さん】深いな……そうなってみないとわかんないな。
【礒﨑さん】私自身も、今は自分の子を施設に入れてて、なにかあったらものすごい心配ですけど……。でも、私がいなかったら施設側はどうするんだろうと思うから、「施設ではどう考えてますか」って言っていくしかないじゃないですか。
【吉田さん】お嬢さんとしては、お母さんに対してどんなふうなんですか。
【礒﨑さん】一応、私を親と認めているみたいです。でも普段は施設で生活してるので、今は施設の職員のほうを信頼してると思います。うちに帰ってくれば、いつもいるから「お母さん」ですけどね。だから、月に一度の保護者会に行くと最初は大歓迎するんです。でも、しばらくするとすごく冷めてます(笑)。「今日はもう、あなたは帰るんでしょ」みたいな感じで。「さっさと自分の部屋に私を案内して、先生とお話してください」、みたいな空気を出すんです。「自分は職員と一緒にいるから、じゃあね」という感じでいなくなったり。
【根岸さん】別れるのが寂しいんだよ。
【礒﨑さん】なんだかそんな感じで。「自分は今日、連れて帰ってもらえないんだ」っていう雰囲気になったりしますね。「さよなら」って言うと嫌な顔はしますけど、「今日は仕方ないんだ……」って諦めて。で、車で迎えにいくと(家に)帰れるってわかるから、すごいテンションになったりする。
【根岸さん】どこの施設なんでしたっけ。
【礒﨑さん】「いけぶくろ茜の里」です。
【根岸さん】パンがおいしいところですね。
【礒﨑さん】そうですね。あそこができたとき、私たちがずっと欲しがっていた30人ぐらいの小規模施設だったので、「うちは絶対に入れなきゃ」と思ったんですよ。まわりからは、「まだ早い」「礒﨑さんちの子が入るなんてずるい」って総スカンだったんですけど、私が何十年も運動をしてきているなかで訴えてきたところができたので、どうしても入れたくて。入れたいな、早く手放したいなって。自分と本人の将来を考えたら、やっぱり。上の2人の子どもにも「ここ(施設)にいるからあなたたちはこうしろ」とか言えるなって思ったんです。
【吉田さん】茜の里にお嬢さんが入所したのはいつ頃なんですか?
【礒﨑さん】できたのが平成20年ぐらいでしたかね。(「麦の家」NPO法人化と)同じくらいですね。茜の里に入れたので、すっかり私がこちら(「麦の家」)をやれるようになった。
【根岸さん】それこそ親の自立ですね。
【吉田さん】そういう意味では親の自立だけど――。
【礒﨑さん】つらかったですね。つらかったですけど、どこかで踏んぎりはつけないといけない。自分自身もそうだし、見本じゃないけど、「このぐらいしなきゃダメよ」っていうのを見せたいというのもあったし。だから悩んだけど……黙ってたので、息子にはすっごく叱られました。「なんでもかんでも自分ひとりで決めるんだね」って。息子には言うと反対すると思ったのでね。息子は(娘を)すごくかわいがってるんですよ。
【吉田さん】妹さんのことを。
【礒﨑さん】私が勝手にやってると思っているらしいけど、私としては、息子たちには絶対に迷惑をかけたくないというのがあるので。
 
【吉田さん】長い歴史のなかで、行政といろいろと関わってこられたり、地域の方とも密接に関わってこられた部分が強くあると思うんですけど、今後はどのようにしていきたいですか?
【根岸さん】展望ね。
【礒﨑さん】私としては、地域でみんなが暮らせるまちづくりかな。
【吉田さん】地域と暮らす。
【礒﨑さん】今、うちに通ってる人でも、みなさん、ごきょうだいと一緒に暮らしてるんですよ。そうするとごきょうだいで同時期に高齢化して、どっちも動けなくなったり、わからなくなったりするじゃないですか。今はお兄ちゃんやお姉ちゃんが面倒を見てるけど、両方がダメになったときにどうするか。障害を持ってるほうの子が置いていかれるんじゃないかと思うので、それをうまくできるような生活の場ができたらいいな、とか考えてますね。
でも、私も年だからそうそう長くは考えられないので、足がかりを作っていくには、若い人にどういうふうに託すかですよね。
【吉田さん】若い人というのは、今、一緒に仕事されてる方だったり?
【根岸さん】若い世代にね。
【礒﨑さん】ええ、若い世代にどんなものを残せるか。だから、グループホームはもちろんいっぱい欲しいけど、豊島区においてはそんなにはすぐにできないので、自分の家でもサービスを受けられるようなシステムをどんどん作っていただいて。そのなかで、たまには外に出てくつろげる場所があったらいいなとか、そういう感じですかね。どんどん家庭で受けられるサービスを増やしてもらいたいですよね。いろんなサービスはあるんですけど、使えるサービスの制限がいろいろとあるので、本当にその人が欲しいサービスは制限なしに使えるようになったらいいかな。
知的(障害)の場合、年を取ると居宅介護といっておうちで受けられるサービスもあるんですけど、それもいきなり職員の方が家に入ってくると戸惑うので、まだ年齢が若いうちにどんどん入っていただいて、それが使えるようになるといいなと思う。
今は、居宅介護はよっぽどじゃないと受けられなくて、移動支援(障害者が外出する際に介護するサービス)ぐらいしかないので。体が不自由だと居宅介護を受けられてご飯作ったりする人が家に来ますけど、今は高齢者向けなんですよね。私はごねて、週2回、1人だけ居宅介護に入れてますけど、1人暮らしをさせるにはそういう応援も必要ですよね。
もちろん、コンビニで買ったものを食べるというのもあるけど、たまには(手作りの)温かいものも食べたいな、っていうのもありますよね。そういうときに、そういうサービスがあるといいなと思ってます。
【根岸さん】そういうサービスも、顔見知りとかだと(家に)入りやすいですね。それが地域ですよね。
【礒﨑さん】だからそのサービスが、私が行ってやるぶんには一銭にもならないし、正直言って、一銭にもならないことを毎日、続けるというのはかなりきついですよね。
【根岸さん】続けられないですもんね。
【礒﨑さん】だから、サービスとして、例えば週2回という形で入ってきちんと支払いをする。本人も、そういうのにお金がかかるということを覚えていく必要もあるだろうし。だから、いろんなところで移動支援を使っていろんなところに出られるようになったら、たまには1人で行ってみて報告するとか。そういうのもサービスの一環だと思ってるんです。そういうシステムがぐるぐる回るといいなと思ってますね。
グループホームは、豊島区ではなかなかたくさんはできないですもん。精神(障害)のほうは、ご飯を作らなくていいのであるんですが、知的(障害)の場合はご飯を作らないといけないので大変なんですよね。(職員が)朝晩のご飯を作らなきゃいけないから夜もいなきゃいけないし、見守りの時間帯が長いのでね。
【根岸さん】そういうシステムを社会で実現するための方策は、どうすればいいんでしょうね?
【礒﨑さん】それはもう、ずっと言い続けてるんですけど――障害児の親はみんなそう思ってるんですけど、とにかく国は予算がないとかで、なかなか……。ひとつずつやるからいけないんじゃないかなと、私は思うんですけどね。
【吉田さん】ひとつずつ?
【礒﨑さん】「何々が欲しい」って言ったらそれだけで終わっちゃう。いろいろつなげていってくれればいいんだけど。
【根岸さん】トータルでその人を見てないとダメだと。
【礒﨑さん】そう。つなげてくれればなって。それが今、CSW(コミュニティ・ソーシャルワーカー)さんが始めてることですよね。
【根岸さん】豊島区は立派ですよ、これだけCSWを派遣して。驚いたね。
【礒﨑さん】今はすごくCSWがやってくれているので、そういうところは他(の区)と比べると違うかなと思いますけどね。
【根岸さん】今後の展望はそういうところですか。
【礒﨑さん】そうですね。あとは……言ったらきりがないですけどね(笑)。
今、移動支援は年4日間もらえてますけど、前は施設に入っている子はおうちに帰ってきたときにヘルパーを使えなかったんですよ。つまり、移動支援を受けられなかった。だから親が全部連れていかなきゃなんない。親はどうしようもなくて施設に入れたのに、お正月休みや夏休みに子どもが帰ってきて、結局、親が見なきゃいけないとなると、すごく大変なわけですよ。だからそういうときに、移動支援とか居宅介護の職員がおうちに入ってその子を見てくれればいいんですよね。そういうシステムがちゃんとできていればね。それでようやく年4日(移動支援を)もらえたんですが、それも毎年のように要望書に載せて、かなり言い続けて、やっと。「礒﨑さん、(4日間を)使ってないけど更新するんですか」「はい、使ってないけど更新します」ってやってるんです。
うちの場合は娘(長女)が(車で外に)連れていってくれるからまだ助かってますけど、運転できなかったら迎えにも行けないしどこへも行けないから、移動支援とかを全部使うわけです。そういうことを知らない人もいますし、宣伝してもなかなか伝わっていかないから、いろんな面で拘束されちゃうんですよね。
【吉田さん】そういうことも、お嬢さんのことがなければ、まったく考えもしなかったわけですよね。
【礒﨑さん】考えなかったですし、知らなかったです。
【吉田さん】福祉課に行くこともなかったんですもんね。それでNPOを立ち上げるまで……本当にすごいことですよね。
【礒﨑さん】だから、どこでどうなるかはわからないですよね。
【根岸さん】障害を持っている子は、児相(児童相談所)には行けないんですかね。児相、今後どうなりますかね。
【礒﨑さん】どうなるんでしょうね。
【根岸さん】豊島区にも今度、児相ができますからね。
【礒﨑さん】これから、子どもに関するいろんな施策を考えていくっていう福祉計画ができるそうですけど、どこまでやれるのか、わからないですね。まずは実態調査をしてからという感じですよね。この間も福祉計画の見直しのためのアンケートをとったそうですけど、アンケートですら、ちゃんと答えを出せているのかわからないですね。知的(障害)の場合、自分でわかる子は自分で書くでしょうけど、わからなければ親の気持ちが入ってたりするから、本人との兼ね合いがどうなのかな……とか。
【吉田さん】難しいね。
【礒﨑さん】500人ぐらいに(アンケートを)出したって言ってたけど、500人では足りないんじゃないかな。返事が半分しか返ってこないですから。
【根岸さん】そういう調査はね。
【礒﨑さん】だから、出す枚数を倍にして、500ぐらいの返事をもらえたら違うと思うんです。出すのが500だと、半分くらいしか戻ってこないから、本当にそれでアンケートって言えるの?とは思いますね。
【吉田さん】首かしげちゃう。
 
【根岸さん】私が質問したかったのが、今度、児童相談所ができて障害者も扱うようなシステムになるのか、福祉でやられちゃうのか、その辺は――。
【礒﨑さん】今、子ども家庭支援センターみたいなのがありますよね、そこと一緒になるかどうかということですよね。
【根岸さん】今は福祉がメインですよね。
【礒﨑さん】昔の児童相談所は障害児も含めて見てて、豊島区の場合は大塚にあったんです。向こう側(区の西部地域)はどこにあったかわからないんですけど。豊島区って線路の東西でわかれてるから。
【根岸さん】保健所のあれ(東部保健福祉センター)か、子どものね。
【礒﨑さん】どういうふうにしてくのかっていうのは、わからないな。
【根岸さん】子どもだからみんな児童相談所で預かってくれるかなと思うけど、そうじゃないのか。
【礒﨑さん】多分、そのなかでわけるんじゃないですかね。
【根岸さん】今、いじめとかそっちのほうが多くなってるからね。
【吉田さん】そういうことなのよね。いじめなのよね。
【礒﨑さん】そう、いじめがすごく多くなってますもんね。いじめも昔からあって、私も小学生のときによく足を引っ張られたりとか、いろんなこと言われたりしたけど、そんなに深刻には考えてなかったかな。遊んでるぐらいにしか思ってなかったり。けど、今の子だとそれもいじめになるんだろうなという気はしますよね。
【根岸さん】昔はきょうだいがいて、きょうだいと近所の人たちといじめ合ったりとか、誰か守ってくれる子がいたりしましたからね。
【吉田さん】なんでいじめなんかするんだろうなと思っちゃうけどね。無視するというのもいじめなんでしょ。完全に無視しようっていうのもね。
【根岸さん】障害を持ってるといじめられますよね。
【礒﨑さん】そうですね。
【根岸さん】その辺がね。
【礒﨑さん】そうですね……。確かに見た目は奇怪ですもんね。私なんかは慣れっこになっちゃってるけど、やっぱり他の人から見たら、大きな声出したり独り言話しながら行ったり来たりされると、「この子なんなの?」って思うだろうし。私たちは「楽しそうにやってるな」としか思わないけど(笑)。他の人から見たらそういうふうには見えないですもんね。電車に乗って声出しているときなんか、「電車が好きで興奮してるんだな」とか思うし(笑)。
【吉田さん】アナウンスしてる大人の、男の人とかいますよね。
【礒﨑さん】(車両の)一番前で張りついて見てる子は、一番前が大好きっていう。
【吉田さん】大好きなんですよね。それでずっときちゃってるもんね。
【礒﨑さん】その子はその子なりに喜んでるんだけど、見た目が大人になってるから、(まわりは)「なんでこんなんなんだ」って思う。
【根岸さん】そういうのを許容する社会にならないとダメですね。
【礒﨑さん】私は楽しくて仕方ないけど(笑)。「また今日もいるわ」みたいに思うだけだけど、(他の人は)そうでもないですよね。
【吉田さん】なんか奇怪なものを見る目で見ちゃうような人も多いよね。
【礒﨑さん】娘が通所する前の話なんだけど――カラスが空を飛んでるのを見て、「落っこった!」って言うんですよ。そうするとみんなびっくりするじゃないですか。私は、娘にいつ「落っこった」って教えたか覚えてないんですけど、娘にしたら、高いところを飛んでるものはみんな「落っこった」なんです。「飛んだ」じゃなくて。「落っこった」って言うと、みんな「えっ?」「誰が落ちたの!?」って驚くんです (笑)。そこで私が思わず、「カラスが飛んでいるのね」ってつけ加えるんです。覚えた言葉が少なかったりするので、そういうことがあるんですよね。
電車に乗ると、人が多かったり、ざわざわしたりしてると、「うるさいんだよ!」って言うんですよ。うちで本人がすごくうるさいときに、息子が「うるさいんだよ!」って言ったから、その言葉を覚えたらしくて(笑)。自分がざわざわとしたときにそう言われてるから、そういう場所に行くと、言ってしまう。
【吉田さん】私も言いたくなるときありますよ。
【礒﨑さん】雰囲気で言ってしまうから誰がうるさいわけでもないんですけどね。その場面で(言葉を)覚えているんでしょうね。だからそういうときは私もおかしくなって、「ちょっと混んでるねー」みたいにフォローしたりして(笑)。そうやって自分自身がわからないと、なかなか本人のこともわからない。いきなりそういう言葉を出されると、知らない人は――。
【吉田さん】びっくりしますね。
【礒﨑さん】知らないと「えっ」て思うけど、それも仕方ないことでもあるし。私の友だちは、(自分の子どもが)じろじろ見られたら、「うちの子おかしい? おかしいよね、変な顔してるよね」って言うんです。「ちょっとそれ違うんじゃない」って言うと、「そのくらい言ったほうがいいのよ、そうすると相手は絶対じろじろ見なくなるから」だって(笑)。
【根岸さん】いろんな人がいることを、わかってもらうということですよね。
【礒﨑さん】そういう人ばかりでもないし、落ち込む人もいるじゃないですか。そういう人がもっと明るくなってくれればいいのになって、思うんですよね。
【吉田さん】みんな忙しいのにね。ポジティブに思考するわけじゃないしね。
【礒﨑さん】私のグループはみんなそういう人たちだったんですよ。
【吉田さん】いいところだよね。
【礒﨑さん】だから、落ち込んでる人を見ると、「なんで落ち込んじゃうのかな」とは思いますよね。落ち込んでもどうしようもないと思うんですけど、そう言うと、「礒﨑さんだからそうなの」って。それで、「違う違う、私も落ち込んだ時期はあったし、いろんなことに葛藤しながらやってきてるんだよ」って言っても、その葛藤が見えないから、違った人間に見えちゃうのかもしれないですよね。
【吉田さん】福祉課に日参するとか、そんな不屈の精神は本当にすごいことなんですけどね。普通、負けちゃいますよ、苦痛で。
【礒﨑さん】毎日のように行きましたもん。
【吉田さん】毎日は行けないですよ。どこかでやっぱり……。
【礒﨑さん】なんとかしてくれ、という感じで行ってました。
【吉田さん】そこのパワーというか強さは、なかなかできない。
【礒﨑さん】そこしか、行く場所を知らなかったんですよ。福祉課にしか行く場所がなかったから。
【吉田さん】でも向こうはピンポイントで来てるなと思ってますよね。
【礒﨑さん】だって、どこに行ってもわからないわけじゃないですか。どこに行っていいかわからないからそこにしか行くしかなくて、「なんとかしてくれ、どこか行くところないのか」とか。
【吉田さん】感動ものですね。
【礒﨑さん】うちは途中から(障害児に)なったから、余計にそうかだったのかもしれませんよね。生まれつきだったら、なんとなくの道筋を病院の先生からも教わったりするでしょうけど、うちは途中からだったから。
【吉田さん】微妙ですもんね、2歳半っていったら。すごく微妙な年に。
【礒﨑さん】だから、それまではすごくいろんなことがよくできてて……上のお姉ちゃんもお利口さんだったので余計に、ですね。
【吉田さん】親としては、わからなくなっちゃうと思いますよね。生まれつき障害があるというのとは違って、お利口ちゃんだったのが、ちょっと風邪引いたのかな、というところから始まったら。
【礒﨑さん】いきなり、また生まれたての赤ん坊になったわけですからね。体は動かない、寝返りが打てなくなる、歩けない、立ってもふにゃふにゃとしてるし……で、発作もあるし、目は白黒しちゃうし、手が発作で震えるし、あらゆることをしてくれるので……だから本当に、どうしていいかわからないからあちこちに行って。
【吉田さん】すごい戦いのお話からずれちゃうんですけど、私、ずっと前に仕事してた方のお嬢さんがね、中学1年生のときに子宮頸がんのワクチンで後遺症が出ちゃって、立ち上がるのにもものすごい苦労しているっていう子がいて。それまでは本当に、賢くてかわいい子が、中学1年生のときに学校で受けた予防ワクチンで、病気になっちゃったという。
【礒﨑さん】予防ワクチンはいい悪いがあってなんとも言えないんですけど……難しいですよね。
【吉田さん】生活からなにから、すべて親の思考から変えなきゃいけなくなっちゃうから。
【礒﨑さん】それを訴えても仕方ないしね。私も「風邪だって言ったけど、普通の先生ではわからないんですか? その先生を訴えられますか」と言ったら、そんなことは無理ですって言われて……。
【吉田さん】訴えたい気持ちがあってもできないですよね。
【礒﨑さん】できない。そういうことをすごく考えたこともあるけど、「普段はとてもいい先生だから仕方ないな」って。すごく時間もかかることだし。向こうの先生もこちらもなんとなく避けるようになるじゃないですか。今は普通ですけど、そういう時期もあったし、本当にみんなが考えに考えて……。
【吉田さん】どうしようもなかったと思います。その期間はね。
【礒﨑さん】溜飲が下がる、じゃないですけど、誰でも心を穏やかにするには時間がかかりますよね。私はもともとこういう性格だから早かったのかもしれませんけど。B型だからすごい早いんです、ぱっと忘れるタチですから(笑)。でも、正直言うと、心の奥底ではいつも、すごく考えてますよね。どうしたらいいのかなー……って。自分がいなくなったときに上の兄妹2人が、いくら親が「いいよ(大丈夫だよ)」って言っても「どこまでやってくれるのかな」とか。親としては、半分期待はありますね。半分は「いいよ」と言いつつも、半分は期待しているところがあります。
【根岸さん】迷惑はかけたくないというのもありますよね。
【礒﨑さん】そう。だから、そういうことを2人がどこまでわかってくれてるのかな、とか考えますね。
【吉田さん】家族を持つと、また考え方とかも変わってきちゃうからね。
【礒﨑さん】違いますよね。長男は結婚してて、娘のほうも籍は入れてないけど一緒に暮らしてますが、相手の人がどう思うかによっても全然、違うじゃないですか。たまたま2人とも、(相手が)いい人だったからよかったけど、そういうのに理解がない人と一緒になってたら、私はもうどん底ですよね。
【吉田さん】また別の悩みが出ますよね。
【礒﨑さん】旅行も一緒に行ったりとかしてるから、その辺はすごくいいなと思っているんですけどね。だから本当にもう、人生、流されてきたっていう感じはある。
【吉田さん】いやいや、流されてなんかないですよ(笑)。
【礒﨑さん】流れるようにきた感じがあるんです(笑)。
 
【根岸さん】そういう意味では、礒﨑さんが突破力を持っていて、ある程度できたときにうしろにグループがあったわけですよね。だから今、そういう状況におちいったお母さんやお父さんたちに助言するとしたら、どういうことがあります?
【礒﨑さん】やっぱり、1人で考え込まないで、というのが一番ですよね。どんなにささいなことでも、どこかしらにつなげれば、その先に枝がどんどん広がっていくので、それをつかまえてほしいと思いますね。
【根岸さん】とにかく自分で言って、そうすればどこかつながると。
【礒﨑さん】人間って、「この人には話せるけどこっちの人には話せない」っていうの、あるじゃないですか。でもそうじゃなくて、その人に話したらその人がもっと枝を持っているかどうか、なんですよね。その人のことがもし嫌でも、その人が枝をいっぱい持ってたら、そのほうがいいわけじゃないですか。だからそこの見極めをうんとしてほしいと思いますよね。嫌でも、枝をいっぱい持ってる人に言ってほしいなと思いますよね。
【根岸さん】いっぱい打てばどこかに当たるんだ。
【礒﨑さん】そうなんです。「ここでダメだったら、こっちにつなげてみようか」とかしながら――。
【根岸さん】ネットワークを作るっていうことですか。
【礒﨑さん】そうです。私もすごく物忘れが早いほうですけど、さっき話した藤井さんが忙しいからつかまらないときに、違うところにつながったりとか。誰かが、「僕ならつかまりますよ」って言ってつかまえてきたりとか。そういう流れのなかで「こういうのやりたいんだけど」って言うと、「僕も考えましょう」ってなったり。そういうふうにどんどん広がっていく。
【根岸さん】とにかくしゃべるということですね。
【吉田さん】意外な人が意外に……ということも多いですよね。この人だ、って思ってたら間違えちゃってることもある。
【礒﨑さん】いろんな人と接触する。あとは行政だって考えてくれてるし、講演会とか勉強会とかもあるじゃないですか。時間があったらそういうのにどんどん出席してみるということですよね。貪欲にやってほしいなと思いますね。
【吉田さん】そうすると広がってくるわけですね。
【礒﨑さん】でも、意外とやらないんです。みんな安定しちゃってるから。安定してるところに本人(当事者)たちがいるっていう事情があって、駒込(福祉作業所・生活自習所)とか目白(福祉作業所・生活実習所)の施設に通っている親にしてみれば、安定しすぎてるから、「先のことは職員と区がやってくれるからいいわ」っていう感じなんですよ。そこをもっと貪欲にやっていってくれれば、もっと違うものが見えるかもしれないですよね。
【根岸さん】アンテナを張らなくなっちゃうんですね。
【吉田さん】だからつねに、どこかに飢えというか足りないもの、不足がないとダメなんだ。安定しちゃいますよね、人間って。整っちゃうとね。
【礒﨑さん】でも、自分が安全のなかでもっと安心できるものはなに?って考えたときに、勉強会とかがあるじゃないですか。人の話を聞くだけでも違いますし、体験を聞くことでも違ってきます。人の話を聞くことって、感動だらけですよね。
【根岸さん】でも、聞くのは結構エネルギーがいるんですよね。
【礒﨑さん】いるけど、感動するから私は好きですね。
【吉田さん】感動だらけ……わかります。
【礒﨑さん】いろんな人の話を聞いて、つまらない話でも「へえ」って思ったりして、自分との違いに気づくっていうこともあるじゃないですか。それが勉強になる。自分の考えとは違うけど、こういう考えもあるんだねって思うし、だから考えとか感覚は違っていいのかなと思います。私ぐらいの年齢になると、みんな「もう年だからいいのよ」ってなっていくけどね。
【根岸さん】(そういう人は)多いですよ。
【礒﨑さん】いいのよって言うけど、最後まで元気でいなくちゃなって思う。
【吉田さん】それはそうですよ。
【礒﨑さん】いいのよ、で終わっちゃったら、どんどん老けこむよ。
【吉田さん】元気ならいいというわけじゃないですけど、元気だとしてもどんどん忘れていくから。
【根岸さん】俺と礒﨑さんは同じ年齢だけど、同窓会に行くとスマホ持ってるのは10人に1人しかいないんだよ。「もういいよ」って。
【礒﨑さん】私もスマホなんかはほとんど使わないけど、でも使ってみて使いづらいなって思ったらすぐに(店に)聞きに行ったりしてる。
【根岸さん】(他の人は)そういう力がないから。
【吉田さん】そういうのもパワーがいるんですよ。
【礒﨑さん】でもそれですぐ忘れるんですよ(笑)。それでまた聞きに行ったりとか。
【吉田さん】そういう繰り返しがなにに向かうか、ということか……。
【礒﨑さん】(聞かれた方は)あきれてると思いますよ。でも、「どうしましたか?」って顔を覚えてもらえる。「また来たか」って思ってるだろうけど(笑)。
【吉田さん】そうしたら聞かれた側も考えているわけだ、「こういう70代の方にはどうしようか」とかさ。それも大切なんですよ。
【根岸さん】向こうの学習だよね。
【礒﨑さん】どんどん(スマートフォンの)中身が変わっていくからわからなくなる。中身が変わった途端にすぐ飛んでいくんです。「また中身変わってる!」って。
【根岸さん】向こうもびっくりしちゃうな。
【吉田さん】私も、冷たい対応をするようなところには行かないで、他のエリアに行ったりしますよ。「わかって当然」みたいな対応をされちゃうとね……。
【礒﨑さん】担当の人もずっと同じお姉ちゃんで。たまに違う人が来ると私が変な顔してるので、また担当が戻るんですよ(笑)。でも教えてもらってもなかなかわからないので、「ちょっと待って、紙に書くから」って、書いてみたり。私の世代は、書かないと覚えられないんですよ。
【吉田さん】今は書かないですよね。何でも言っちゃったり、(インターネットで)ペキペキやっちゃったりして終わりですからね。
【礒﨑さん】それがダメなんですよ。字に起こしてみないと覚えられないから、「ちょっと待って!」って、絵まで描いて覚えるという感じで。
【吉田さん】向こうはなに描いてるんだろ、なにしてるんだろ、って思ってますよ(笑)。
 
 
 

■作業部屋にて布製品の話(インタビュー終了後)


 
【礒﨑さん】(布製品・布を見せながら)今、再来年に納品しないといけないこまごまとした注文がきてて。(職員が)縫う方が追いつかないんですよね。毎日のように作らないといけないから、私の仕事もたまってるんですよ。
【スタッフ】すごくかわいい。素敵。
【スタッフ】職員の方は何人ですか?
【礒﨑さん】さっきの2人と、私だけ。2人とも、お子さんがまだ小さいから休みがちなんですけど、こういうの作るのが好きなタイプだから。「礒﨑さんはこれ、自分たちはこれ(を作る)」って分担してやってるんですよ。こんなふうに布が切ってあるので、年が明けたらすぐにとりかからないと間に合わないの(笑)。
【スタッフ】2、3個作るだけでも大変そう。
【礒﨑さん】そうそう。だから作ってるとだんだん飽きてきちゃうんですよ(笑)。たまに違うの作ってみたくなったりして、違う作品にチャレンジするんだけどね。(がま口のハンドバッグを見せながら)今はこれ。
【スタッフ】わあ、かわいい。柄がちょっとレトロですね。
【礒﨑さん】この金具のつけ方をもうちょっと工夫しないとなの。前にビーズでがま口を作ったらすごく売れたんですよ。うちの母がビーズでがま口を作ってたのを見てて、真似してみたんです。なんでもやってみないとわからないのね。
【スタッフ】すごい、商品開発部だ。
【礒﨑さん】やっぱり、こういう細かい作業が好きなんですよね。母も姉も、家族じゅうで好きなの。山梨にいる姉はもっとすごいですよ。
【吉田さん】山梨のどちらに?
【礒﨑さん】市川大門です。花火で有名な町です。姉は私以上に細かい作業が好きで。籠を編んでみたり……すごいですよ、本当に。私が余った材料を送ると違うものができあがってきますからね。
【スタッフ】それはすごい。
【礒﨑さん】母に似て細かい作業が好きなんですけど、たまには自分のものを作りたくなりますよね。作業自体、苦にはならないけど。やっぱり似たものばかり作っているとね。
【スタッフ】さっきもおっしゃってたけど、自分の楽しみのためじゃなくて、お金のためだけに作ってると嫌になっちゃうんですよね。「作業」っていう感じになっちゃうと。
【礒﨑さん】だから、この冬は自分の帽子とマフラーをやっとこさ編んだところ。
【スタッフ】すごい(笑)。やっぱり自分のための楽しみがないとですね。