■植野正与(うえのまさよ)さん、山本ナミエ(やまもとなみえ)さんインタビュー
令和3(2021)年8月31日、13時30分~16時00分、区民ひろばさくら第一にて
【根岸豊さん(以下、根岸さん)】私、南長崎はらっぱ公園という公園があるって知らなかったものですから、昨日、探検しに行ってきたんです。そしたら結構、雑草がぼうぼうと生えてて「自由なんだな」と思いました。
【山本ナミエさん(以下、山本さん)】本当に自由なんです。
【根岸さん】小さいお子さん連れが何組か走り回ってたからね。普通、公園って何々しちゃいけないとかいっぱいあるんだけど、それがあんまりないと頃ですよね。プールがあったときは知ってたんですけど、その後は知らなかったものですから。
【吉田いち子さん(以下、吉田さん)】私は「としまの記憶」をつなぐ会をひもといてきましたら、2012年10月18日に西野光江さんというかたに、学生がはらっぱ公園の取材をしているんです。
【植野正与さん(以下、植野さん)】2012年……10年ぐらい前ですか?
【吉田さん】大正大学の学生が、当時87歳の西野光江さんに取材しているんです。はらっぱ公園との出会いとかを、一緒に現地を歩いてお聞きしました。なので、はらっぱ公園の名前はずっと頭の中にありました。(西野さんは)生きていらっしゃれば97、98歳ぐらい。区制施行80周年のときの記念動画なんです。
【根岸さん】10年ぐらい前だね。
【植野さん】その頃からだともうお年ですね。私が覚えている西野さんは、私の主人の両親が(西野さんの)仲人をしたとか言ってたの。亡くなった義母がそんなことを言っていたんですけど、西野さんは何にもおっしゃらなかったから、問いただすこともできないので。
【根岸さん】公園の活動以前の、植野さんと山本さんの歴史みたいなのをお伺いしたほうがおもしろいかな。どんな学生さんだったかとか。ちょうど僕と同じ世代ですから学生運動をやった時代ですよね。
【吉田さん】何年生まれですか?
【植野さん】昭和22(1947)年で、2月ですので(根岸さんと)一緒ぐらいです。私が大学4年のときに学生運動。私はお化粧をしているような生意気でいかれた娘だったものですから(笑)、学生運動は全然興味なかったんですけども。(学生運動の影響で)授業がなくなっちゃったの。だから卒論なんて書かずに卒業させてくれたの。いい加減なものだなと思いながら、明治学院の英文科を出まして。あの当時はみんなが働くという時代じゃなかったんです。嫁に行くとかそういうのが先ですから、私も就職をしようと思ってなかったんですけど、4月に誰もいなくなっちゃうわけです。それで働かなきゃまずいと思って、知り合いのつてで就職したんです。
こちらに嫁に来てから50年は経ちますから人並みにいろいろあったんですけどね。
【吉田さん】植野さんが豊島区に来たのは昭和45(1970)年?
【植野さん】そうそう。生まれは目黒区の緑が丘。自由が丘のそばなんですけど、そこに住んでいまして、学校を卒業してから……もうご存じない? 「オリムピック釣り具」という、釣り具の大きな工場があったんです。カクエイ・ハイホームっていうの? カクエイのマンションがあるわね、そこに。あそこの敷地がオリムピック釣り具の工場だったらしいんです。当時その本社が入間に移って、ちっちゃな事務所がその向かいの西落合にあったんです。私、そこに知り合いがいたものですから、学校を卒業してから就職したんです。カクエイの目の前の、西落合の会社にね。オリムピック釣り具という会社はもうないんですけど、もとはうちの主人の父親がつくった会社で、工場を大きくして入間に移してから、いろいろな事情があって会社の名称が変わりました。私はその会社があるときに勤めてて、そこで主人と知り合って結婚しました。私は目黒区のほうから池袋まで乗る電車も知らなかったぐらい。
【吉田さん】西武池袋線。
【植野さん】その線自体、知らなかったです。秩父にまで行く電車だし、私すごいところに勤めるんだ、とショックに思って勤めてたんです。事務の仕事で1年ちょっといましたかね。主人は今の住まいの前から住んでいたわけです。
【吉田さん】大家族のおうちだったんですよね。
【植野さん】そうそう。もともと300坪ぐらい敷地があったんですけど、真ん中に私道を通しまして、私のうちと主人の妹と姉――姉といっても36歳で亡くなりましたから、その子どもです――ひとつはアパートを建てているんですけど。そこでずっと生活してきているんです。植野の母も一緒に住んでいました。(植野さんの夫は)長男で一人息子ですね。主人の妹も家族を作って暮らしています。姉の子どもも同じ敷地の中に一緒に住んで。
【根岸さん】一族がそろって。
【吉田さん】にぎやかで楽しい。
【植野さん】そうそう、本当に助かります。
【根岸さん】自由が丘からここじゃ、だいぶ違いますよね。
【植野さん】やはり一番大きかったのは、会社関係のことで。主人がまだ20代で若かったものですから、オリムピック釣り具を継いでなかったんですね。会社を辞めるときにゴタゴタしまして。(植野さんが)辞めたのは娘が中学1年ぐらいだから、35歳ぐらい。(夫が)貿易の会社を始めたからよかったんですけども、辞めたときは6か月ぐらい何もしませんでした。あら、世の中ってお金がだんだんなくなると困るんだなと、そのとき初めて思いました。
それで英語を教えるようになったんです。自宅で自分のできることっていったら英語しかなかったものですから、初めは娘の友だちやらを集めて英語と数学を教えていたんですかね。小さく塾をやり始めたんです。そうこうしているうちに娘が中学に入ったので、池袋にある大きなトリプレット(・イングリッシュ・スクール)という英語塾に教えに行きまして、そこでしばらく働いて50歳ぐらいで自分の塾を持ったんです。府中のほうに物件を借りて。10年ぐらいしたかしら。けど結局は、植野の母が寝たきりになっちゃったものですから、夜中の介護もあるのでその塾も続けていられず、辞めたのが60歳ぐらいですかね。62歳ぐらいまでは仕事したかな。
【根岸さん】それぐらいから地域に結構コミットするようになったと。
【植野さん】そうそう。私が教えていた子どもさんが娘の同級生ぐらいですから、みなさん割と近くにいて、覚えていてくださる方もいたりして。ここに嫁に来てから、娘が公園で遊ぶからその近くの人たちとお友だちになるし、そういう意味では、私が育った(目黒区)緑が丘とは全然違う雰囲気ですね。緑が丘では隣にいたお嬢さんと会ったことがないし、隣近所に学校の友だちもいなかった。隣の女の子は慶應とかに行っていたんです。ですから接点がなくて、本当に知り合いができなかったです。22歳ぐらいまでしか住んでいませんでしたので、クラス会には行きますけど、地域という意味でのつながりはなかったです。
【吉田さん】生まれ育ちが自由が丘でいらっしゃるんですよね。
【植野さん】そうです。目黒区の緑が丘という地名のところで生まれて、弟はいまも住んでいます。
【吉田さん】長崎にあるような地元との関係はなかったと。
【植野さん】それが本当にないんです。ですからクラス会に行けば楽しいですけどね。地域柄、自由が丘の商店のかたが多かったんです。
【山本さん】自由が丘の、あの街ですものね。
【植野さん】ええ。ですからそこの友だちがいまはビル持ちになって。八百屋さん、いろんな商店さんがみんなビルになっちゃった。私は家も離れていましたから、小学校のときに人と遊んだ記憶がないんです。ですからこっちに来たら、これはいいなと思いました。うちは朝から晩まで公園にいるわけで。
【根岸さん】PTA活動なんかはおやりにならなかった? 小学校とか中学校とか、地元で。
【植野さん】こっちへ来ましてから小学校は2人とも公立で、上の子は中学から私立に行ったんですけど、下の子は長崎中学校へ行ったんです。ですから私は小学校から中学校は監査という役でした。何にもやらなくていい、最後にはんこを押すぐらいの役(笑)。
【根岸さん】塾の仕事をやっていらっしゃれば、それぐらいしかできないよね。
【植野さん】どうなんでしょうかね。回ってきた役が監査でした。
【吉田さん】決算書とか見なきゃいけないですね。
【根岸さん】PTAのときの人間関係みたいなものはずっと続いていますか?
【植野さん】もちろん。下の娘が中学まで一緒でしょ。小学校の2年3組が「ふみの会」といって、いまでも会合があるの。離れていったかたも、越したかたも、亡くなったかたもあったりして、いまは5人ぐらいになっちゃったけど。本当のことを言うと、コロナの前は2、3か月に1回ぐらいは駅前のやるき茶屋で集まりを持つんです。お母さんたちといまでも付き合いがあるの。だから本当にこっちに住んでよかったと思います。
【根岸さん】公園については人間関係とかはつながりますか?
【植野さん】ええ。朝から晩まで公園にいたから良い人間関係ができたんです。お母さんたちもみんないいかたで、公園でわーっと遊んで、うちにもみんなでわーっと来る。そうすると泥だらけになっちゃうんです。よく掃除機を持ってかけて回ってました(笑)。娘もそうだし、どのおうちもそういう状態で、みんながよくしてくれて。とうもろこしをふかしたり、おやつをくれたりして、みんないいお母さんでしたよ。
そうこうしているうち、「(NPO法人)ゆきわりそう」っていうのもできたの。もう長い付き合いになってくると、みなさんすごく冴えているんです。すごくいろんなことを覚えているの。あのかたたち、外で(植野さんを)見かけると「植野さん」なんて言ってくれるの。
【吉田さん】「ゆきわりそう」って?
【根岸さん】障害者の代行している人がやってるグループなんです。
【植野さん】この街ではいま一番大きい施設じゃない? だって5か所も6か所も建ててるし。そのかたたちがはらっぱ公園を助けてくれたりするので維持できてる。週に1回は雑草を取りに来てくれて。住んでいた地域のおかげで、「ゆきわりそう」にも、子どもたちが偏見を持ったりすることもなかったです。当たり前として。いまは孫たちも話したりしてる。
【根岸さん】近所の子どもたちも、そういうふうに当たり前に付き合うようになったんだ。
【山本さん】いまはいろんな人が、「わくわく」さん(NPO法人豊島子どもWAKUWAKUネットワーク)の「(池袋本町)プレーパーク」も年に1回、私たちの公園で一緒に活動してイベントを行ったりしますよね。
【根岸さん】今度は山本さんの前史を。
【山本さん】私はこちら(南長崎)で生まれて、小学校、中学校、高校から現在に至るまで地元です。私は1950年生まれで、中学2年のときにちょうど1964年のオリンピックがあって、水泳の選手になりたいなんて言ったりしてました。中学2年のとき、校内で3人しか当たらない(オリンピックの)水泳の観戦券が当たって観に行ったんです。それが強い思い出になっていて。
【根岸さん】十中(旧第十中学校)ですか。
【山本さん】十中です。
【根岸さん】ブラスバンドがすごかった。
【山本さん】そうです。長崎中学とよく競っていました。私の頃は十中にプールがなかったんです。だからすごくがっかりして。高校に行ってもプールがなく、よっぽど私は縁がないんだなと思っていました(笑)。陸上もやりたかったんですけど、高校の校庭が中庭ぐらいの広さしかないんです。なんでこんな学校を選んじゃったんだろうと思うぐらいがっかりしちゃって、それで演劇部のほうに入って、女優になりたいなと思ったの(笑)。人の前で何かをするのが好きなので歌手にもなりたいし、なりたいものがいろいろあったんです。演劇部に入ると、やはり好きこそものの上手なれで、先輩に認められてもらい、最初から主役をいただきました。3年間楽しくクラブ活動に没頭しましたが、お茶大出た担任の先生が怖くて。私が将来女優になりたいですって言ったら、「あなた何言っているの! そんなこと言ってたら大学に行かれないわよ」ってすごく怒られて。「女優なんて何十万人、何百万人に1人しかなれないのよ。大部屋女優で終わっちゃうわよ!」と、先生にひどいことを言われました。でも先生はとにかく私を諦めさせようと「あなたは4年制の普通の大学へ行って、学校の先生になりなさい」って。
結局、文科系で国語が好きだったもので、文学部の国文科に行きました。先生に言われたように母校の高校に戻って国語の教師になったんです。そこで楽しい教員生活を送ったんですけれども……私が48歳のとき、両親が相次いで倒れたんです。最初に母が倒れて、母だけだったら(仕事を)続けるつもりでいたんですけれども、父が翌年の1月に倒れて、2人とも歩けなくなって。学校は3月が年度末ですからやはり(仕事を続けるのが)難しいということに。母は脊髄梗塞、父は脳梗塞。両方ベッド生活です。実家の部屋をすべて改造してベッドを2台並べて、私が介護の生活に入ったんです。ただ、理事長先生からは同窓会の仕事ぐらいは出られるだろうと言われて、同窓会だけ残らせてもらって、教員のほうはもう難しいということで。やはり、2人倒れてしまったら……。
【吉田さん】高校の教員生活はどのぐらい?
【山本さん】25年です。
【根岸さん】いろいろな人生があるんだな。
【山本さん】そうですね。そのときも(辞職することを)止める先生もいれば、「いや、あなた、両親を見たほうがいいわよ」と言う先生もいらっしゃって。
ただ本当に、私が看たから10年間生きてくれたんだなって……母が9年、父が7年生きてくれて。学校の同窓会のほうに出る間は、ヘルパーさんをお願いしてね。その頃はヘルパーさんもすごく緩くて2時間入ってくれました。両親に2時間ずつ入りますから4時間やってもらえたので、十分出かけることができて。本当に頭のいいヘルパーさんで、「あなたが働けないなんておかしいから、やりたいことやりなさい」と言ってくれて、本当に私が安心して学校に行かれるような状況をつくってくれました。
それから結婚は学生結婚なんです。高校から大学に行くとき、私はまだやはり女優になりたかったから日芸(日本大学芸術学部)に行きたかったんですけど、先生が女優なんか絶対だめっていうので国文科に入ったんですね。それで、1年のときには狂言をやっていたんです。学校の先輩にプロの狂言を教えるかたがいたので。大蔵流っていう狂言をやりました。あと、どうしてもアナウンサーにもなりたいと思って(笑)、放送部に入ったら当時の夫がディスクジョッキーをやっていたんです。大学1年の文化祭で知り合って、2年生の6月に私が家出したんです。7、8月と親に連絡しなかったら、捜索願いが出ちゃった。大学のほうに連絡がいって、大学の友だちから私のところに連絡が来て「ナミエさん、とにかく大学に行きなさい。ご両親がすごい心配しているから」って。それで夫と2人で家に行ったんです。私がまだ19歳なので、親の承諾がないと結婚できないんです。母親は、「いつ別れるかわからないから大学を卒業するまでは同棲していたら?」って言ったけど、厳格な父は「とんでもない!」。「傷もの」という言葉が――。大学2年の9月に、山本の姓になったんです。
【植野さん】でもあの時代にそんなかた、いなかったでしょ。
【山本さん】いたの。私の大学時代には。
【吉田さん】『同棲時代』がはやった頃でした。
【植野さん】私と3つ違いで全然違うのね。
【山本さん】そうですね。大信田礼子が『同棲時代』を歌ったりして本当に流行ったんです。大学の中でも同棲している人はやはりいて。私のときはもう学生運動が収まって、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のあたりでした。ですから少し平和になってきて、学校でも地方から出てきている人なんかは男女2人で、下宿にお金を払うよりはということで同棲している人がずいぶんいました。
【根岸さん】どこの大学ですか?
【山本さん】二松学舎大学。
【根岸さん】神田が近いや。
【山本さん】そう、千代田区です。いまは高校野球が有名でね。とにかく学校の先生になる人が多いんです。それで地方から出てくる人がいて。華やかではないんですけども、ユニバーシティーではなく単科大学なのでカレッジです。
【根岸さん】漢文とかすごかったですよね。
【山本さん】そうなんです。私も漢文が好きだったし、国文学も好きだった。
【吉田さん】19歳で同棲されたんですか?
【山本さん】19歳の6月に家を出て同棲して、お金がないから親戚の人に5万円――その当時で5万円って大変なんです。「なにも言わないで5万円貸してください」って言って借りちゃった。それでアパート借りちゃったの(笑)。
【根岸さん】すごいや(笑)。
【植野さん】たった3年(生まれが違うだけ)で、私なんか思いもよらない。私のまわりでも思いもよらない。
【山本さん】私は全然、積極的じゃなかったの。だけどうちの夫は北海道から出てきて1人で下宿しているのが寂しかったんじゃない? それでとにかく家を出ろ、家を出ろって、もう毎日うるさく手紙は来るわで。本当に毎日来ましたよ。
【植野さん】いままではご挨拶だけだったけど、今度ご主人のお顔をよく拝見しよう(笑)。
【吉田さん】当時は携帯とかないから。
【根岸さん】そうですよね、電話かけるにも大変でね。
【山本さん】うちの夫、じつは詩人なんです。山本博道といって、ネットで見ると多分わーっと出てくると思うんですけど、丸山薫賞をもらっているんです。詩人だから手紙なんかもうまくて。8月の夏休みに北海道へ行って、ご両親に説明して(結婚を)許してもらうのにお父さまからもはんこをもらわなくちゃだめなんです。未成年をもらうから。私の両親のはんこも入れるんです。
【吉田さん】厳格なお父さまで大変でしたね。
【植野さん】それで婚姻届けを出すわけ?
【山本さん】出しました。それで言われたのが、「よく学生結婚すると男の人は大学を続けるけど、女の人は辞めるケースが多いがそれは絶対だめだ、それだけは約束しなさい」と。大学は絶対に卒業させて、私が取ってた教職もやめちゃだめだということで。だから結構大変でした。家庭と勉強と家庭教師をやりながら、とにかく人が経験しないような――3回ぐらい、(テレビ番組の)人妻コンテストに出たりとか(笑)。
【植野さん】出たわけ(笑)? すごいわね。
【山本さん】4チャンネルだったのかな? 『夫の言い分 妻の言い分』という番組に出たんです。当時は若い夫婦がおもしろかったんじゃない? テレビ局から出てくださいって頼みに来て、今度はそれを見た8チャンネルだったかが「主婦モデルやりませんか?」って来て、そこにも出て。今度は『23時ショー』で、学生妻というテーマだったんです。やはりテレビってひとつに出るとすごいんです。だから3回立て続けに出たりして、そうすると私の高校時代の先生がたが見ていて、教育実習に行ったとき大変でした。見た、見た、って言われて(笑)。
【植野さん】そういうのって食事も作るわけ?
【山本さん】そう。だけど、おままごとみたいなもんよね。2人だから。
【植野さん】思いもつかない、私。
【山本さん】私、子どもがいないんです。仕事のほうを取りたいと思って。その代わり本当にずいぶん教えました。家庭教師もやったし塾もやったし、よそのお子さんをずいぶん教えてきました。2006年に父、2007年に母が亡くなって、さあ、これからどうしようかなと思ったときに、学校のほうは10年もブランクがあったらとても取り戻せない。
せっかく親の介護をしたので、高齢者のほうを勉強しようかなと思って、まず研修を受けてヘルパーの資格を取ってNPOに10年間いたんです。介護者のサポートをする介護者の会っていう、結構大きい「NPO法人介護者サポートネットワークセンター・アラジン」っていうのがあるんです。新宿のほうにあります。そちらで10年間、サロンだとか高齢者に寄り添う仕事をいろいろやってて、さあ、これから何をやろうかなと思ってたら、半年後に北海道で1人暮らしをしていた主人の母の体調がおかしくなった。そのとき私、膝のお皿を割っていて長いギプスをしていたので、夫に北海道へ行ってもらったら、母がもうだめだと泣きながら電話がかかってきたんです。もう息も絶え絶えになって、倒れる寸前だったんですね。じつはもう認知症になっていて、家の中も片付けられなくて、冷蔵庫にはバナナと食パンがぎっしり。部屋にはティッシュペーパーの空き箱が20個くらいあったり、山ほど値札のついたお洋服が――買いあさっていたんでしょうね。私が自分の親を10年間面倒見てて、お母さんを放っておいてごめんねということで、すぐ夫に連れてきてもらったんです。着の身着のまま、下着だけ持ってとにかく連れてきて、って言って。それからまた10年間の介護が始まった。
当時、私がNPOの関係で麻布のほうでサロンをやっていましたので、民生委員のかたから「そんなよそで活躍するんだったら地元で活躍してよ」って言われて、民生委員を仰せつかったんです。それが10年前。そのときに植野さんとは、はらっぱ公園で一緒に。
【吉田さん】戻ってきて。
【山本さん】そうです。もちろん植野さんは知っていました。自由が丘のお嬢さまが長崎のこういう庶民的なところに、本当によく合わせてくれるんです。一緒にあそこのかまどベンチでご飯炊いたり、豚汁作ったり。「いいわよ、山本さん、おいでおいで。うちで洗う? 研いでおくからいいわよ」って。
【植野さん】育ったところの隣に三島由紀夫が住んでいたんです。うちの裏方には伊馬春部といって、もうご存じない? (NHKラジオドラマ)『向う三軒両隣』を書いた劇作家です。その人が住んでいて、こっち方の家は井伊大老のひ孫さんなの。いまでもそう。そういう家だったんです。三島由紀夫もその後越されましたけども、見かけると、青い顔のひょろひょろのお兄さんだった記憶しかない。ですから、隣近所もなくて、お祭りなんかも行ったことないし、本当に何にもない。自由が丘のお祭りの音が聞こえるけど、寄付を出していたくらいで。そういう地域だから、こっちに来てみたら、あれは本当につまらなかったなと。私、20年おもしろくないところで過ごしてきたんだなと。
【山本さん】でも、それはそれで、ねえ。
【植野さん】あのまま住んでいたなら住んでいたなりで、どうでしょうか。
【山本さん】両方知っているっていいんじゃないですか?
【根岸さん】おふたりのいろんな経験があるから、いまの動きができているかもしれないです。支える人たちも「親分」じゃだめみたいだから。
【山本さん】植野さんも英語を教えていらして、私も国語を教えていて。
【吉田さん】やはり塾をやっていらした?
【山本さん】そうそう、塾をやったりしていたんです。人に対して何かを与えるというか、何かをやるというのはきっと当たり前のようにできるんです。
【植野さん】教えることは割と好きだったわね。
【吉田さん】山本さんはこちらでお生まれになったんですよね。
【山本さん】はい、1950年に豊島区南長崎6丁目で生まれました。
【吉田さん】昔から(地名は)南長崎?
【山本さん】ううん、椎名町8丁目です。もとの住所は椎名町。
【根岸さん】地名だけ残ったんですね。
【山本さん】そうなんです。だからいま、椎名町というところは駅しかないです。いまのはらっぱ公園は、前は「8丁目グラウンド」と言っていたんです。砂利があるだけの場所で、野球をやったり。いまだったらとんでもないんでしょうけど、砂利の山がそのままになっていて、そこで私たちが上ったり下りたりして遊んでました。
【吉田さん】この地域って割とみんなの結束力がありますね。
【植野さん】あると思う。
【山本さん】下町の山の手、山の手の下町っていうぐらいで。とくに南長崎5丁目は商店街なので。私と植野さんがいる5丁目、商店街がね。
【植野さん】商店街といっても、いまはもう抜けたみたいな感じですけど、昔は(店が)びっちりあった。
【山本さん】5の日には手前に縁日が出て。
【根岸さん】5の日があったんですか。西友ができて変わっちゃったんですかね。
【山本さん】そうですね、やはりそれは大きいです。
【植野さん】それかもしれないわね。
【山本さん】東長崎の駅も3回、移動しているんです。だんだんあちらの江古田寄りになって。一番古いときは十字街に向かう辺りにあるんです。北口はずっと後から出来たんです。
【吉田さん】いまの場所じゃないんですか?
【山本さん】いまの場所はもうかなり移動しています。その前に真ん中があったんです。ちょうど西友があるところに。すぐに(駅の中に)入れるような場所でしたよね。
【根岸さん】直通でしたよね。
【山本さん】そうでしたよね。いまはもう、通路がないまま入るでしょ。だから3回移動してる。北口はなかった。南口だけだった。
【根岸さん】西野さんもそういうふうに言っています。
【山本さん】北口ができたのはかなりあとで、こっちの南口がメインなんです。
【植野さん】もっと栄えていたからね。
【山本さん】本当にすごい商店街でしたよね。
【植野さん】そこで育った子どもたちがいま40~50代だから、結束があって、五若という5丁目のお祭りもすごいの。
【根岸さん】長崎神社の祭りだ。
【植野さん】そのときの結束はすごいわよね。みんな総出で手伝うという感じ。
【スタッフ】西椎名町公園だった頃と、はらっぱ公園になってからと、何が違いますか? たとえば、人との交流や行事とか――。
【山本さん】いやいや、昔のほうがずっとありました。ラジオ体操をやったり、幻灯なんてご存じかしら。大きい幕を張って映像を写すやつで、夏休みには必ずこの映画会をやっていて。『安寿と厨子王』とか。私の場合は兄にくっついてよく遊びに行ったり。
【根岸さん】16ミリでやったんですよね。
【山本さん】やりました。ござを敷いて、みんなそこに座って。そのときはもうすごかったわけです。家にテレビがない人だっていましたから。
【スタッフ】いまよりもずいぶん小さいスペースのところに、すごくにぎやかに。
【植野さん】そうよ。プールがあったのに、右側でやっていた。
【山本さん】私が来た頃は(プールは)ないから。
【植野さん】私が来たときはあったけど。幻灯はあった。
【山本さん】小学校のときにラジオ体操も広いところを全部使ってやってました。
【根岸さん】子どもが多かったんですよね。
【植野さん】多かったです。
【山本さん】クラスも多かったです。
【スタッフ】8丁目グラウンドだった時代の話ですか?
【山本さん】そうです。椎名町から南長崎に住所が変わったのはいつだったんだろう……。
【根岸さん】(昭和)40年ぐらいじゃないかな(※正しくは昭和39年11月1日以降)。
【山本さん】豊島プールができたのが昭和39(1964)年でしょ。オリンピックのときだから。だから少なくとも38年ぐらいまでは椎名町だったような。だけど、住所はその都度変わっているからわかんない。
【根岸さん】町名変更は順番にやっていましたからね。西池袋、目白っていう地名があったんです。西池袋は目白の一角だったんですけど、目白から外れちゃうんで嫌だって反対運動があった。豊島区目白。
【山本さん】文京区は目白台です。目白は豊島区です。
【吉田さん】目白っていう地名だった。
【根岸さん】今でもあるじゃないですか。今、西池になっているところの一部は目白だったんです。
【植野さん】自由学園とかも……。
【根岸さん】目白だったんです。
【植野さん】あの建物ね。
【山本さん】私たちの年代は、椎名町公園というよりも8丁目グラウンドというほうが馴染みはある。
【スタッフ】8丁目グラウンドがあったときには、いまのはらっぱ公園と近いようなにぎやかさで?
【山本さん】そうですね。やはり子どもたちが多かったので、遊び場でした。
【スタッフ】いまのはらっぱ公園と比べてどうですか?
【山本さん】いまの公園も多いときはすごくにぎわっています。お母さまがたも来ていて。新宿区と隣接しているので、新宿区からもお母さまたちが自転車で来るんです。だから豊島区の人たちだけ、5丁目、6丁目というんじゃなく、いろんなところから人が来ています。
【根岸さん】(当時は)児童生徒数が圧倒的に多かったから。そこが全然違うんです。
【植野さん】5クラスだったんです。
【山本さん】子どもの遊び場って本当にいろんなところにありましたね。
【植野さん】幻灯会もやっていましたしね。うちの子どもたち見ていたんです。不思議なもので、あの時代でも見ていたんですかね。
【スタッフ】はらっぱ公園になる前の公園で幻灯会を開いていたのですか?
【植野さん】ええ。ただ、木はあんなにいっぱい生えてなかったかもしれない。
【山本さん】そうね、だってあそこで体操ができたんだから。
【植野さん】いまでも体操はやっていますけど、木はいまほど多くなかったのかもしれない。
【スタッフ】遊具はなかったですか?
【山本さん】私の子どもの頃はなかったです。
【植野さん】うちの子どもが遊んだ頃はありました。
【根岸さん】(昭和)50年ぐらいですね。
【植野さん】そうそう。ただ、いまみたいな遊具は何台も変わっていますから。あれ、10年に1回ぐらい替えるんですかね。
【山本さん】耐用年数があるでしょう。
【根岸さん】事故が起こったら大変ですから。
【植野さん】そうそう、(8丁目グラウンドの頃の)公園のところで大野さんというかたが……。
【山本さん】お米屋さんじゃないですか?
【植野さん】お米屋さんじゃない。私が知ったときにはもう退職はなさっていたと思う。いつも公園にいて、あれはいけない、これはいけないっていうのを言ってくれていた、いいかたなんです。私が嫁に来たときにはこの公園には管理人のかたがいたんですけど、それを大野さんだと思っていたぐらい。
当時はいまの公園のトイレのところに建物があって、町内をお掃除するおじさんやおばさんがリヤカーを引いて回って町内の掃除してくれてたの。助かるんです。そのおじいさんやおばあさんたちがリヤカーを降ろしたり休憩する場所が……そうねえ、8畳間ふたつ足したぐらいの長いところがあって。そのかたたちが街を歩いてリヤカーにごみを拾ってくれていたので、私、これは便利な街だなと思ったの。街はきれいだし。それがなくなったのは、私が嫁に来て5年目ぐらいだったと思う。でもうちの子どもが小さい頃はあったかな。
【吉田さん】お子さんは何年生まれですか?
【植野さん】うちの娘は昭和47(1972)年と48(1973)年です。その頃には大野さんも健在だし、町内清掃もあったし、公園に屋台が来てたの。プールがあるから。たったひとつの屋台で、おでんを売るの。
【吉田さん】8丁目グラウンドというのがプールになるんですか?
【山本さん】そうです。8丁目グラウンドからプールになって、それからはらっぱ公園。
【植野さん】私が嫁に来たときにはもうプールがあったし、小さい子ども用もあったから、だいぶ前よね。
【山本さん】オリンピックのとき。1964年です。
【植野さん】64年。そんななんだ。私が高校のときだ。
【山本さん】私も散々あそこで泳いで。
【植野さん】そのプールに来た人目当てに、夏になるとおでんの屋台が出てた。
【根岸さん】はらっぱ公園の原型がそこにあると。
【植野さん】自分の家のことなんですけど、うちの下の娘がおでん屋さんと仲良くなって、どうもおでんが欲しかったらしいです。(おでん屋から)公園の水をくんできてくれとか言われて、娘がくんだりするわけ。それからビールを買ってきてくれって(おでん屋さんが)言うんで、西落合のほうへまっすぐいった向こう側の酒屋さんまで、小学生の娘が買いに行ったらしいの。(おでん屋さんに)「必ず歩道橋を渡らなきゃいけないよ」とか言われて、娘はそれを買ってきて渡すと。そのお店ももうないんだけど。
【根岸さん】お駄賃くれたんだ(笑)。
【植野さん】そうそう。ちくわぶをくれたりするの。娘を見るとよくおでん食べていたの。あの子、なんでおでん食べているのかなと思って聞いたら「もらった」って言うわけ(笑)。「お駄賃でもらったおでんだ」とか言っていたのが、もう48歳になっちゃった。
【吉田さん】結構、広い大きいプールですよね。競泳用ですね。
【山本さん】そう、競泳用です。ちょうど向こうの鹿島に面したような形の、50メートルの。
【根岸さん】公式プールだった。
【山本さん】そうです。公式です。
【根岸さん】体育課が所管していたから。
【山本さん】よく大会みたいなのが行われていました。私が行くと「今日は大会だからだめだ」とか言われたり。
【根岸さん】豊島区で唯一のプールでしたからね。
【山本さん】そうです。ちゃんと飛び込み台もありましたし。
【植野さん】その後で子どもプールができたでしょ。
【山本さん】最初はなかったんです。いつぐらいにできたんでしょう。
【植野さん】私が嫁に来たときにはギリギリできてた。
【山本さん】私が行っているころは全然なくて。
【植野さん】そんなに経たずにつくったんでしょうかね。
【吉田さん】もう目の前が豊島プールだったんですよね。
【植野さん】豊島プールがあった。(子ども用は深さ)30センチくらいのちっちゃいの、こちらは無料で。
【根岸さん】子ども用だから。
【植野さん】それでも十分に遊べるほど大きかったわね。
【吉田さん】泳ぎ放題ですね。
【山本さん】そう。だから私も小さいときは年中泳いでいて、水泳の選手になろうかなって思ったぐらいで。
【スタッフ】休止となった豊島プールの壁の落書きがひどくて、それを消す活動をされたというお話を聞かせていただけますか?
【山本さん】落書き消しから始まったわよね。まちづくり(防災まちづくりの会)の中でプールの落書きを消して。(プールの)外壁が残っているんですけど、おうちとの間仕切りみたいな形になってて壊せないという話があった。
【植野さん】だいぶ前の話ね。
【根岸さん】平成12年あたり。
【山本さん】まちづくりの会の人たちが、落書きとか危なそうな看板とか、道路にはみ出している物とかを片づける作業をしたんです。みんなで街歩きをしながら写真を撮って、マップに落としてやりました。
【根岸さん】そのまちづくりっていうのはどういうグループですか?
【山本さん】「はらっぱ公園を育てる会」とほぼ同じです。(南長崎)4丁目、5丁目、6丁目の有志です。
【根岸さん】別のグループをつくっているんですか。
【山本さん】まちづくりの会でひとつのグループです。普通は、4丁目は4丁目、5丁目は5丁目、6丁目は6丁目っていうふうに縦で分けるけれども、4・5・6丁目が一緒になって街全体を考えていきましょうという組織を、6丁目の簗瀬さんが音頭を取って始めたんです。各町会の主だった人に声をかけてね。
【根岸さん】それはいまでも定例的に?
【山本さん】いえ、簗瀬さんが亡くなって途絶えてしまったので、残すかどうかを私たちで議論したんです。それで、簗瀬さんが始めたことで、私たちには簗瀬さんのような力がないから、はらっぱ公園を育てる会の一本に絞っていこうということで、まちづくりの会のほうはやめたんです。
【根岸さん】上にかぶさるものがなくなって下だけになっちゃった――そういう言いかたで合ってる?
【山本さん】「かぶさる」じゃなくて並行でした。まちづくりはまちづくりの会、はらっぱ公園を育てる会があって。その中から生まれたと言ったらいいかもしれない。
【根岸さん】まちづくりは1人のかたがやったのか、役所との関係はどうだったかということは――?
【山本さん】もちろん簗瀬さんも年中、役所とコンタクトを取ってやっていました。
【根岸さん】どこに? 都市計画課かな。
【山本さん】多分そうですよね。
【植野さん】最初の2年ぐらいよね。
【山本さん】私なんかが関わって、簗瀬さんが間もなく病気になられて。
【根岸さん】簗瀬さんは町会長さんだったんですか?
【山本さん】いえ、6丁目の町会長さんを巻き込んでやりたかったんだけど、町会長さんはそういうのは一切やりたくないと。老人会が町会とリンクしてないから、老人会の人が町会の役員にはなってないんです。すごくややこしくて不思議なんです。
盆踊りの話も何回か持ち上がったんです。神輿は6丁目からうちのほうに流れてきます。5丁目が駅前で、うちは東京信用金庫の前に神酒所をつくってますので、そこ(駅前)で6丁目のお神輿が休む。
【植野さん】5丁目のお神輿?
【山本さん】違う、6丁目。
【植野さん】6丁目ってそこまでしか来ないんじゃないの? こっちへ来るの?
【山本さん】だから(6丁目が)「来させてください」って。(5丁目は)「うちの道路じゃないから、どうぞ」って言うわけです。それでずっと(6丁目の神輿が)駅前を通って銀座通りの商店街を通って、東京信用金庫の前の神酒所で休んで、私たちがお酒をあげて、それで帰っていくっていうのをここ何年かやっています。だからそういう形でうまくコラボしていけばいいのになと私は思うんですけど。さっき言ったように、盆踊りも6丁目と、それから4丁目だって一緒にやればいいのにと思うの。
【根岸さん】そのまちづくりを始めた人は人望があったんですね。
【山本さん】はい、本当に。
【植野さん】もう亡くなりましたよね。
【スタッフ】南長崎4・5・6丁目防災まちづくりの会の活動としてプールの壁の落書き消しも?
【山本さん】(休止となった)プールがそのままになっていて、防犯的にも非常によくないということで。あれは水を抜いてあったの?
【植野さん】でしょうね。
【山本さん】雨水も溜まるじゃないですか。そうするとボウフラが湧いたりだとか、防犯上もよくないし。
【根岸さん】不良のたまり場になっちゃう。
【山本さん】そうそう。見た目もよくないし。
【植野さん】プールを運営しているときには、一番奥のほうに住んでいるご家族が管理人だったの。うちの子どもと同じぐらいの子が1人いて、ご夫婦で住んでいらした。プールの端に建物があってその家のほうとつながってて。プールがなくなったら、(その家も)なくなっちゃった。
【山本さん】多分、ずうっと放りっぱなしだと危ないということで簗瀬さんが立ち上がったんだと思います。簗瀬さん、6丁目だから。
【スタッフ】ワークショップにもずっと?
【山本さん】多分やっていたんだと思います。私なんかは後のほうで誘われましたので。落書き消しのワークショップは何回か出たことがあります。防災まちづくりの活動のほうが先で、それからはらっぱ公園のほうに誘われたという形になります。彼はまちづくりのほうが本筋だったのかもしれない。そこで問題が起こってきたのがはらっぱ公園のプールの壁の落書きのことで。
【根岸さん】まちづくりの拠点になりますものね。
【山本さん】そうですね。
【スタッフ】防災まちづくりの会での公園の検討会がそのまま、育てる会になったわけではなかったんですね。
【山本さん】でもメンバーはほとんど同じです。
【スタッフ】育てる会になる前後に植野さんが?
【植野さん】私は防災のほうは入ってないので、その頃に。
【スタッフ】公園の名前を決めたり、公園をどうしていくかという話し合いのときから参加されたのですか?
【植野さん】そのときはこんなふうに関わりを持つと思わなかったんですけども、自分のうちの前に変なものができたら嫌だと思ったわけ。それで話し合いぐらいには出ておかないといかんのではないかと思って、そんな考えで出たのが最初です。
【根岸さん】わかります。結構そういうこと多いですよね。
【山本さん】はらっぱ公園の何かのイベントがあったんです。そのときに私が民生委員になりまして、地域のいろんなことを知らないといけなかった。私の動きを見ていたのか何か知らないけど、ある方が「あなた、ここに入りなさい」って言ってくれて仲間に入れていただいたんです。当時は植野さんと同じように関わっていました。10年間、植野さんがこういう性格のね(笑)、――本当に感じがいいかたですから、「山本さん、こうする?」「うん」っていう感じで、(一緒に)ライフに買い物に行ったり、西友に買い物に行ったり、豚汁の材料を買いに行ったり。お米の準備なんかも一緒に。
【植野さん】300人分作るんです。
【山本さん】お米はいっぱいボールに研いでおくんです。
【根岸さん】来る子は楽しみだな。
【山本さん】今度ぜひいらしてください。
【植野さん】おいしいですよ。うちの孫も「うちで作るよりおいしい」って(笑)。
【山本さん】お米なんか本当においしいです。お鍋で炊くんですけど。
【植野さん】新聞紙1日分で炊けちゃうの。丸めてぼうっとつけると。
【山本さん】こうやってねじってね。
【根岸さん】ボーイスカウトみたいですね。
【山本さん】そう。だから「子どもたちもやらせて」って来るの。危なくない限りは何でも体験。
【植野さん】とってもいいお釜で、とっても高いんだそうです。
【吉田さん】食育にもなりますよね。
【山本さん】そうなんです。
【スタッフ】イベントをするときは、防災に関心のあるかたもいらっしゃるのですか?
【山本さん】いえ、うちの町会から応援が来ます。町会長も出てくださるし。
【スタッフ】防災まちづくりの会がなくなったので、いまは町会のかたがいらっしゃるということですか?
【山本さん】そうです。町会も公園で年に1回、防災のイベントをやるんです。民生委員だったら民生委員の動きをする、女子だったら女子消火隊の人がミニポンプを使って(訓練を)やったりとか、本当に災害が起きたときのようにやるんです。そのときにカレーを作るグループがカレーを作るんです。
【吉田さん】明日9月1日が防災の日。
【山本さん】本当だったらやったかもね。いまはもう全然……お祭りもお神輿だけ出すって言っていました。神様だから入れっぱなしってよくないんです。だから去年も本当は出さなきゃいけなかったんですけど。
【根岸さん】この「はらっぱ公園を育てる会」には区からの補助金は出ているんですか?
【植野さん】月に1万円です。今日、持ってくればよかったかしら。私が1万円を預かって会計しているんです。年に1回、領収書を全部まとめて会計報告します。いままでは、例えば行事があると当然持ち出しです。区から出るわけじゃないので、いつもお掃除をしてくださるかたに飲み物を出したり、ごみ袋を買ったりします。
【根岸さん】掃除する人はボランティアで一緒にやってくれるっていう意味? そういうことですね。
【植野さん】ええ。はらっぱ公園の行事や掃除で使う物を買うのが(月に)1万円、(年間)12万円出る。でも、公園に来るポニーの保険も3万円ぐらい払っているの。ですから12万円いただいても残るのは1万円ぐらい。
【山本さん】そうね。「わくわく」さん(NPO法人豊島子どもWAKUWAKUネットワーク)なんかと周年行事をやったりするから。
【根岸さん】結構、経費かかりますね。
【植野さん】かかります。
【山本さん】そうそう。かき氷とか出しても(1つ)50円なので。
【根岸さん】補助金が出てるほかの公園はあるのかな? ここだけかな。
【山本さん】どうでしょうか。なかなか公園で行事とかやらない。清掃は区で頼んでいるかもしれないです。
【植野さん】清掃は来てくれる。20分ぐらいかな? 年中来てくれています。トイレを掃除していってくれるので助かります。
【根岸さん】区で委託しているんですね。
【植野さん】そうそう。ですから、1万円あれば、芝刈り機の歯を中古で買ったりとかするの。
【吉田さん】(芝刈りは)すごい重労働ですよね。
【植野さん】それを廣田さんがやってくださっていたんだけど、できなくなってきたから区のほうに言ってあるとおっしゃっていた。でもね、ちょっと元気になるとすぐガチャガチャやっていらっしゃる。
【根岸さん】それこそいまボランティアを募集したらどうですか?
【山本さん】しているのよね……。
【植野さん】廣田さんと私はたしか同い年のはずなんです。2人とももうしんどいし、私も会計を十何年も1人でやっているのもよくないから、代わりたいと思って、廣田さんもこの間はらっぱ公園の会合でおっしゃったのね。あと1年間、私と廣田さんでやらせていただくけど、徐々に代わってほしいということを。
【吉田さん】廣田さんのほかに役員さんは何人ぐらい?
【植野さん】本当は十何人なんですけど……。
【山本さん】会議なんかやっても多くて7~8人です。
【植野さん】こういうところを借りたりして2か月に1回。
【山本さん】偶数月の第1木曜日。
【植野さん】コロナじゃなければね。でもコロナのおかげで行事がみんななくなったので、お金はいくらか余裕できたけどね。
【吉田さん】「はらっぱ公園」というのはどういう感じでできたんですか?
【植野さん】名称が決まる前は、「7丁目公園」にしようとかいろんな案が出たの。「花壇のある桜公園」にして何か木を植えようとか言っていたんですけども、どなたかが「きれいな公園はあちこちでつくってるけど、何もない原っぱっていまの子どもには必要なんじゃないか」っていうことで、はらっぱ公園になったんです。だから初めから、何かを建てようとか、真ん中にいろんなものをつくろうとか、しゃれた花壇をつくろうなんていうのはなかったんです。
【吉田さん】「育てる会」っていう名前がいいですよね。普通だったら「守る会」とか、そういう感じになっちゃうんだけど。
【山本さん】私たちも公園と一緒に育ってきたんです。植野さんも会計をがっちり支えてくれているし、私もアナウンサーになりたいと思っていたのをイベントのときにはMCをさせていただいて活かしてみたり。
【吉田さん】やはり能力を発揮されているわけですね。
【植野さん】山本さんはいろいろおできになるけど、私は全然だめなんです。
【山本さん】私は炊き出しなんかも大好きだし、薪じゃなくて新聞紙を丸めてかまどでご飯が炊けますからね。実際、はらっぱ公園は防災公園にもなっていますので、何かあったときには炊き出しをできるように、1年に1度ぐらいはやっていたんです。
【植野さん】コロナで何にもできなくなりましたけど……。
【根岸さん】近所との関係が結構難しいと思うんです。騒音とか。
【植野さん】これからどうなりますかね。うちの娘たちだって仕事していますし、どうでしょうかね。
【吉田さん】南池袋の町会長さんにお話を聞いたときに、マンションがどんどん建ってきて、お祭りだとか何をやるとか区民活動の広報がまったくできないって。どうしたらいいんだろう。
【植野さん】ああいうところ(マンション)って町会費なんかはみんなまとめてでしょ? 1軒ごとに払うんじゃなくて。
【根岸さん】管理組合で払って。
【植野さん】ということになると、どなたが住んでいるかわからない。うちも隣に5軒分ぐらいのちっちゃなアパートがあるんですけど、どなたが住んでいるかということは管理会社からは主人に連絡ぐらいはあると思うんです。収入のことがあるから。だけど、どういうかたが住んでいるか、言っちゃいけないんですって。いまのアパートって窓や雨戸を閉めっぱなしなんです。「桜の時期だから見たらきれいよ」って言いたいのに、窓が開かないの。住んでないのかなと思ったら、5軒全部借り手がいるっていうの。なのに名前も知らない。主人には書類が来てて私には言わないのかもしれないけど、住んでいるかどうかも全然わからない。あれが何百軒になっても私、同じだと思うのね。個人情報とやらで絶対わからないから。
【山本さん】いまはセキュリティが厳しいので、私も民生委員で実態調査に行かなきゃならないとき、部屋番号を押してもウンともスンともでしょ。結局、開けてくれないことには会うことができないんだけど、そういうところが結構多くなっちゃって。
【植野さん】国勢調査は私、去年したんですけど、どなたも顔なんか出さない。
【山本さん】コロナっていうのもあるから。
【植野さん】だから無理に訪ねては行くんですけども、何度も行かなくていいですとは言われた。一度行って留守だったらポストに入れて、ポストで見て返事をするというだけ。住んでいるだろうという感じで、絶対に住んでいるかどうかっていうことはわからなかった。
【山本さん】マンションが多くなると地域の行事ができないでしょう。
【根岸さん】山本さんはこのグループに何年ぐらい関与してますか?
【山本さん】十何年です。今年か去年が10周年。
【根岸さん】植野さんもほぼ同じぐらいですか?
【植野さん】12年ぐらいです。はらっぱ公園の名前を決めるときぐらいから。
【山本さん】並行して、さっき言った防災まちづくりがあって、私はまずそちらに誘われて。簗瀬さんに。
【根岸さん】民生委員やってて?
【山本さん】そのときはまだ民生委員になってなかったんです。簗瀬さんにやらないかって言われて防災まちづくりのほうに入ったら、あれは何かリンクしていたのかな。同じメンバーがいて。
【植野さん】5丁目町会の中に「はらっぱ公園部」をつくってくださったの。でも、それが2年ぐらいでなくなっちゃったの。公園の行事があると手伝いに来てくれる5丁目町会っていうのはものすごく大きいですから、その中から手伝いに来てくれるかたを出してくださったの。
【山本さん】各部が大体7~8名なんです。
【植野さん】はらっぱ公園をつくるときに何が大変って、芝生が根づかなくて大変だった。雑草もない、土だけ。砂ぼこりもすごかった。だから早く植えようということになったんですけど、大変でねぇ。もう本当に「原っぱ」じゃないの、がれき。コンクリを壊していますから、土がものすごく悪いんです。ですからみんなで一生懸命、取れるものは取って。当然、業者が取ってくれたあとで芝生を一生懸命植えたんですが、土が悪いから育たない。
【山本さん】あんなに生えないっていうことは、プールの塩素も関係あるんじゃないかって聞きました。
【植野さん】本当に何度も何度も。何十回もですよ。場所を決めて、ここだけやり直そうとかやって。「ここだけやり直す」っていうのは今年もまだやっているわよね。ありがたいことに、いまは子どもさんがたくさん来てくれるので、それでまた根づかなくなっちゃうの(笑)。ありがたいんですけども、子どもが来てわーって遊んじゃったりすると、ちょっと根づいた芝がまただめになっちゃう。で、またその場所だけロープを張って、っていうのをいまでもやっています。芝生は廣田さんが区と交渉して何千枚とか取ってくる。それはあちら(区)がやってくれるんですけども、廣田さんが年中水をまいて定着するようにしていますが、本当にイタチの何とかごっこで大変。
【山本さん】あと、ビオトープがあるんですけど、そこにアメリカザリガニを捨てられてヤゴが食べられちゃうから、ザリガニを捕るんです。最初は何百匹もいて……。
【根岸さん】ビオトープって?
【植野さん】公園の中に池があるんです。
【山本さん】アメリカザリガニは外来種なのでだめなんです。
【植野さん】池のザリガニをスルメで釣るんです。捕れるときは何十匹と捕れましたけど、最近は7匹ぐらいしか捕れない。
【根岸さん】少なくなってきたんだ。
【山本さん】入れる人もいなくなって絶えてきた。
【植野さん】だからヤゴとかが育って、あんなにぼうぼうとしているのにボウフラも蚊もいないんですよ。
【山本さん】トンボがすっごく飛んでいたわよ。
【植野さん】そういうのが育つわけ。
【山本さん】すごいです、本当に。つくだ煮になるぐらい飛んでいます。
【植野さん】だからきっと、ザリガニ釣りはあんなとろとろやっているだけでも効果がある。去年は何百匹って捕れたんです。
【吉田さん】それはすごい。
【山本さん】南長崎4丁目に住んでいる「はらっぱ公園を育てる会」のメンバーの方が朝晩、花壇を手入れして水をやってくれるんです。花壇、きれいでしたでしょ。
【植野さん】時々来て手伝ってくださる女性もいるの。お花が好きらしくて。
【根岸さん】イベントのとき、そういう人に表彰状をやるとか。そうすると、そういう人たちが続けてやってくれるんです。
【山本さん】ああ、やはり感謝の意を表さないと。
【植野さん】そうね、そういうことをイベントのときにやらないといけないですね。きっと。
【山本さん】はらっぱ公園では、廣田さんという素晴らしい長の方がいて、もちろん植野さんもいい人で。はらっぱ公園のメンバーは本当いい人ばかりですよね。
とにかく2年近くいろいろなことがやれてないので、はらっぱ公園の活動もこういう時期に取材というのも申し訳ないなと思うんですけど。
【吉田さん】こういう時期だからこその、今後の展望とか夢とか、ありますか?
【山本さん】「わくわく」さんには、はらっぱ公園を貸しているんですが、貸しっぱなしじゃなくて……廣田会長は「一緒にコラボしてやりましょう」という考えなので、そのときに私たちもね。
【植野さん】だからそういう行事が来年できるようになればね。はらっぱ公園の10周年は終わっちゃったんですけども、十何周年とかでご飯炊いたり、おにぎり作ったり、カレー作ったり。いろいろやらないと意味がないわね。
【根岸さん】「わくわく」と(NPO)「ゆきわりそう」が一緒にやるとか。大変でしょうけど。
【植野さん】「ゆきわりそう」はよくやってくれます。
【山本さん】あの子たちもノーマライゼーションで地域の活動を同じようにしていきたいということでね。うまくいっていますよね。
【植野さん】そうそう、「ゆきわりそう」も30年ぐらい前にできたときとは全然違います。
【根岸さん】組織も大きくなりましたね。
【植野さん】大きくなりましたし、よくなってる。
【根岸さん】やはり若い人が育っているのかな。
【植野さん】溶け込まなきゃいけない、っていう意識をとっても持っていたでしょうね。そうするとこちらも当然開くわけじゃないですか。
【根岸さん】向こうが開いてくれると、こっちも開きますよね。
【山本さん】30年前って、そういう人たちに対する私たちの意識も理解力も、いまほどなかったです。だから彼女たちも大変だったと思いますけれども、はらっぱ公園というあの場所があったからこそ、彼らたちの清掃の場所であったり、ポニーを連れてきてみんなで関わることができたり。やはり、素晴らしい場所になっているんじゃないかな。
【根岸さん】ポニーはおもに「ゆきわりそう」ですか?
【山本さん】あとお掃除ね。
【根岸さん】お掃除をやってくれるんだ。
【植野さん】(ザリガニ)釣ったりするのと、お掃除と雑草を抜いたり。
【吉田さん】ポニーはどのくらいの頻度?
【山本さん】ポニーは月に2回。
【植野さん】月に2回なんですけど、もうコロナからは全然だめ。ポニーは午前中来て、午前中は触らせたりする。ホースセラピーってあるじゃない? 「ゆきわりそう」が群馬の方に牧場を持っているらしくて、そういうののためにやっている施設なの。そのために来る馬なので、「ゆきわりそう」の人たちが触ったりする。それに便乗して街の保育園の子どもたちも触ったり、午後は1~2時間乗せてくれるの。乗せて公園をぐるっと1周してくれる。
【山本さん】1日にたくさん(ポニーと触れ合うために)並ぶ。
【植野さん】並ぶわね。なるべく乗せてあげたいけど。
【根岸さん】それ、もっとアピールしたいですね。
【植野さん】そう。でもいまはできないんですよ。
【山本さん】「ポニーのいる公園」っていうふうに結構(メディアなどに)出ています。
【根岸さん】出ています? 僕、知らなかったな。
【植野さん】ただ、もう1年半以上してない。去年の3月からだから。
【山本さん】去年の3月から実施してない。
【植野さん】4月からはしてない。保険払ってない。真夏は暑いからだめなのかな。
【山本さん】夏休みはありましたね。
【植野さん】あった。それと鹿島建設の工事のときに音がすごくて。コロナだったから今年は工事がだめだったんですけども、コロナじゃなくてもできないって言ってた。すごい音だから馬が反応しちゃうんですって。
【根岸さん】隣のマンションの工事?
【植野さん】そう、鹿島建設であれを壊すときね。去年は壊していましたから。ちょうどコロナでできないんですからいいんですけども、(馬が反応するから)できないって言っていました。
【スタッフ】公園は昔に比べていろいろ変わっていますか?
【植野さん】変わったというより、保育園の先生がお子さんをいっぱい連れてくる。5組も6組も。
【根岸さん】園庭のない保育園が増えているからね。
【植野さん】5組も6組も子どもを連れてきて午前中遊ばせているから、やはり原っぱでよかったんではないのかなと思います。
【根岸さん】変なものをつくらないでね。
【植野さん】そう思います。
【山本さん】なかなかフラットな公園ってないですよね。向こう側の長崎公園も築山みたいなのがあったりして。結構あれ、危ないんです。
【植野さん】野球とかキャッチボールをやっちゃいけないらしいんですけど、人がいないとサッカーの簡単なのなんかやっているわね。子どもがただ蹴るみたいな感じのことをやって遊んでます。
【山本さん】監視員も黙認しています。どうかすると植野さんがあそこの監視人で(笑)。
【スタッフ】防災などの観点から検討していることはありますか?
【山本さん】残念ながらいまはそういう行事が……。来年はどうなんでしょう。年度末に「地域の底力」っていうのを利用して防災のことをやったりするんですけど、まだそのへんは詰められていないのでわからないです。
【根岸さん】あそこには備蓄倉庫はないんですか?
【山本さん】わずかですが。
【植野さん】5丁目も6丁目もそれぞれ持っています。
【山本さん】お水を頂いたり、アルファ米なんかも頂いたりして。
【根岸さん】非常用のトイレみたいなものは?
【山本さん】できるの。非常用の簡易トイレがあるんです。
【植野さん】道路寄りの下水から近いところに、2つ3つ掘ってあって、そこにセットすると個人で入れるトイレができる。直接、下水につながってるんです。水はどうするかというと、当座はビオトープの水を持ってくればいいのではないかということです。
【山本さん】もしこれがだめだったら……。
【植野さん】一応、井戸もあります。
【根岸さん】最近はきれいに簡単にできる機械がありますものね。飲み水にもできるんじゃないですか?
【植野さん】防災用トイレも、今おっしゃったみたいな下水に流すものより固まるタイプがたくさんあったほうが、お金はもかかるけどきっといいですよね。
【山本さん】問題が起きたら、2か月に一度の会議で話し合っています。最初のころはワンちゃんのうんちがそのままになっているとか、ボールがあったりとか。
【植野さん】瓶や缶がいっぱい捨ててあってね。1週間に1回のお掃除の日に集めるんですけど、いまはそんなに多くないです。前はテレビが捨ててあったりしました。公園だから捨てられてたんです。
【山本さん】前は十三間道路沿いに喫煙所もあったんです。いまはみんな煙草を吸わなくなったからなくなりました。
【植野さん】たまに吸い殻が落ちているから1週間に1回の掃除のときに拾うんですけど、それでいつでもきれいになっていると思います。1週間に1回でもね。
【植野さん】廣田さんはいつも、「はらっぱ公園」て書いてあるオレンジ色の派手な帽子かぶってるの。そうするとわかるから。私も持ってます。
【吉田さん】こんなにコロナが長引くと思っていなかったので、去年のいまごろだともうちょっと夢があった?
【植野さん】去年も行事はまったくできませんでしたから。お掃除も、コロナが本当にひどいときはやめるんです。やはり何十人も集まってぞろぞろしているとよくないから。最近は始めていますけど、やめていた時期もあります。
ただおもしろいもので、コロナが終わったらこれがしたい、あれがしたいという希望は出てくるわけじゃないんです。本当は出てこなくちゃいけないと思うんですけど……やはり私も年を取ってきていますので、なかなか難しいです。
【根岸さん】でもそうやって会って立ち話をするの、大事です。それすらなくなっちゃうと。
【植野さん】世間との会話がないと人間はだめです。こもっちゃうのは誰でもだめです。
【根岸さん】自殺が増えているっていいますよね。
【植野さん】そういうことですよね。
【根岸さん】最近の公園には監視カメラがあるけど、ここにはないですよね。
【植野さん】ない。前はよく高校生とかが爆竹なんかで騒いでいることがありました。よく私も警察に来てもらったりしたんですけど、そういうのって情報が伝わってるんです。若い人なら若い人の。ここに来てもうるさく言われるからって来なくなったんでしょう。
【根岸さん】監視カメラはないんですね。
【植野さん】監視カメラはないと思う。ないわよね?
【山本さん】つけるほどでもないから。やはり廣田家と植野家の2軒が公園の端から端で埋まっているんだもの。つねに監視の目が見ているわけじゃなくても、ちょこちょこと見に行くとか、それがやはり重要で。
【根岸さん】人の目っていうのはありますね。
【山本さん】あります、あります。抑止力になっていると思います。私は本当にありがたいと思っています。
【植野さん】そう。人の目っていうのは本当、大きいんです。
【根岸さん】昔ニュースで見たんですけど、ニューヨークで高層住宅を建てたら犯罪率がものすごく高くなったので、全部4階、5階ぐらいに建て直したっていう話を聞いたことがあるんです。そのくらいだとコミュニティができるけど、高層になるとコミュニティができないといいます。
【山本さん】高層ビルもマンションも今の人たちの気持ちをそのまま表してて、人とあまり関わりたくないとか、プライバシーとかいろいろあって。高層階に行けば行くほどそうです。でも、そこで育った子どもたちはやはり精神的にも問題が出てくるみたいです。人って、地に足が着かずにつねに高層で高いところの景色を見て育つっていうのは、問題があるみたいです。
【根岸さん】それと、4、5階だと誰かが見ているっていう意識がありますけど、上だとどうせ誰も見てない、みたいなのがあるかもしれないですね。
【植野さん】これも年代によるんでしょうけど、私なんか前の公園が見えたら絶対窓を開けておくと思うんだけど。
【根岸さん】そうか、若い人は開けてないんだ。
【植野さん】雨戸っていうの? シャッターがずっとおりているの。でも住んでいるんです。洗濯物も一度も干さないです。
【根岸さん】コインランドリーか乾燥機でやっているからか。
【植野さん】出てきても、普段見ないから会ってもまったくわからない。私だったらおもてが見たいと思うけど。
【山本さん】いまは表札を出さない人がものすごく多いんです。だから実態調査に行っても、「ここのうちだろうな」っていう形になっちゃうんです。
【根岸さん】民生委員は老人の調査をやるんですね。大変でしょ。
【山本さん】ええ、独居の。大変です。去年、本当は実態調査をやらなきゃいけなかったんですけど、コロナでだめだったので今年になったんです。それが去年よりひどいですもの。デルタ株でかえって怖いです。このまま来年までいっちゃうのかなとも思うんです。
【植野さん】来年までいくでしょうね。
【山本さん】公園の話に戻りますけど、はらっぱ公園を育てる会を導いてくださったコンサルのかたたちがいたことがやはり大きいと思うんです。まちづくりもそうです。はらっぱ公園を育てる会になってからも、コンサルの人たちがこうやったらいいんじゃないか、ああやったらいいんじゃないかっていうことをね。
【植野さん】5年も6年もいてくださった。行事なんかも全部ね。
【山本さん】素人の集団の中にやはりそういう指針を示してくださるかたがいるっていうのは大きいです。
【植野さん】みんなボランティアで集まっているわけだから、嫌な思いしたら行かないですもの。いいかただったからほかのみんなも続けてこられた。
【山本さん】一言で言うと、人に恵まれたんです。はらっぱ公園があって植野さんがいたからこれだけ親しくなれたし。全昌院っていうお寺があるんですけども、植野さんはそこでお茶をたてたりしています。
【植野さん】私はお茶が一番長いんです。それこそ嫁に来てすぐにやらされて50年です。
【根岸さん】やらされたんですか(笑)。
【山本さん】それも地域ボランティアで。
【植野さん】お行儀が悪いから行きなさいって言われて。いまだったらそんな姑、大変ですよね。でも、あのころは私、泣く泣く行ったんです。いい先生だったもので50年続けられたんです。
【山本さん】地域に開放されている全昌院という禅寺があるんです。私もそこで年末と6月にチャリティーバザーをやらせていただいて、売り上げは全部、東日本大震災の被災地に送っているんです。
【植野さん】(全昌院はここから)まっすぐ行ったところです。広いからいくらでも使わせていただけるの。だから、お茶なんかも本当はいろんな形で――若くてもお年を召していても楽しめると思うんですけど、「お茶」と聞くだけで人が集まらないんです。
【山本さん】やはり敷居が高いと。
【植野さん】ただお茶飲みに来てください、って言うのですらねぇ……。いまの時代お茶は魅力がないのね。
【山本さん】いや、そんなことない。
【植野さん】だめなの。
【根岸さん】樹木希林のお茶の映画がありましたね。あれはおもしろかった。
【植野さん】ありましたでしょ。お茶ってやりかた次第で結構、楽しいんですけどね。
【根岸さん】昔、京都のユースホステルでやらされたのを覚えている。安く泊まれるところです。
【山本さん】ユースホステル、知らないでしょ。
【吉田さん】死語です。
【植野さん】知らないでしょ。いまあるの?
【山本さん】ユースホステルって名前が残っているの?
【吉田さん】いろんな地域で――。
【根岸さん】安く泊まれて、泊まるゲストがミーティングをしていろいろ話をする。
【植野さん】昔やりましたよね。
【根岸さん】昔話が多くなっちゃった(笑)。
【植野さん】本当。昔話をし出すと私も止まらない(笑)。
【山本さん】やはりそうなりますよ。なつかしい。昔は良き時代でした。
【スタッフ】公園にあるモニュメントの設置に何か関わられたのでしょうか?
【山本さん】関わっています。
【植野さん】あれは最近です。
【山本さん】椎名町の駅を拠点に、いま全部で11個ぐらい? それこそ「(特別養護老人ホーム)風かおる里」にもあるし、スポーツ公園にもある。落合南長崎、東長崎。マンガの聖地だということでトキワ荘の人たちが復元して。やはり南長崎はちょっと離れていて売りが何もないじゃないですか。それで区長が何か作ろうということで。
【植野さん】大学もないしね。
【山本さん】やはりちょっと作ってやらないとかわいそうだということでね。巣鴨や池袋はいいじゃないですか。目白だって学習院大学もあるし。やはり東長崎と高松のほうは寂しいということかな。
【スタッフ】モニュメントができる内容は特に関わらなかったんですか?
【山本さん】山内ジョージさんのをどういう形で置いてあげたらいいかとか、文字をそこに置いてあげたら子どもたちが喜ぶだろうということを、会議で話し合いました。植野さん、いなかった?
【植野さん】何かちょこっと言われたけど、私たちの意見が通るような感じではなかったのでね(笑)。
【山本さん】でも通りました。結局、子どもたちが踏めるような形にうまく作ってくれたでしょ、対応はね。
【吉田さん】いまはトキワ荘が活気を帯びているから。
【山本さん】(コロナ禍で)オープンはかわいそうでしたよね。オープニングが延びちゃって。でも、もし逆にバーッと進んでいたら、準備が整わなくて大変だっただろうと言う人もいますから、よかったのかな。人数を制限しながら徐々に入れていって。すごい人気らしいです。
【スタッフ】駅を降りるとトキワ荘の(外観を模した)交番があって。
【山本さん】そうそう。町会長のほうから申し入れて作ったんです。本当は「トキワ荘交番」ってしたいんだけど、さすがにそれはね。でも花咲公園はとうとうトキワ荘公園にしちゃったものね(笑)。
【吉田さん】本当にすごいですよね(笑)。トキワ荘公園だもの。
【山本さん】でも、トキワ荘をあそこに建てるの、地元の反対は結構あったんです。だってまず公園がつぶれちゃいますもの。代替をちょっと向こうに作ったんですけど、一か所に広くとるのと、分散されているのとでは違うし、トキワ荘がどれだけの人に受け入れられるかっていうのが未知だということで、その道のりがそれはそれは大変だったみたいです。
【山本さん】公園のところ、バス通りって言うんですけど、あそこは昔、対面だったんだそうです。あの狭いのが。そのときには5丁目から4丁目、3丁目とものすごいにぎわいで、トキワ荘にそのときの写真が全部出ています。5丁目も商店街で、マルヤマガラスだっけ、ガラス屋さんとかいろいろありました。バス通りに商店があったんですね。
【植野さん】バス通りにスナックなんかもあったんです。鹿島建設が最盛期の頃、そのスナックにお客さんがいっぱい入ってたんですって。昼間は公園のプールに来る子どもたちを連れて親たちがスナックで飲んだり食べたり。夜は鹿島建設関係の人が会社の帰りに寄ってくれるので、とっても繁盛した時期があったんですって。
【山本さん】飲み屋さんは結構、多かったです。
【植野さん】繁盛したんですって。
【山本さん】通り沿いじゃなくて、ちょっと裏に入ったところも飲み屋さんがあったものね。
【植野さん】でも、私の記憶ではもう鹿島建設がそんなに隆盛期ではなかったから、たくさんのお客さんがこのへんにいるのは見たことない。
【根岸さん】昔、映画館も近くにあったでしょ。
【山本さん】平和シネマと長崎東映ですね。長崎東映は五郎久保神社の隣で、平和シネマは長崎銀座通りの角のところ。大和田通りの。
【根岸さん】それだけ人がいたんですよね。
【植野さん】子ども連れて行きましたもの。
【根岸さん】後継者の問題はどうですか?
【山本さん】本当は私たちが育てなければいけないんですけど。
【植野さん】たいした金額じゃなくても会計は残りますから、ちゃんと引き継ぎたいと思うんですけど、誰かが立候補するわけがないし、どうしたらいいのかしらって廣田さんと話しています。
【根岸さん】僕なんかの世代って、みんなで決めようっていうスタイルが基本的に身についていますけど、いまの若い人たちは違うかもしれないですね。
【植野さん】ネットみたいなものもあるし。
【根岸さん】前回、親子読書会の取材をさせてもらったときも、やはり後継者がいなくて閉会だそうですから。
【吉田さん】いまは後継者難だね。
【山本さん】ちょうど過渡期なのかもしれません。いまの若い人たちがNPOなんか立ち上げていますので、もう少し経つとね。
【植野さん】定年に近くになると。
【山本さん】それこそ50~60代の人の余裕がないのかもしれないです。
【根岸さん】リタイア前後の人に、入門講座みたいなのに来てもらう機会があると本当はいいんでしょうけど。なかなかそういうの来ないですから。
【山本さん】サロンなんかでもやはり男性が出てこないんです。なぜ出てこないかというと、男性は群れないでしょ。
【根岸さん】それ、あります。人間関係をつくるのが下手なんです。
【山本さん】どういう立場だったら出てくるかというと、やはり講師なんです。講師をやってもらうときは、私がお願いする。
【吉田さん】もうね、男は格好つけて大変(笑)。
【山本さん】そう。「それ、解説してくれませんか」と言うと、「そうですか」と言って出て来る。私が毎月サロンでプログラムを作ってて、今回は渋沢栄一(の講演)を、教育長やっていらしたかたににお願いしたら、喜んで。男性だから喜ぶの(笑)。
そんな感じで、サロンに出てきてもらうにはどうしたらいいかという、民生委員としての課題があるんです。後継者とはまた違う課題なんですけれども、特に男性を引っ張り出すには、何か一役差し上げてということで。だから後継者も、廣田さんみたいな役割をやるような人、「やってあげるよ」っていう人ですね。会計も、事務から上がってきているかたなんかにお願いして、結びつきがうまくいくといいんです。
【吉田さん】マッチングだよね。
【山本さん】そうです。
【吉田さん】男のかたってプライドが高いから。「こうやって生きてきた」とか。
【根岸さん】よく女性が初対面の人とすぐ打ち解けて人間関係つくるのを見ていて、すごいなと思って。
【吉田さん】では、育てる会としてはいま後継者問題が第一ですか。
【植野さん】うちの子どもたちが定年ぐらいの年齢になってみないと……。
【吉田さん】いま40代後半?
【植野さん】48、49歳。同級生がいっぱいいるんですけど。
【山本さん】いま会社でいい位置にいますものね。
【植野さん】やはり60歳近くになると辞めたりする人もいるから。
【山本さん】だけど植野さん、いま国が70歳まで働いてくださいって言うんです。そうすると年金の受け取りも70からってことになって、60歳で辞めてしまったら10年間のブランクを収入なしで過ごさなきゃならない。だから65歳までは会社も企業努力で、残り5年間は自力でとにかく何か働いてくださいと。
【植野さん】どうしたらいいんでしょうか。私、この間、公園清掃の日(毎週木曜日)に行けなかった日がありまして、暑いからお茶は出さなきゃいけないので、娘に頼んだんです。下の娘が家にいたので。みなさんとずっとしゃべってたんですって。障害者のかたも廣田さんとも久しぶりにしゃべって、「ケイコちゃん(植野さんの娘さん)、また出てきてよ」って言われちゃったらしいの。じゃあ、(次にまた)出るかと思ったら、出ないんです。あの日は私がちょうどいなくて頼んだから、お茶やコップを持っていかなきゃいけないということで出て行った。行くと帰らずにずっとしゃべってたんです。だから何かのきっかけさえあれば、若い人もね。
【根岸さん】おもしろいことが主体的にできればいいと思うんです。
【山本さん】長崎の地域性があって、よそから見ると非常に排他的だっていうんです。もう何十年、先祖代々という昔からの家が多いから。そうかと思うと、ポッとできたようなマンションがある。そことそこがうまくコラボしないで、古い人たちは古い人たちで付き合う。町会で五若という神輿の組織があって、青年部に若い子たちもいるんだけど、その人たちがマンションに来た人たちをうまく取り込んでいるかというと、ちょっと謎なんです。そこはこういう地域の一番の課題かもしれません。
【植野さん】手伝いだけじゃなくて、何かひとつ、若い人たちが主体でやってくれるとね。娘も私の代わりでお茶持ってしょうがなく行ったら、楽しくしゃべって帰ってきた。何か役目があったら、楽しいと思って仲間をつくるかしら。
【吉田さん】若い人をどんどん一緒に入れてミーティングとか。
【山本さん】町会はうまく若い人たちとやっているんですけど。
【吉田さん】音楽はだめなんですよね。
【山本さん】いや、そんなことないんです。千早高校のブラスバンドが来てくれて、「わくわく」さんとイベントやったことあります。
【植野さん】ですから、盆踊りとかお祭りをやればいいと思うんです。だけど、盆踊りは5丁目でやるところがある。公園は住所でいうと6丁目なんです。5丁目は、いくら小さくたって毎年盆踊りをやっているから、こっちに来たくないんです。こっちに来るには6丁目の人たちと一緒にやらなきゃいけないわけ。それを結ぶのは思ったより難しいです。5丁目も6丁目もみんな、口では「やりましょう」って言うんです。でも全然進まない。それを私は何年も言ってきているんです。6丁目はやぐらを組めるって言うの。だからやぐらが組めるなら、やはりやりましょうって言うんだけど、あちらに一緒にやろうという音頭取りがいないの。それが難しい。
【山本さん】トップ同士が話したことがあるんですけど、やはりちょっとすれ違う。6丁目と5丁目ってカラーが違うんです。こっちは商店街でしょ。向こう側は商店街にあって商店を営めないサラリーマン家庭なんです。
【根岸さん】若い人の自発性を活かすようなものができるといいですね。先生の経験がおありでしょうから、子どもたちの自主性をどうやって活かすかとか。
【山本さん】千早高校に奉仕学科っていうのがあって、そこの子どもたちがはらっぱ公園に手伝いに来ます。そういうのはすごくうまくいっているんです。千早高校の先生と時々話して、トキワ荘のオープンのときに来てもらう予定でいたんです。ところが、コロナでだめになっちゃったでしょ。
【吉田さん】今朝、千早高校に行っていたんです。ビジネスコミュニケーション科の子が、豊島の記憶も一緒にやってくれたんです。生徒が今日は9人かな。
【山本さん】親泊先生に出てもらってね。そのときもトキワ荘のほうもお願いして『鉄腕アトム』を演奏してもらって。1曲だけだけど、私たち民生委員のコーラス部と一緒にコラボしましょうと言ったら、二つ返事でやってくださることになっていたんだけど、もう寸前で。
【根岸さん】コロナのね。
【山本さん】オープンが3月だったから。本当にぎりぎりでだめだった。
【吉田さん】コロナがこんなになると思わなかった。
【山本さん】しかも長いですよね。
【吉田さん】次世代につなげるための工夫とか。本当、大変だと思うんですけど。
【根岸さん】どこでもそうだね。
【吉田さん】どこでもそう。若者につなげていくのは。
【植野さん】楽しくなくちゃ絶対来ないです。まして無料ですから。お金が出ればまた別なんですけど……。今の若い人の楽しさってちょっと違うでしょ。(スマートフォンの)画面の楽しさになっちゃっているでしょ。
【山本さん】うちの学校でもいまやってるんですけど、たしかに人と人とが触れ合うコミュニケーション能力というか、机上の学問ができても実践ができないとだめで。だから授業でも会話の実践ができたりしてるんです。小学校とか中学校もそういうのをやっていると思うんです。
【吉田さん】会話ができないから。携帯電話で話すのも、ものすごくもどかしいらしいんです。親しい間ならできるんですけど、すごく(電話を)拒否される。
【山本さん】学校だって先生がた同士で話せばいいのに、メールです。
【吉田さん】おかしいですよね、あれ。
【山本さん】おかしいです。だって隣にいるから口をきいたらいいのに。
【吉田さん】LINEでいじめがあったりとか聞いてびっくりしました。
【山本さん】先生がたがそういう世代に入ってきています。うちの高校も年配の先生がごそっと辞めた時期があって、それで若い人たちになって、いまの平均年齢が35歳です。高校の教員で32、33歳。だから年配の人はそれこそ副担とか学年付きぐらいにして、若い先生をどんどん入れる。じゃないといまの教育についていけないと。それはそうかもしれないです。教員も大変なんです。10年ごとに免許を書き替えますでしょ。私たちのときはそんなことなかったんだけど、やはり新しい教育があるから。それがいいのかどうかわかりませんけど。私たちのころは、小説を1本ちゃんと読みかたを教えてくれて、自分たちでどう考えるかということをやりました。だけどいまはやはり大学に入るための勉強、半分予備校みたいになってる。次世代をつないでいくのにコミュニケーションが一番大事なんですけど。
【根岸さん】いま、新聞も読まないでしょ。テレビも同じ番組見てないから共通の話題がないんです。新聞なんかほとんど取ってないんだもの。
【山本さん】活字を読まないんです。テレビを見ると、クイズの東大王とか何とかっていうのがいっぱいですものね。たしかに博学でしょうけれども、それがどうしたのっていう感じになっちゃいます。
【植野さん】コロナが収まったらお祭りじゃないけど、何か――。
【山本さん】また会長と考えて、とにかく1回はイベントをね。
【植野さん】そう。若い人にひとつテントを任せるから何かやってみないか、って聞いてみる。50円ぐらいまでなら何か売ってもいいし。
【山本さん】任せるための前段階があるけどね。来てもらっていきなり、じゃなくて。
【植野さん】それはもちろんそうだ。
【根岸さん】1人をつかまえて芋づる式に。
【山本さん】そうですね。民生委員で子どものための「(としま子育てサロン)ぱおぱお」っていうのをやっているんですけど、たとえば中止と言う場合に、私たちのレベルだと「(告知の)紙を貼らなきゃ」ってなるでしょ。(若い人は)全部SNSで済ませます。SNSで1回中止って言うと、一斉に広まります。全部つながる。だから逆に怖いです。いいことも伝わるけど、悪いことも伝わる。
【植野さん】うちの娘と孫は今一緒に住んでるんです。以前目白に住んでいたものですから地元の小学校に行ってないんです。だから五若みたいな地元の付き合いがないの。本当はそういう地域の付き合いがあれば――私がお母さんがたと「ふみの会」をつくったみたいなのが地元であれば、芋づる式に来られる人から知恵も出ると思うけど、私自身それがないものですから。
【根岸さん】私、(みらい館)大明で春祭りをやったときに、お茶席をやったんです。近所の人が結構来ました。
【植野さん】お茶ならぜひ任せてください。
【山本さん】野だてはいいですよね。
【植野さん】手もあるし、お釜もあるし、立礼もあるし、何でもあるの。
【山本さん】ぜひ。今度のイベントはお茶会がいいんじゃないですか。
【植野さん】いくらでも手伝いもいます。
【山本さん】そうするとあんまりハードルが高くないかもしれない。はらっぱ公園でやればね。全昌院だと靴を脱いで、っていうのがあるから。
【根岸さん】おいしいお菓子を食べる会。
【植野さん】お茶とお菓子で、(お茶を)立てたい人は立てるの。やはり経験が大事なので。やはり自分で点てたお茶はいいし、やるとやらないのとでは違う。
【山本さん】それはいいアイデアです。
【根岸さん】「伝統文化を知ろう」ぐらいで。
【植野さん】すごいわね。私、死んでいられません(笑)。頑張って生きていかないと。
【吉田さん】いいんじゃないですか。すごくいい。若い人にブースを貸したり。
【植野さん】私、いくらでもできます。そのへんは頑張ろうかな。
【山本さん】それで上手に引き継いでいけばね。
【根岸さん】句をやったらどうですか。テレビですごいじゃないですか。
【植野さん】俳句って難しいから、いいわよね。ちょっと教わるとできることってあるでしょう? 多少決まりがあったほうがいい。全く知らないのと、ちょっと決まりを知るのだったら、あったほうがいい。俳句、私も行くわ。
【山本さん】季語も結構難しいんです。現代と違いますでしょ。
【根岸さん】そうですよね。テレビの『プレバト』っておもしろいです。
【植野さん】おもしろいです。あの女性。頭のいい女性が出てきてすごいの。
【山本さん】1番と最後の人を決めるのがおもしろいわよね。考えていますよね。
【根岸さん】何か工夫されていると思います。
【植野さん】そんなのもいいかもしれません。
【根岸さん】たまたま私が言っただけですけど(笑)。
【山本さん】いずれにしても後継者の問題が一番。やはり10年たっていると10歳年も取ってるから。まだ自分たちでやれると思っていても、次世代を考えていかないとね。
(了)