インタビュー全文テキスト

■小森香子さんインタビュー


令和2(2020)年11月11日14時~16時、「雑司が谷旧宣教師館」1階にて
 
【吉田いち子さん(以下、吉田さん)】雑司が谷でお生まれになって、少女期まで雑司が谷で過ごされたということですね。お母さまが小川未明(児童文学者)さんと親交があったというのは、どういう関係ですか?
【小森香子さん(以下、小森さん)】私の母は東洋英和女学校(現在の東洋英和女学院)を出ていて、村岡花子(翻訳家・児童文学者)さんの後輩なんですよ。村岡花子さんは、「村岡のおばさん」って言って、『子供の時間』っていうラジオ番組で人気者だったおばさん。(母は)その後輩で、親しくしてもらって。クリスチャンの学校でしたから一応クリスチャンだったんでしょうけども、いわゆる信者っていうような人ではありません。大変、自由な考え方の母親でした。きょうだいは一番上から姉が2人で……写真を見てもらったほうがわかりやすいと思って、持ってきました。(写真を見せながら)これが私の生まれた家族です。(私は)末っ子です。
【吉田さん】末っ子で、こちらがお母さま?
【小森さん】にぎやかな家族でございました。父は軍需工場で働いていましたので、生活としては中産階級的で、割と満ち足りた幸せな生活をしてました。母は文学好きで若い頃、小説なんかを書いてたようです。「女がものを書くなんて」っていう雰囲気でしたので、おそらく夢は伏せて、これだけの子を育てたんだと思いますけども。
だから、おもちゃを買ってくれるというよりも、クリスマスプレゼントでも何でも、とにかく本を与えてくれたんです。童話集だとか。家には鴨居まであるような作りつけの本棚があって、そこに円本――円本は1冊1円だったらしいね――当時、出始めた小説の全集がびっしり詰まってたのです。本棚の中には、きょうだいが読んだ雑誌から、装飾本から何からたくさん入ってて。私は、まだやっと平仮名が読めるようになった頃から、『少女の友』とか片っ端から読んでました。竹久夢二だとか、素晴らしい人たちの挿絵に憧れて、仮名から何から自分で読みたくてしょうがなくて、わかりたくてしょうがなくて……教わらなくても自然と読めるようになったという感じでしたね。そういう本棚がある部屋で遊んでたから、大人の本も片っ端から読んで、そのうちに、宮本百合子――当時、何て言ったっけ。
【根岸さん】結婚して宮本になったんですよね。
【小森さん】宮本百合子になる前の名前で文学全集にも書いていたじゃない。そういうようなのものも、むさぼり読んでました。
小川未明さんの本もその中にありました。当時、小川未明さんの分厚い童話全集も出たところで、布張りで素敵な本でしたよ。小川未明さんの童話は、赤い南天の実の絵が表紙に描かれててね。私が自分で本を読むようになるまでは、母親が必ずそういう童話を読んでくれたんです。子守歌じゃなくて、童話の読み聞かせね。小川未明とか坪田譲治とか、当時、出版されたばかりの童話作家の作品を、母親は買い集めてたんでしょうね。
小川さんの長女が、たしかうちの2番目の姉と同級生だったと思います。うちは上が女で、下が男の子で、末っ子が私というきょうだいです。小川さんのお嬢さんと同級生だった姉は女子師範(女子高等師範学校)を出て小学校の先生になったんですけど、この姉(長女)は慶應の看護婦さんで、2人とも働く女性でした。
【吉田さん】働く女性の先駆者ですね。
【小森さん】そういった家族構成ですから、みんな本を読むのが大好きで、母親に影響されたと思うんです。父親は、軍需工場の営業部長でしたから、それはもう堅物で。軍(の人)と飲むことしかなかったような男です。全然、文化的なことがどうこうっていうんじゃないんです。やはり母親の影響っていうのがきょうだい全員、大きかったですね。みんな本が好きでした。
【吉田さん】自然に読めるようになったというのは小学校1年ぐらいですか? もっと小さい頃?
【小森さん】学校に上がる前から読んでました。
【吉田さん】一番上のお姉さまとは、年はいくつ違うんですか? ひとまわりぐらい?
【小森さん】(写真を指しながら)この人(長女)が看護婦さんの時に。
【根岸豊さん(以下、根岸さん)】この昭和9(1934)年の写真を見ると、次女が20歳の時に三女の香子さんが5歳とあって15歳も離れてるから、それよりもですか。
【小森さん】(次女を指しながら)これが2番目の姉ですね。
【根岸さん】それより上だってことですよね。20年近く離れてるのかな。
【小森さん】昔は子だくさんでしたからね。その末っ子ですから、もう何でも上の者のまねをしてました。だから本を読むという点では随分ませてたと思いますね。
【吉田さん】かわいがられて。
【小森さん】うん。かわいがられて、何でも好きなものを与えられて。
【根岸さん】この(小森さんの写真の)住所は今でいうとどの辺ですか。雑司が谷のどのあたりですか?
【小森さん】今でいうと……。
【根岸さん】グリーン大通りのあたりですか。
【吉田さん】根津山のあたり?
【小森さん】どういうふうに表現したらいいんだろう。こっち側から雑司ケ谷霊園に入っていくと、真ん中辺に入り口があって、その道に入っていくと漱石さんの墓があるので……わかりますか。
【根岸さん】わかります。
【小森さん】そこへ直接行けるような道筋の真ん中あたりに、家があったんです。大通り、電車通りに近いほうです。
【吉田さん】今の南池袋ですね。
【小森さん】そこから二軒ほど向こうへ行くと、雑司ケ谷霊園の前の通りに出るっていう感じね。
【根岸さん】この(旧宣教師館の)近くですね。
【小森さん】本当に近くです。だから、遊び場はいつも雑司ケ谷(霊園)でした。
【吉田さん】雑司ケ谷霊園が遊び場?
【小森さん】はい。もう、悪いことばっかりして(笑)。
【吉田さん】霊園で?
【小森さん】お兄ちゃんの後にくっついて暴れ回ってました。あの頃はほら、戦争ごっこでしょう? 5歳頃から棒を振り回して戦争ごっこをしてましたね。漱石さんの墓の横あたりによじ登って飛び降りろ、ってお兄ちゃんに言われたりして。
【根岸さん】今でもあそこ、目立ちますもんね。
【小森さん】「そこから飛び降りたら2階級特進!」なんて言われて、兵隊さんのまねして。母親はそんなこと知りませんのでね。私は、(兄に)何をさせられてたかなんてことは母には黙ってましたから。夜になると、美しい童話を読んで聞かせて寝かせてくれたというのが、私の母親でしたね。
【吉田さん】どんなお話がお好きだったんですか。小川未明とか?
【小森さん】小川さんのだったら『赤い蝋燭と人魚』とか。何べん読んでも飽きないというか、とにかく好きでしたね。浜田広介とか、小川未明の童話は好きでした。
【根岸さん】小学校は、文京区の小学校へ行かれたんですよね。
【小森さん】そう、青柳小学校です。うちのきょうだいはみんな青柳小学校。私の息子たちも青柳でした。外国暮らしをしていた間は行ってませんが、息子(長男)は6年生の時、下の子(長女)は1年生の時に日本に戻ってきて、また青柳に通いました。
【根岸さん】前は、文京区立じゃなくて、何区?小石川区かな。
【小森さん】そう、昔は文京区じゃなくて小石川区だったのね。条例で随分、区割りが変わったんでしょうけど。ちょうど私たちが住んでた雑司が谷の外れまでは、青柳小学校に通ってました。それよりちょっと池袋寄りになると、高田第四小学校。だから、近くに住んでても「あの子、第四よ」とか(笑)。
【根岸さん】そういうのがあったんですね。
【小森さん】小さい子の中でもそういうのがあった。
【根岸さん】じゃあ、(第四小学校の子とは)戦争ごっこは一緒にやらなかったんですか。
【小森さん】青柳に行くっていうのが、プライドよ(笑)。
【吉田さん】プライドがあった?
【根岸さん】あったんです。少しエリートだったのかな。尋常小学校6年まで青柳小学校に通って、その後、今の豊島高校(東京都立豊島高等学校)――都立第十女学校(東京府立第十高等女学校)に?
【小森さん】はい、昔の都立第十高女に入りました。私の学年からは、私ともう一人のお友だちの2人だけ、試験に通ったんです。
【吉田さん】優秀ですよね。
【小森さん】あの頃はどこへ入るっていうことでいろいろ差別があったのよ。第二高女(東京府第二高等女学校。現在の都立竹早高等学校)か第十高女か、っていうことで。
【根岸さん】ランクがあったんですね。第二高女って今のどこなんですか?
【小森さん】第二高女というのは、女高師(東京女子高等師範学校。現在のお茶の水女子大学)の(近くの)ところです。
【根岸さん】今のどこになりますかね。
【小森さん】音羽通りのところにある――。女子高等師範は、姉が卒業したところです。
【根岸さん】高等女学校までは歩いて通われたんですか?
【小森さん】池袋から昔の武蔵野線に乗って、3停留所ぐらいです。
【根岸さん】椎名町?
【小森さん】椎名町のもう一つ先の東長崎。
【根岸さん】そこから(学校まで)歩いて?
【小森さん】うん。そこから坂道を上がったところに学校があった。
【根岸さん】今でも同じところですよね。
【小森さん】今でも同じ場所にありますよ。
【吉田さん】たしか、女優の久我美子さんが卒業生ですよね。
【根岸さん】結構、(有名な)卒業生いるんだよね。
【小森さん】あそこ(都立第十高等学校)は、戦後に有名な女優さんになった人がいたじゃない。香川――。
【根岸さん】香川京子さんだ。
【小森さん】そう。彼女は後輩なんです。
【根岸さん】それじゃ毎日、池袋まで歩いて武蔵野線――今の西武線に乗って行ったんだ。当時の電車代はいくらぐらいしました? 覚えてらっしゃらない?
【小森さん】もう、忘れちゃって。定期を買って乗ってたから。自分でお金払ってたわけじゃないから、印象が残らないのよね。
【根岸さん】ここから都電に乗って行くことはなかったですか。
【小森さん】池袋まで? 都電はどこまで通ってたかね……。
【根岸さん】池袋駅まで行ってた?
【小森さん】うん。あのあたりって結構、原っぱだったのよね。牧場だったの。牛がつながれて、草食べてた。
【吉田さん】池袋がですか?
【根岸さん】牧場だったと。
【小森さん】今の護国寺から大通りがあるでしょう。あそこが全部、原っぱだったのよ。池袋から。牧場だったの。
【吉田さん】のどかですね。
【小森さん】牛がのんびりと草を食べていて。そしてお祭りなんかがあると、そこにあっという間に舞台が組み立てられて、『岩見重太郎ひひ退治』なんていうのが上演されたり。お盆になると、みんなでそこで盆踊りをしてましたね。『東京音頭』が子どもの頃にできて、まねをしてました。
 
【吉田さん】高女の時に学徒動員だったわけですね。
【小森さん】学徒動員は、女学校3年になったか、そろそろなるかって頃ね。王子の日本化学工業の工場に動員されて、防毒マスクを作っていたのね。私は、呼気弁っていう象の鼻みたいな薄い弁に穴が開いていないかどうかを、空気の通る機械にはめて検査するんです。100人ぐらいいる女学生の中で、たった1人それをやらされてた。すごい精神的負担よね。もし私が間違えて穴の空いたのを通しちゃったら、それを使った兵隊さんは死ぬんだ、って思うじゃない。正直にそう思うんだよね、ちっちゃいから。
【根岸さん】毒ガス作戦があったからね。
【吉田さん】それはきついわね。プレッシャーなんてもんじゃないわね。
東京大空襲の後に滋賀県に疎開したとのことですが、滋賀県に行くことになったきっかけは何かあったんですか?
【小森さん】戦争がきっかけで知り合った兵隊さんの故郷が、滋賀県だったんですね。
当時は、毎月のように小学校から各家庭に対して、慰問袋を送ってねということをやってたのね。強制ではないけども、そういう習慣ができてた。慰問袋を家庭で作っては、戦地に送ってて、その仲介に小学校があったわけ。うちの母は世話好きだったから、手袋を編んだものや、私が書いた作文だとか手紙だとか、いろんなものを袋に入れて送ってたんです。銃後の家庭はそれを送ることでお国に奉仕をしてるっていうことだったんですね。銃後っていうのは、たとえば街頭に立って通りがかった人に布を渡して、「武運長久」って言いながら糸を玉にして縫いつけてもらう千人針をやってたんですね。虎の絵ができるまで、縫いつけてもらって、絵ができあがると腹巻に仕立てて慰問袋に入れて送るのが、銃後の女たちのひとつの務め。大日本国防婦人会っていうのがあったんだよね。みんな制服のように、白いかっぽう着とたすき掛け姿で、街頭で千人針を刺してました。うちの母はいつも白い割烹着だったけどたすきは嫌いで(笑)。それで、女の子は街頭で一緒に並んで千人針のお手伝い。「おばさん、刺してって」って(通りがかった女性に)声をかける。子どもに言われるとみんな、刺してやらなきゃって思うじゃない? そういうものが入った慰問袋を受け取った兵隊さんは、感動するわけよね。見知らぬ女の人たち、子どもたちがやってくれたと思うと。それで、戦地からも心がこもったお礼状がくるわけ。(慰問袋の)送り主の住所は兵士にわかるから、必ずお礼状がくる。それでつながりができるわけよね、戦地の個人と。戦地の兵隊さんと銃後の母や娘たちとの……まるできょうだい、息子みたいな絆ができてきたのね。そういうつながりができるっていうのは、国策だったのかもしれませんね。そういうことが可能であったということはね。
それで、その兵隊さんがたまたま一時帰国した時に、自分の田舎に帰らずに東京の相本(小森さんの旧姓)のうちに泊まったわけよ。だから、そのつながった兵隊さんの田舎に行ったのね。
【吉田さん】その兵隊さんの田舎が滋賀県だったから疎開したんですね。
【小森さん】そう、その兵隊さんの故郷が滋賀県だった。滋賀県木之本町っていう小さな町でした。
【吉田さん】東京大空襲があって、ご自宅はどうなったんですか?
【小森さん】焼けましたよ。
【根岸さん】東京の大空襲、この辺はちょっと遅かったんですよね。
【小森さん】最初は池袋のほうが焼けたんですね。うちでは、下から屋根のところまで水を運んで消火しました。2階の物干しのところにセメントで作った防火用水をでんと置いてあって、そこにいつも水を満たしてるんだけども、とてもじゃないけどその水じゃ足りなくてね。広い大通りの向こうから、畳が上昇気流に乗って燃えながらくるくる回って飛んでくるんだよ。坂下町が焼けた時には上昇気流が強くて、畳が屋根の上を飛んでる。その火の粉が散るわけだから、私が必死になって屋根が焼かれないようにする。もう水道が止まっちゃってたから、井戸からギッコンギッコンと水をくんでは、階段をよいこらよじ登って、2階の物干しから、バケツの水をジャバッとまく。そんなまだるっこい消火の仕方だけど、わが家を守ったのね。私が15歳ぐらいで第十の3年生の時、兄が中学の5年だったかな。動員に出たのが3年生からだったからね。そんな年頃の子しか残っていないわけだからね。父親は病で寝たきり、母親はその看病でふらふら。食べるものを手に入れるために、大変な苦労をしてました。配給だからね。
【根岸さん】自分で畑は作らなかったんですか?
【小森さん】庭はもちろん全部、畑にしましたけども、あまり場所がないから墓地の隅っこを掘り返して作ってました。
【根岸さん】それと、その大空襲の時、根津山にたくさんの焼死体を集めたっていう話を聞いたことがあるんですけど、それはご覧になりましたか。
【小森さん】トラックで下町のほうから焼死体を運んできてね。その頃、根津山はまだ雑木林が残ってたから、掘り返して埋めたのね。私はその頃、王子のほうの軍需工場で夜の7時頃まで働かされてて、電車も止まってるから歩いて帰ってこなきゃならなかった。
【吉田さん】王子からだと結構、歩きますよね。
【小森さん】そう。それで、やっと池袋のあそこ(根津山)までたどり着いた頃に、ちょうど下町のほうからトラックで死体を運んできた。だから、早乙女(勝元)さんのあの物語の死体が……。埋めるところがなくて困ってたら、雑司が谷にはまだ森があるっていうんでトラックで運んできたんだね。私が歩いて帰っていく時、ちょうど埋めてるところだった。
【吉田さん】埋めたのは根津山ですか……。
【根岸さん】今、南池袋公園になってるところ。(当時は)根津山って言ったんだよね。
【小森さん】雑司ケ谷墓地の周りには笹だらけの空き地が随分とあって、そういうところを掘り返してね。都電の電車通りの――あの頃は王子電車で、ずっと土手が続いてたあたりなんだけど――そこも掘り返して……そこにね。なにしろ、真っ黒けに焦げた丸太みたいなもんなんだけど、臭いがするから死体だってわかるじゃない。女学生の私だってわかるわけよ。トラックから、鳶口で(遺体を)引っかけて下ろして、掘った穴へ突っ込むっていう状態のところに行き合っちゃったもんだから、夢見が悪かった。そういうような状態だったから、どこの誰さんがそこに埋められて、果たしてその人の骨が後々、拾われたのかどうかなんてことは、私にもわかんない。自分の家が焼けちゃって、疎開しちゃったんだから。その後、どうなったか知らないけど、そういう場所であったということは、紛れもない事実だから。
【根岸さん】あと、小森さん自身は戦争のことをどういうふうに思ってらっしゃいましたか? ちょっと、言い方が失礼かもしれないけど。
【小森さん】どういうふうに思ってるかって言われたって、「こう思え」って言われて……。
【根岸さん】「鬼畜米英」だったんですか。
【小森さん】鬼畜米英なんて言われたって……。
【根岸さん】戦争の行方みたいなのもある程度、おわかりに? 戦争の行方がどうなるかっていう感じは当時、ありましたか。
【小森さん】いや、勝つなんてちっとも思えなかったね。だって、こんなに足元まで焼けてくるような中で、どうやって勝つことができるかって思った。そして、私たちの家も――。
【吉田さん】焼けてしまったんですもんね。
【小森さん】焼ける寸前に、疎開したんだよね。病人の父親を守らなきゃならないから。私が女学校3年の頭だったかな、とにかく病気の父親を疎開先まで送り届けなきゃなんなかったわけ。あの頃は汽車にもまともに乗れなかったから、窓から乗ったんだよ。小さい私は窓をくぐり抜けて、ぴょんって飛び込んで。たった一つ、父親の席を取るために、そういうことをやったのね。網棚の上まで人が座って、下にいる人の頭の上にゲートル巻いた軍靴がぶらぶら下がってるような汽車に乗って、行きの道の長いこと長いこと。東海道線が(戦争の影響で)通れないので北陸線回りで、その滋賀県の兵隊さんの実家にたどり着いたわけね。降りたら雪が軒まであって、すごいところへ来ちゃったんだ、と思った。
それからすぐにまた勤労動員で軍需工場に行った。今度は名古屋三菱航空機っていうところ。もう名古屋にいられなくて、工場ごと滋賀県木之本町まで疎開してきたんですね。製糸工場だったところが全部、名古屋三菱の機械工場に乗っ取られたわけ。航空機を作るという名目でそこへ疎開してきたんだけど、もうその時にはまともな航空機部品なんて作っていられない状況だったと思うのね。回ってくる部品なんかもみんな故障してたから。工員仲間では、そういうのを「オシャカ」っていうんだけど。いくら旋盤(作業)がうまくなっても、傷物しか回ってこないんだから、どうにもならない。何もかもオシャカなのよ。いくら働いたって、まともな飛行機ができるわけないの。
 
【根岸さん】戦後になって、神戸女学院(現在の神戸女学院大学)ではいろいろ活動をされたんですよね。
【小森さん】戦争が終わって、とにかく生き延びることができて、病気の父親を連れて大阪郊外の豊中に住むことになったんです。兄が大阪大学を出てもう一人前の医者で、結構、腕のいい医者で、嘱望されてたのね。兄自身も腎臓が悪かったわけだけど、その兄のところしか頼れないんで……長男だったし。
【吉田さん】ご主人と知り合ったのは、大学に入ってからのことですよね。
【根岸さん】(昭和)26年ですって。
【小森さん】いつ出会ったかっていうのは……そう、その前にね、神戸女学院に入って、演劇などをやったりして、羽仁新五っていう国語の教師と親しくなったの。その人は戦時中から活動家だったんだよね。素晴らしい国語の先生だった。神戸女学院ってきれいな建物なんですね。国文学の先生がいる職員室っていうのは、塔のてっぺんのようなところ。私はしょっちゅうそこへ出入りしててね。
あの頃、天皇の行幸っていうのがあって大学巡りをしたりしてたのね。かっこいいところ見せたかったんだね、あの人。拒否した学校もあったみたいだけど、神戸女学院はクリスチャンのくせに喜々として行幸を受け入れたわけよ。そうすると、天皇が来るんだからってお庭やなんかをきれいにしなきゃいけません、っていうことになる。「なんでミッションの先生がそんなことを言うのよ」って私は思ったけどね。神戸女学院ってすごく庭が広くて、自然が豊かなところなんだけど、そこを隅々まできれいにするわけ。それで、塔のようなところにある院長室に天皇が入ってきてご休憩をなさると。まだまだ物資が乏しい頃にね。
【根岸さん】赤いじゅうたんですか。
【小森さん】お休みなさる場所が院長室で、丘の上にあるから、私たちは(準備のために)のぼらなきゃならない。着るものさえ大変だった時代なのに、坂道に美しい布をだあーっと敷きつめるわけよ。私は正門警備隊っていうところに配属されて、お出迎えしなきゃならなかった。ばかみたいな仕事をやらされたんです。
そこで、羽仁新五と親しくなっちゃったの。なんでかっていうと、私はその時「こんなところでぼんやり車が来るの、待ってらんないよ」って思って、日本文学全集の宮本百合子(当時は中條百合子)の本を抱えて座りこんでたわけよ。そしたら羽仁新五が来て「お前、何読んでるんだ」って言うから「『伸子』です」言うと、「へえ、女学院にも『伸子』を読む子がいるんだね」って、私に目をつけたわけ。以来、羽仁先生の研究室に時々行ってはおしゃべりをして、だんだんと影響を受けるようになって。そして、ついには3年生の時に自治会でもいろんな責任を持つようになった。
女学院といえども金持ちのお嬢さんばかりが来るわけじゃないんで、四国なんかから親がよこすわけよ。お嫁さんになる時に箔がつくと思ってね。そういう人たちの中には、なかなか生活が苦しい人だっているわけ。寄宿に入れば安くは暮らせるけども、それでもアルバイトをしなければ暮らしていけないような時代だったのね。あの頃、お金の取れるアルバイトっていうと、工場。賠償工場っていって、日本の軍需工場は進駐軍に引き渡さなければならなかったんだけど、引き渡しの前に工場の機械をきれいに掃除するのね。ワックスを塗って、新品のようにぴかぴかにしてから、進駐軍に渡す。女学生が夏休みに、そういう掃除のアルバイトに就く。私もそれをしてました。
そういう苦労をしながら勉強してて、女学院で出会った左翼の羽仁新五――その教師の田舎が伊賀の上野で――そこに私が(行って)「今度、自治会の責任者になりました」「こういう立場になりましたから、仲間を誘って青年共産同盟の組織を作ります」って言って、そういう活動を始めたわけよ。
【根岸さん】いわゆる「細胞」っていうやつですね。
【小森さん】そう。その相談のために羽仁さんの家に行ったときに、たまたまそこを訪ねてきた小森良夫という東大生と出会ったわけ。あの頃、国労(国鉄労働組合)がものすごい争議をやってたから国鉄の労働者も訪ねてきてて、いろりを囲んで丁々発止と討論をやってるのを、そこにたった一人いた女の子の私が片隅で聞いてた。新五先生は病気で起きられず向こうの部屋で寝てたから、私はその大学生と労働者の話のほうに引き込まれていったわけ。
【根岸さん】それがきっかけか。
【吉田さん】結婚された時は、ご主人は学生だったんですか?
【小森さん】結婚する時はもう卒業してました。
【根岸さん】その時に、『陽子』っていう小説を書いたんですか?
【小森さん】小説を書くのは、また別の話。陽子っていうのは私のことで、戦争体験やなんかをまとめて書きましたけど、小説家にはならないで詩人で売り出しちゃったの。どうしてかっていうと、『青い空は』っていう詩を書いてしまったからなんだけど、それはまた別の流れの話ですね。
(女学院の)演劇部では当時、「文工隊」っていって、農村へ行って演劇を見せながら宣伝をするっていう活動をしたのね。共産党の青年共産同盟の中にある「文化工作隊」ね。私はクリスチャンになりそこなって、そっちのほうへ流れてったわけ。そういう活動を始めたのは3年の終わり頃なんだけど、退学させられそうになったのね。そしたら、デフォレスト先生っていう宣教師の校長先生が「あの子は迷える子羊ですから、イエス様は大切になさるでしょう」って言って、私を守ってくれたのよ。それで退学にならずに卒業することができたし、演劇活動もできた。青年共産同盟の文化工作隊は、いろんなところで演劇をすることで民衆の中に入っていく文化活動を大事にしてたんだけど、新劇の人たちも、そういう民主的な活動をやってくれたわけよね。『夕鶴』とか、有名な演劇も生まれて。
【根岸さん】木下順二のね。
【小森さん】ええ。私たちも、そのまねをしながら文化工作隊で『夕鶴』を演じて、農村の人たちと仲良くなっていろんな話をしたりして。左翼の運動はそういう文化活動で始まったわけね。
【根岸さん】そういう中で、ご主人とプラハに行かれたと。
【小森さん】結婚した時、夫はもう労働運動の活動家でしたからね。
【スタッフ】創作活動を一時中断されてから、再開するきっかけを教えていただけますか?
【小森さん】(中断したのは)別に思想的にどうこうっていうんじゃなくて、もう小説なんか書いていられなかったのよ。稼がなくちゃならないから。
【根岸さん】お子さんを育てるために……。
【小森さん】子どもも産んだし、寝たきりの姑さんも抱えてどうやって暮らすんだっていう中で、とにかく私が稼ぎ手にならなければならない。だから小説なんか書いちゃいられなかったのね。同時に、夫が国際的な労働運動の中でプラハに派遣されるということになって、私はくっついて行かなきゃなんなかったの。
【根岸さん】インターナショナルなんですよね。第一インターかな。チェコは何語だったんですか? ドイツ語ですか?
【小森さん】チェコ語なんだよ。チェコ語を勉強するのは必要だったから。(先に)夫が飛行機で出かけていって、その時はまだ置いていかれてたわけ。だけど、後から追っかけて行かなきゃならなくて。子どもも一緒にね。(写真を指しながら)このちびとね。
【根岸さん】小森陽一さんと(小森良夫さんの)顔がそっくりだ。プラハの生活はどうでしたか。
【小森さん】それは楽しかったよ。差別も受けなかったし。連れてった娘が、みんなにかわいがられてね。彼らは黒髪の子なんて見たこともなかったんでしょう。例えば、リディツェという町で、(戦時中)ナチスの弾圧で子どもたちが皆殺しになったことがあって……彼らは日本人の子どもを見ると、広島と結びつけてくるわけよ。リディツェにはその子どもたちの銅像があるわけだけども、そういうものを作る運動の話をする時に、チェコの人たちは必ず広島の話をする。だから、(日本人の子どもを見ると)そこにつながっちゃうのね。そういうつながりのようなものがある民族だったの。そういう中で子育てをするうちにいろんなことを感じるようになって、また書きたいなと思って、詩を書くようになったの。「この体験を書かなければ」と思ったんですね。
【根岸さん】息子さんがずっとチェコ語ばかり話してたから、日本に帰ってきてから日本語の会話に苦労したって、どこかに書いてらっしゃいましたよね。
【小森さん】だけど、家の中ではなるべく日本語でしゃべるという意識だったのね。息子はロシア語の小学校に行ってたし、このまま何年もチェコ語だけで過ごすことになるかもしれないと思ったから。チェコ語は国際語じゃないから、後で便利なようにロシア語学校に入れたわけね。それと、向こうにいた政治家の米原昶さんっていう――。
【根岸さん】娘さんの(米原)万里さんが小説家。
【小森さん】万里さんが面倒を見てくれたんです。
【根岸さん】彼女のエッセー、おもしろいですもんね。
【小森さん】そういう国際的な雰囲気の中で、誰も差別しない場で子育てをすることができたのは、すごくよかったと思うのね。
【根岸さん】息子さんは、プラハには何歳までいたんですか?
【小森さん】小学3年生くらいで行ったんだよね。
【根岸さん】それから5年ぐらいいたんですか。
【小森さん】帰国した時に6年生だった。
【根岸さん】文京区の小学校に行ったんですね。
【小森さん】青柳小学校の元のクラスに戻ったのよ。だから、みんなにおもしろがられて。国際的に育ったというのが、すごくよかったと思うのね。息子は今、大学の先生で忙しいくせに九条の会事務局長で飛び回っているのは、国際的な感覚の中で少年時代を過ごしたっていうのが随分プラスになってると思うのね。
陽一は、「太陽の子だ」と思ったの。生まれたばかりの頃は、本当に育つかしらって思うような、鶏がらみたいな子だった。異常妊娠で、お腹に栄養が回ってなかったわけよ。だから、お医者さんから「何か月持つかしら」って言われて、付き添ってた私の母親が「先生、そんなこと言わないでください。ちゃんと育つように指導してくれるのが先生でしょう」って言ってね。そんな赤ん坊だったのよ。それが今、社会活動の先頭に立ってるんだから、幸せなことですよね。
息子と娘の名づけは、すごく主観的なんです。「痛い思いして産んだ母親に名づけの権利があるわよ」っていうのが、私の考え方で。断固としてそうだった。男の人は何も痛い思いしてないんだから(笑)。うちの亭主はあまり「俺が名前をつける!」なんて言うほうじゃなかったから幸せでした。陽一っていうのは、とにかく身ごもったと思った時から「この子は太陽の子」って思ってたから。女の子だったら陽子、男の子だったら陽一だと決めたの。だから、私の小説のヒロインの名前も陽子なんだよね。
(娘の)まどかの時は、お産は本当に楽だったのよね。陽一の時にはなかなか大変で、生まれてからも、死ぬか生きるかで大変だったんだけど。産み終えて後産を1人で待っている時、夕方で、産室の高い窓のところにちょうど真っ赤な夕日が見えたのね。それがなんだか、本当に……「なんてまどかな夕日だろう」と、そういうふうに思ったわけ。それで名前が決まっちゃったのね。だから2人とも太陽の子なのよ。太陽の子の1人は、死んじゃったけどね。
 
【根岸さん】雑司が谷に戻ってきたのは昭和40年、1965年ですか。
【吉田さん】東京オリンピックの後なんですね。
【小森さん】そう。チェコのテレビで見たよ、東京オリンピック。よそのうちでテレビ見せてもらって。
【根岸さん】そういう時代ですもんね。
【小森さん】姑さんを置いていったから、再び雑司が谷の家に戻ってきたんだけどね。(チェコに)出かけるまでは姑さんの面倒を見るので精いっぱいだったけども、帰ってきてからは自由に活動することができるようになって。ちょうどその頃、大塚坂下町の家の近くに詩人会議とか新日本婦人の会っていう民主的な婦人団体ができたのね。昔から民主的な病院や診療所、早稲田のセツルメントなんかもあったところで、そこに子どもたちがよく出入りするようになったから、スムーズに活動に受け入れてもらえたの。とにかく、私にとって人生の激動期だったのね。そういう中で創作活動を再開したのは……やっぱり、自分の足跡を記録したいじゃない?
【根岸さん】当時、坪田譲治さんと何回かお会いになりました?
【小森さん】坪田譲治さんの自宅に「びわのみ文庫」っていう童話を書くサークルができていたのね。私はそこに入れてもらって、いくつか童話を書きました。私は小川未明にもすごく学んだわけだけども、(チェコから)帰ってきて、童話を書くということについてじかにお教えいただいたのは坪田譲治さん。そこでいくつか童話を書いたりしましたけど、もう残ってませんね。
【吉田さん】そうなんですか……読みたかったです。
【小森さん】その頃、姑の世話をしながら民主的な婦人運動に関わっていたんだけど、まだ、勤めてはなかったのよね。自分が収入を得るような働きはしてなかったから、独立したかったのね。自分で稼ぎたかった。労働運動家の亭主の収入は少ないんだから、子どもの文化まで、なかなかいかないでしょう。自由に子どもを育ててきたいから、何か私もしなきゃならない。
そういう中で「びわのみ文庫」と結びついたのは、プラハにいた頃、私の母が日本から坪田さんたちが出してた雑誌(『びわの実学校』)を送ってくれたからなのよ。母が、小川未明や坪田譲治と精神的に親しかったし、未明さんの娘さんとうちの姉とが同級生だし。学校の時の保護者としての付き合いとともに、童話作家である小川未明の作品に対する母の愛情があったからこそ、私に読み聞かせもしたんだろうし。私は『赤い蝋燭と人魚』っていう童話に魅せられて育った世代だから、童話っていったら、小川未明や坪田譲治。坪田譲治の『善太と三平』みたいな生活と結びついた童話に囲まれて幼児期を過ごしたのは、母親のおかげかな。私のまわりにそういう本を置いたのは母親だったからね。
【吉田さん】じゃあ、お母さまから「びわのみ文庫」の雑誌が送られてきたのがきっかけで、入ってみようかということに。
【小森さん】帰ったら絶対ここに入ろう、と思ってたわけ。チェコで書いた童話を持って坪田さんを訪ねたらすごく喜んでくれて、すぐに受け入れてくれて、私の創作活動が始まった。だけど、すぐ童話作家の道に入るというふうにはならなかったのね。どういうわけかわかんないけど(笑)。
【吉田さん】詩を書いてみようということになったんですか。童話は何作品ぐらい書かれたんですか?
【小森さん】プラハのことなんかで3、4本は書いたけども、もうどっか行っちゃった。
【吉田さん】お母さまの影響がすごく大きいっていうのがよく伝わりました。
【小森さん】うん。私は父の影響はあまり受けてませんけども、母の影響はすごく受けてますね。あの母があったから、私は生きてこれたと思います。
【吉田さん】プラハまで(本を)送る母心がすごいと思います。普通は、なかなかしない。
【小森さん】本当に、そう。私が何を求めているかということがわかる人だったのよね。私、手紙にそういうものが欲しいなんて書いたわけじゃないのよ。だけど母が、坪田譲治が『びわの実学校』を作り始めたのを発見した時に、これを娘に送ってやろうと思ってくれたっていうのが、うれしいよね。そういうつながりがあったから、今の私があるのかなと思ってます。そういう意味では、私の母はすごい教育者だと思う。
 
【根岸さん】「びわのみ文庫」の(活動の)延長線上に、(雑司が谷旧)宣教師館があるんですね。童話を読む会、朗読会が。
【吉田さん】宣教師館とはどうやって関わるようになったんですか?
【小森さん】それは……アメリカで変なテロがあったでしょう?
【吉田さん】9.11ですね。
【小森さん】飛行機で、塔みたいなのへ突っ込んでね……。あんなテロは、本当に近代的というか何というか、思いもつかないようなということで人を殺すんだと。そういう神経がすごく怖いじゃない。人間ってこういうことをするのかなっていう。私にとって、あの事件というのはすごく、恐怖だった。
【吉田さん】最初はテレビでご覧になったんですか。
【小森さん】私のうちはその頃テレビを置いてなかったので、ラジオで聞くぐらいでしたけども。だから、「びわのみ文庫」の(活動の)延長線上っていうより、ここ(旧宣教師館)を発見したのは、テロ事件の後、たまたま。誰にも妨げられないで散歩できる場所は雑司ケ谷霊園ぐらいしかなかったんだよね。それで、通り抜ける時にここを発見して、中に入れてもらって。そして、「ここは宣教師さんが作った館だったんだ。こういうところで日本人の心を切り開いていかれたんだな」っていうことがわかったのね。だから、私はなんとなくだけど、ずっとクリスチャンの近くを歩いてきたんだね。神戸女学院にしてもそうだし。自分はクリスチャンではないんだけども、懐かしい場所だったわけね、ここが。
【根岸さん】神戸女学院のイメージですね。
【小森さん】そう。神戸女学院の礼拝室みたいな、生活感もあって懐かしい場所。そこへもってきて、テロがあったり、自分の家庭生活も難しい年寄りを抱えてたりもしたもんで。姑さんも大変、不幸せな人だったもんだから……ややこしくて難しい家庭だったのよね。(小森良夫さんの)親のほうがね。だから、その嫁さん(香子さん)っていうのは大変でね。
【根岸さん】僕のおふくろもそんな感じだったな。社会的に介護を担ってくれなかったから。
【小森さん】(私の)亭主は労働運動一本で頑張ってて、その人をちゃんと支えていかなければならないと。すると何もかも嫁さんにしわ寄せが来る、みたいな家庭だったから。ただ、2人の子どもを育てるっていうことでは、すごく明るく楽しく過ごしてたから、ややこしい家庭をさばいていけたと(笑)。
【根岸さん】マネジメントしたんですね。
【小森さん】心の中に余裕があったの。それで、子どもたちにもいいものを読ませなきゃと思ってた時に、たまたまここ(旧宣教師館)に来たら書棚に『赤い鳥』が保存してあるじゃない。「何これ?」と思って(管理人に)聞いたら、「全部、保存してあるよ」っていうから。「こんな素晴らしいところに、なんで誰もいないの?」「オルガンもある。触りたい」って思った。なんだか、秘密のオアシスみたいな感じがしたんだよね。それから、私は暇を見て――姑さんの世話しながらだから、本当に暇を見ては足を運んで、『赤い鳥』の大事さが改めてよくわかった。懐かしさもあって「これを1人でも多くの人に読んであげたらどうなんだろう。自分が母親に読んでもらったように。もしかしたら、大人の人だって懐かしく思うんじゃない?」と思ったのね。ここには子どもが来てなかったから、朗読を聞いてくれる人がいるのかなとも感じたけど「ものは試しだ、やってみよう」って思って、受付にいた女性に「私、ここで朗読をやってみたいんです。やらせてくれませんか」って。私、学校(明治女学院)で演劇部にいて、朗読とか演劇は素人ではないので、直談判したの。その女性に拾ってもらえたんだ、私。
【吉田さん】その頃のお姑さんのご住所が大塚坂下なんですか。
【小森さん】そうよ。大塚坂下町。
【吉田さん】じゃあ、時間を見つけては、そこから宣教師館に通ったということなんですね。
【小森さん】家の近くで自然の中を歩ける場所っていったら、雑司ケ谷霊園しかない。人にもそんなに会わないし、やかましくないじゃない? だから、散歩する場所は雑司ケ谷霊園って決まってたの。私、映画なんか見に行かない人だから、池袋のほうなんかあまり行かないのよ。だから、すぐ近くにここ(雑司が谷旧宣教師館)があったということが幸せだったのね。
【吉田さん】演劇部に入ってらして朗読に自信がおありになるっていうのは、やっぱり発声なんかが自信につながったんですか。
【小森さん】発声法とかいろいろ学んで、それなりに勉強しました。演劇部の後も長いこといろんな団体で朗読をやってきて、サークルも作ったりなんかした。でも、そういうサークルってなかなか長続きはしないのね。よっぽど興味を持たない限り。一度通過しておもしろかったなと思うんだろうけれども、組織としてつながっていくっていうことは、あまりないね。
そんな中で私がなぜ朗読を続けてるかっていうと、障害者たちのための朗読をしてきたからなのね。1人の女性が始めた「視覚障害者友情の会」っていうのがあって――博多に本部があるんだけど――ある女性が、目の見えない方たちのために朗読をテープに吹き込んだの。その女性が、博多の自宅で小さい録音機に『赤旗』の朗読を吹きこんで始まったっていうことを、亭主が『赤旗』編集部の責任者だった時にたまたま知ったのね。彼が、個人にそんなことをやらせておくのは申し訳ないじゃないかって言い出して、党本部でそれをやるっていうことになったわけ。個人にやらせておくのは経済的にも負担だからってことね。じゃあ、誰に朗読をやらせるかっていう時に、俳優さんとか新劇の人とかいろいろ(案が)出たんだけど、最初にやってみるか?って言われたのが私なんです。私が朗読好きで続けてたのを、彼はちゃんと見てたのよね。それで、家の近くの文京区のあたりのスタジオで『声の日曜版』というのを始めた。それからずっと、今も毎週、渋谷のスタジオに通って朗読をやってるのです。
【根岸さん】今でもやっておられるんですか。すごいな。
【小森さん】木曜日には風邪はひけないっていうね。
【根岸さん】それがおそらく健康のもとだな。
【吉田さん】すごいですね。
【小森さん】私の健康をはかるバロメーターにもなるんですよ。うかうかと病気はしていられない(笑)。
【根岸さん】たいしたもんだ。俺も頑張ればあと15年ぐらいできるってことかな。
 
【根岸さん】(おばあちゃんのお話会が)200回になるっていうことですけど、その間の苦労などはありますか?
【小森さん】苦労は何もなかったよ。私がやりたいことをすぐ受け入れてくれたし。材料(蔵書)も豊富だったしね。『赤い鳥』がこれだけ保存してあるっていうのは、まれに見るいい環境でしたよね。演劇部にいたから朗読も好きだったので、自分の好きなことで人さまの役に立てれば、これに越したことはないなと思った。
この間の『東京新聞』の写真見て、びっくりしたけど、すごくあの写真、雰囲気あるね。
【根岸さん】僕、見てない。この宣教師館の?
【小森さん】宣教師館の外観が全部、載ってて。上に雲がすっとあってね。本当にいい雰囲気の写真だったね。
【根岸さん】神戸女学院で退学を止めてくれた宣教師さんがいて、ここで宣教師に出会うと。ある意味では人生の節目に、宣教師がいたんですね。
【吉田さん】朗読を通じて子どもたちに伝えたいことはありますか?
【小森さん】朗読する作品にもよるんだけども、なんせ童話だから、あまり単純な勧善懲悪じゃなくて、温かい雰囲気のあるお話を読みたいと思ったのね。そうしたら、こちらで選んでくださるも作品がいつも、「ああ、読んでよかったな」と思えるようなのばかりなので、大変幸せです。
【吉田さん】今は休会してるんですよね。
【根岸さん】工事があるからね。
【小森さん】工事が終わったら、また読ませていただきたいと思います。
【根岸さん】月1回だったんですか? 200回っていったらかなり――。
【小森さん】月1だったかどうか忘れちゃった。
【根岸さん】月1ぐらいですよね。年に12回で、10年で120回。10年以上はやってるか。
【小森さん】そういう日時の記憶がだんだん失せていく人だから(笑)。
【スタッフ】毎月、第1土曜日の午後2時からです。
【根岸さん】月1だったんだ。
【小森さん】埼玉の公民館かなんかからもお声がかかって、見学に来られたことがありました。呼ばれて(埼玉に)行ったことあるよ。
【根岸さん】それはすごい。お話会の今後はどうですか。展望などは。
【小森さん】どのようにしていったらいいんでしょうか、皆さんのお考えを聞きたいです(笑)。私はもう素直に、このまま続けていきたいと思うけども、そんなことでいいのかな、とか……よくわかんないんですよね。私が好きでやってるだけでは申し訳ないじゃない? どんなふうにしたらいいっていうお考えがあったら、聞かせて。
【根岸さん】お話を聞いてらっしゃる人の反応を聞きながら、いろいろフィードバックしながら、小森さん自身の中で発展されることって、いっぱいあるでしょう。
【小森さん】ここへ来てくださる方は皆さんおとなしくて、なかなか反応を示してくれないの(笑)。
【根岸さん】ちょっと寂しいですね。
【小森さん】うん。おとなしいの。誰かと一緒に帰りながら電車の中でおしゃべりをして、(次回に)お友だちが1人増えるということもあるけども、その方がぱたっと来なくなると、もうそれっきりでしょう。そういうサークルとかができるっていうことがないんだよね。それはそれでいいと思うのよ。自由に、興味のある時だけ来ておもしろがってくれればそれでいいんだけど。誰も来なくなったら、やめるよりしょうがないよね。
【根岸さん】小森さんは詩人会議の事務局長をされたことがあるわけでしょう。そういう意味で、オーガナイズする力があるんじゃないですか。
【小森さん】詩人会議のほうはあまり……詩人っていうのは気難しくて(笑)。
【吉田さん】なんとなくわかります。みんなと一緒にっていうのはね。
【小森さん】そうそう。仲間になるっていうのはあまりね。(詩人は)あまり他人の影響を受けたくないからね。詩人会議の組織とここの活動とは関係ないし、期待もしてないし。ここの話もしてないから。たまたま(お話会に)興味のある子が一度や二度、来たことはあるけど。
 
【根岸さん】『生きるとは』(小森さんの詩集。2008年、詩人会議出版)についてはどうでしょうかね。生きるとは何でしょうかという質問はちょっと……難しいですかね。
【小森さん】ひと口ではなんとも言いようがないね(笑)。
……人間っていうのは、誰でもそれぞれの場所でいろんな体験をするんだけど、その体験の一つ一つが自分の成長にどうつながるのかっていうのは、難しいよね。私はずいぶん不幸が重なったと思うけども、へたらなかったということだけは、プライドです。もう駄目だと思うことが何度もあったし、生きてたってしょうがないんじゃないって思うことが何度もあったけど、なにか文化的な活動をしながら生き続けるっていう生き方を捨てなかったっていうことには、プライドを持てると思うのね。
自分がやりたいと思ったことはなかかなかスムーズにできなかったけど、いつも私の周りには、へたりそうになった時に支えてくれる仲間がいたってこと。同時に、私の息子が九条の会の事務局長とか難しいお仕事を――これは親が押しつけちゃったんだけど(笑)、引き受けて頑張ってくれているのでね。自分たちの生きざまが、今の日本の歴史と密接に関わっていて、その道をちゃんと歩いているという自覚が、ささやかだけどいつも胸の中にあるので。それで温まって、また立ち上がることができると思ってます。……今一人暮らしですけど、一人で生きていくっていうのはなかなか大変なことですよね。
【根岸さん】息子さんはどこに住んでらっしゃるんですか。近く?
【小森さん】息子は東京に住んでますけど、週に1遍はおいしい夕ご飯を持ってきてくれます。忙しい人だからね。とにかく彼が健康であるということは幸せですね。(息子には)娘が2人いるんだけども、これはもう、顔も見せない(笑)。もう、どうしようもないですね。若い女の子たちは、おばあちゃんのところなんか行ったってしょうがないよと思ってるんじゃない?
【根岸さん】お年玉はもらいに来るんじゃないですか。もう、そんなに小さくないか。
【小森さん】お年玉を欲しがる年はもう超えちゃったね。
 
【小森さん】お役に立つような話、あまりしなかったですね。ごめんなさいね。
【吉田さん】いえ。雑司が谷に生まれ育って、いかがですか。豊島区っていうのは。土地のよさとか、人々のよさとか。
【小森さん】こういう場所があって、そういうこと(お話会)に興味を持ってくれる方々がいるっていう雰囲気は――他の区に住んでないから他の区のことは言えないけど――こんなに自由に使わせてくださる場所があって、そして聞きたいと思って足を運んでくださるお客さまがいてくださるっていうのは、私にとって大変、幸せです。ありがとうございます。
【吉田さん】最後に、ちょっと話が戻っちゃうんですが、敗戦の時に玉音放送はどこで聞かれましたか。何か思ったこととかはありますか?
【小森さん】うちのラジオでしょう。
【吉田さん】もう、戦争には勝てないということがわかっていたと、さっきおっしゃって――。
【小森さん】あんなに空襲を受けて勝てるわけないですよ。もう、四分五裂のありさまだったんだから。それを一般に知らせないだけであって、どこの国の隅っこでもみんながそういう目に遭ってたんだから。それは隠しようもない現実ですからね。
どこかに書いたと思うんだけど、敗戦の時に戦争が終わったことを教えてくれたのは、メガホンで知らせて歩いたおじさん。その時、動員先の滋賀県の工場の寄宿舎にいたのね。そしたら外でおじさんが「皆さん、戦争が終わりましたよ、今夜から明かりをつけていいんですよ」って言ったのね。田舎の道を、メガホンを一つ持って、そう叫んで歩いたおじさんの声を聞いた時、「ああ、本当に、本当に終わったんだ」って思えたのね。「今夜から明かりをつけて新聞も読めるし、本も読めるんだ」って。それまで、本当に明かりのない暮らしだったわけよ。現実の電気だけじゃなくて、自分の心の中にも、前途にも明かりのない日々だったのよ、本当に。だけど、「今夜から明かりをつけていいんですよ」って。これ、すごいリアルじゃない?
 その明かりを、ずっとつけ続けたいと思います。その何か……一翼をね。