昭和48(1973)年のオイルショックを契機に高度成長が終焉し、日本経済が安定成長から低成長へと減速していく中で、時代は昭和から平成へと移り変わった。そしてこのふたつの時代を跨ぐバブル景気とその突然の崩壊は、金融・産業・雇用などさまざまな面に大きな影を落とし、戦後日本経済を支えてきた価値観や制度の見直しを迫られることとなった。
本節では、こうした社会経済情勢の大きな変化が公共インフラや公共施設の整備を中心とする街づくりにどのように影響し、またそれらがどのように変容していったかを平成期初頭の街づくり動向を見る中でたどっていく。その緒として本項では、高度成長期における再開発事業のシンボルとも言える池袋駅東口地区のサンシャインシティに続き、平成の幕開けを飾った東京芸術劇場の開館を契機とする池袋駅西口地区の再開発動向に焦点をあてる。
本節では、こうした社会経済情勢の大きな変化が公共インフラや公共施設の整備を中心とする街づくりにどのように影響し、またそれらがどのように変容していったかを平成期初頭の街づくり動向を見る中でたどっていく。その緒として本項では、高度成長期における再開発事業のシンボルとも言える池袋駅東口地区のサンシャインシティに続き、平成の幕開けを飾った東京芸術劇場の開館を契機とする池袋駅西口地区の再開発動向に焦点をあてる。
東京芸術劇場の開館
平成2(1990)年10月30日、池袋駅西口に隣接する東京学芸大学附属豊島小学校跡地に東京芸術劇場が開館した。昭和44(1969)年に東京都が跡地利用構想を発表してから既に21年が経過し、当初予定していた昭和49(1974)年から16年遅れての開館であった。
この東京芸術劇場の開館と前後して、昭和60(1985)年にはホテルメトロポリタン(日本国有鉄道職員宿舎跡地)が、また平成4(1992)年にはメトロポリタンプラザビル(芝浦工業大学高等学校跡地)がオープンし、これにより昭和30年代初頭から地元商店街や町会等を中心に展開されてきた学芸大附属小学校、芝浦工業大学高校の学校移転促進・跡地活用運動は30余年の歳月を経て結実したことになった。それはまた、池袋副都心整備構想の中核的事業に位置づけられた池袋駅東西の再開発事業において、東口のサンシャインシティ(東京拘置所跡地)のオープン(昭和53[1978]年)から10年以上遅れての実現でもあった。
この東京芸術劇場の開館と前後して、昭和60(1985)年にはホテルメトロポリタン(日本国有鉄道職員宿舎跡地)が、また平成4(1992)年にはメトロポリタンプラザビル(芝浦工業大学高等学校跡地)がオープンし、これにより昭和30年代初頭から地元商店街や町会等を中心に展開されてきた学芸大附属小学校、芝浦工業大学高校の学校移転促進・跡地活用運動は30余年の歳月を経て結実したことになった。それはまた、池袋副都心整備構想の中核的事業に位置づけられた池袋駅東西の再開発事業において、東口のサンシャインシティ(東京拘置所跡地)のオープン(昭和53[1978]年)から10年以上遅れての実現でもあった。
この間の経緯については、豊島区史通史編三(※1)及び四(※2)に詳しく記されているが、このように西口地区の再開発が遅れたのは、駅周辺マーケット(ヤミ市)の立ち退き交渉の長期化に起因する。特別都市計画法(昭和21年9月11日法律第19号)に基づき各都市で開始された戦災復興土地区画整理事業によるヤミ市の撤去は、東口地区では昭和27(1952)年に完了したのに対し、西口地区では昭和37(1962)年まで決着が見られなかった。しかしそれ以上に大きかったのは整備主体である東京都の跡地開発を取り巻く環境であった。昭和39(1964)年に廃校した学芸大附属小学校跡地をめぐる国都間の所有権問題、都知事の交代等による整備方針策定等の遅れ、また都の財政悪化による開発計画の見直しや工期延長など、跡地開発にかかる都の体制の不安定さがヤミ市撤去後においてもなお、西口地区の開発を遅延させる要因になった。
こうした紆余曲折を経ての開館であっただけに、長年、跡地活用運動に関わってきた地元関係者たちの期待は否が応にも膨らんでいった。池袋駅西口開発委員会は、これを機に西口地区は「ドラマのある街づくり」をしようと、着工の前から資金を集め、西口五差路にテーマ広場を完成させた。そして昭和62(1987)年9月の劇場工事着工に合わせ、それを区へ寄贈して機運を盛り上げたのである。さらに開館当年には地元商工関係者を中心に祝賀事業実行委員会が組織され、10月30日の開館を挟んで池袋駅の東西で盛大な祝賀イベントが展開された。その実行委員長を務めた東京商工会議所豊島支部渡辺輝会長(当時)も、「東口のサンシャインビルと並び、池袋西口の新しい顔として副都心機能、地域振興などに大きなプラスになる」と「待望久しい文化殿堂」の誕生に祝詞を寄せている(平成2年10月30日付『豊島新聞』)。
こうした紆余曲折を経ての開館であっただけに、長年、跡地活用運動に関わってきた地元関係者たちの期待は否が応にも膨らんでいった。池袋駅西口開発委員会は、これを機に西口地区は「ドラマのある街づくり」をしようと、着工の前から資金を集め、西口五差路にテーマ広場を完成させた。そして昭和62(1987)年9月の劇場工事着工に合わせ、それを区へ寄贈して機運を盛り上げたのである。さらに開館当年には地元商工関係者を中心に祝賀事業実行委員会が組織され、10月30日の開館を挟んで池袋駅の東西で盛大な祝賀イベントが展開された。その実行委員長を務めた東京商工会議所豊島支部渡辺輝会長(当時)も、「東口のサンシャインビルと並び、池袋西口の新しい顔として副都心機能、地域振興などに大きなプラスになる」と「待望久しい文化殿堂」の誕生に祝詞を寄せている(平成2年10月30日付『豊島新聞』)。
この東京芸術劇場は、客席数約2000席のコンサートホールの正面にシンボルとも言える世界最大級のパイプオルガンを擁し、さらに中・小ホール、展示室等で構成される、まさに「文化殿堂」とも言うべき大規模文化施設であった(※3)。その誕生を祝う地元の気運に呼応し、区も開館記念事業として10月26日~12月2日に開催された「東京国際演劇祭’90」(※4)を後援するとともに、「としま狂言の会」を参加公演として主催した。さらに続く12月12日~25日の8日間は区・区教育委員会・豊島区コミュニティ振興公社主催による第1回「としま区民芸術祭」を開催した(※5)。また例年豊島公会堂で行われていた「音楽成人式」も、平成3(1991)年以降は東京芸術劇場に会場を移して開催されるようになった。
ちなみに区が後援したこの「東京国際演劇祭」は昭和63(1988)年に池袋で初開催されたもので、幾度かの名称変更を経て平成21(2009)年以降は「フェスティバル/トーキョー(略称:F/T)」として毎年開催され、「演劇都市」を標榜する池袋の国際的な舞台芸術祭として定着していった。また、区民により身近な文化芸術観賞機会の提供を目的とする「としま区民芸術祭」も、区民参加型公演を含む多彩なプログラムを展開するイベントとして毎年回を重ねている。この新たな文化拠点としての東京芸術劇場の開館は、区の文化事業の展開にも大きなはずみとなったのである。
そして何よりも東京芸術劇場の誕生がもたらした最大の効果は、池袋駅西口地区のその後のまちづくりの方向性を明確にしたことであろう。
ちなみに区が後援したこの「東京国際演劇祭」は昭和63(1988)年に池袋で初開催されたもので、幾度かの名称変更を経て平成21(2009)年以降は「フェスティバル/トーキョー(略称:F/T)」として毎年開催され、「演劇都市」を標榜する池袋の国際的な舞台芸術祭として定着していった。また、区民により身近な文化芸術観賞機会の提供を目的とする「としま区民芸術祭」も、区民参加型公演を含む多彩なプログラムを展開するイベントとして毎年回を重ねている。この新たな文化拠点としての東京芸術劇場の開館は、区の文化事業の展開にも大きなはずみとなったのである。
そして何よりも東京芸術劇場の誕生がもたらした最大の効果は、池袋駅西口地区のその後のまちづくりの方向性を明確にしたことであろう。
東京芸術劇場の設計を手掛けた建築家・芦原義信氏は、昭和63(1988)年に区が刊行した豊島区総合紹介誌『豊島學』(※6)に「効率主義から夢ある都市へ」と題した一文を寄せ、西口地区のまちづくりの可能性について、次のように記している。
-(前略)今の池袋はどうも普通の副都心になっているように思えてならない。もう少し特徴があっていい。幸い池袋駅の西口には大きな空き地があって、東京都の芸術文化会館を建設することになっている。これができると、西口はかなり文化ゾーンとして変わるのではなかろうか。(中略)池袋の場合、商業的活性化はすでにものすごいのだから、こんどは文化的活性化をめざすべきだろう。そこに、池袋西口再開発の存在理由がある。
オペラを覗たあと、一杯やりながら、その興奮を話し合う。話しながらそぞろ歩きをする。建物や地下街では、エスカレーターを整備し、地下コンコースはガラス張りのアットリュームにして、照明も明るい。そこはいろいろな情報が得られるパブリックスペースでもある。こんなことをめざしたら、豊島区にとっても、かなりの文化的インパクトになることは間違いない。
芦原氏が語った情景は西口地域の人々が望み描いてきた街の風景であり、まさしく西口地区の未来予想図と言える。オペラを覗たあと、一杯やりながら、その興奮を話し合う。話しながらそぞろ歩きをする。建物や地下街では、エスカレーターを整備し、地下コンコースはガラス張りのアットリュームにして、照明も明るい。そこはいろいろな情報が得られるパブリックスペースでもある。こんなことをめざしたら、豊島区にとっても、かなりの文化的インパクトになることは間違いない。
もともと池袋駅西口地区は、明治末から大正期にかけ、東京府豊島師範学校(学芸大学の前身、明治42(1909)年開校)をはじめ、成蹊実務学校(成蹊学園の前身、明治45(1912)年開校)、立教大学(大正7(1918)年築地から移転)、自由学園(大正10(1921)年開校)、成蹊実務学校移転後の地に開設された東京鐵道教習所及び東京鐵道中学(芝浦工業大学高校の前身、大正11(1922)年開校)など、多くの教育機関が設立され、それにより発展してきた文教地区であった。そのような歴史的風土を持ちながら、終戦後には鉄道沿線の基地や農家から多くのヤミ物資や食料が持ち込まれ、焼け野原と化した西口駅前一帯はヤミ市で埋め尽くされていった。人々の空腹を満たすためのヤミ市は焦土の中から立ち上がるエネルギーを生み出していった反面、その名の通り戦後混乱期の混沌とした世相を映し出す鏡でもあった。東口よりも規模が大きく、また東口の根津山のような移転先となる広い代替地がなかった西口のヤミ市整理は遅れ、その後の風俗営業店が無秩序に軒を連ねる繁華街の様相が重なり、「暗い・怖い・汚い」といったイメージを引きずることになってしまった。西口地区にとってはもとより、区にとってもそうした負のイメージを払しょくし、安全安心で文化的なまちへと転換していくことが大きな課題となっていたのである。
池袋西口地区再開発の動向
「文化」を池袋西口地区まちづくりの軸にするという方向性は、昭和60(1985)年12月に池袋駅西口地区開発整備推進協議会から出された提言の中にすでに見ることができる(※7)。伊藤滋東京大学工学部教授を会長に迎え、地元商店街や町会、東武百貨店、東武鉄道、国鉄、帝都高速度交通営団、池袋警察署、都関係部局等の代表者で構成されたこの協議会は、学芸大附属小学校跡地や芝浦工大高校跡地など西口地区の大規模開発が同時進行する機をとらえ、「副都心にふさわしい魅力的な街づくりのあり方について一定の方向性を見出していくための協議の場」として、昭和57(1982)年8月に発足した。検討の対象地区を開発が具体化している西池袋1丁目地区(約12ha)に限定し、その将来像を文化的色彩のあふれた「文化ゾーン」とすることを提起した。それはすでに開発が進んでいた東口地区の商業・業務ゾーンや西口地区の盛り場ゾーン・買物ゾーンと調和した、池袋副都心の新たな核形成の提言であった。さらに、西池袋1丁目地区の再開発を第一段階として、「より進んだ形で地区のあるべき将来像に到達するためには、駅前街区をはじめ他の街区においても再開発を推進することが必要である」と、西口地区全体への波及の必要性を訴えたのである。
また「文化ゾーン」の創造に向けては、学芸大附属小学校跡地に整備予定の芸術文化施設以外にも公共・民間による文化機能の積極的な配置を図ること、広場と大通りの創出や美しい街並みの形成等周辺整備を一体的に図っていくことが目標に掲げられ、各ブロック(街区)の土地利用方針や交通体系の整備方針が示されていた。
この提言を踏まえ、区は同地区の開発事業の進捗に合わせ、周辺整備を進めていった(※8)。
まず約5億円をかけ、東京芸術劇場と西口駅前をつなぐ区道218号線を改修し、駅前に分散していた路線バスの停留所を集約するとともに、劇場に隣接する池袋西口公園を劇場前庭と一体的に整備した(※9)。さらに文化的雰囲気を醸成しようと、公園内に区内在住の著名な彫刻家・竹内不忘氏の「平和の像」を建立し、新劇場開館に先駆け、第45回終戦記念日にあたる平成2(1990)8月15日に除幕式を挙行した(※10)。この像は、昭和57(1982)年7月2日に23区で初めて「非核宣言都市」を行った豊島区が希求する平和のシンボルとして、区民の要望を受けて設置したものである。またこの像を中心に、劇場正面に建てられた高さ10メートに及ぶ巨大なオブジェ「CRESCENDO(クレッシェンド):クレメント・ミドモア作」をはじめ大小26体の彫刻を配置し、公園全体を芸術的な空間として演出した。
この提言を踏まえ、区は同地区の開発事業の進捗に合わせ、周辺整備を進めていった(※8)。
まず約5億円をかけ、東京芸術劇場と西口駅前をつなぐ区道218号線を改修し、駅前に分散していた路線バスの停留所を集約するとともに、劇場に隣接する池袋西口公園を劇場前庭と一体的に整備した(※9)。さらに文化的雰囲気を醸成しようと、公園内に区内在住の著名な彫刻家・竹内不忘氏の「平和の像」を建立し、新劇場開館に先駆け、第45回終戦記念日にあたる平成2(1990)8月15日に除幕式を挙行した(※10)。この像は、昭和57(1982)年7月2日に23区で初めて「非核宣言都市」を行った豊島区が希求する平和のシンボルとして、区民の要望を受けて設置したものである。またこの像を中心に、劇場正面に建てられた高さ10メートに及ぶ巨大なオブジェ「CRESCENDO(クレッシェンド):クレメント・ミドモア作」をはじめ大小26体の彫刻を配置し、公園全体を芸術的な空間として演出した。
一方、芝浦工業大学高校跡地の再開発事業については、昭和61(1986)年8月に運輸大臣の認可が下り、翌62(1987)年、開発計画の概要が明らかにされた(※11)。施工者は、メトロポリタン駐車場(58年12月開業)と同ホテル(60年6月開業)建設のために昭和56(1981)年に設立された池袋ターミナルホテル株式会社(東日本旅客鉄道・東武鉄道・金融機関等出資の第3セクター)と東武鉄道で、開発認可を受けて社名を池袋ターミナルビル株式会社に変更した。同社は駐車場・ホテルに続く駅ビルの開発により、東京北西部の再活性化と将来へ向けての基盤づくり、いわゆるリポジショニングをめざしていたのである。
この開発計画は、前述の池袋駅西口地区開発整備推進協議会の提言で示された「商業・業務・文化施設及び公共・公益施設としての利用」、「道路を取り込んだ一体開発の促進、オープンスペースの確保、駅機能の取入れ並びに交通起点としての開発」などの土地利用方針に基づき、地上22階地下4階延床面積164,900㎡となる駅ビルの中には店舗・オフィス用スペースのほか、文化施設として多目的ホールと区の女性センター(仮称)も入居することとなった。また、池袋駅の新たな玄関口となるビル1階に自由通路、広場、東武東上線南口改札を設置するとともに、2階東南側には東西デッキの受け皿として期待されたペデストリアンデッキ(高架歩道)の整備も盛り込まれていた(※12)。
この開発計画は、前述の池袋駅西口地区開発整備推進協議会の提言で示された「商業・業務・文化施設及び公共・公益施設としての利用」、「道路を取り込んだ一体開発の促進、オープンスペースの確保、駅機能の取入れ並びに交通起点としての開発」などの土地利用方針に基づき、地上22階地下4階延床面積164,900㎡となる駅ビルの中には店舗・オフィス用スペースのほか、文化施設として多目的ホールと区の女性センター(仮称)も入居することとなった。また、池袋駅の新たな玄関口となるビル1階に自由通路、広場、東武東上線南口改札を設置するとともに、2階東南側には東西デッキの受け皿として期待されたペデストリアンデッキ(高架歩道)の整備も盛り込まれていた(※12)。
一方、区も同提言の「区道の一部廃止、沿道再開発等による道路拡幅、緑の多いゆったりと歩ける歩道の整備」との交通体系の整備方針に基づき、区道232号の一部を廃止するとともに、その面積分を付け替えるかたちで225号・229号を拡幅するなど、建設工事の進捗に合わせて周辺街路の整備を進めていった(※13)。
ちなみにこの区道廃止条例案が可決された平成元(1989)年第1回定例会の一般質問で、開発事業地の形状整地のために区道を廃止することについて、反対議員から当時刑事事件に発展していた疑惑になぞらえ、「リクルートまがいの再開発」との発言があり、これに対し、「本件道路を廃止することの是非は、副都心池袋の街づくりに関する基本的な見解の相違である…(中略)、リクルートまがいとのご推察は自由でございますが、都市基盤の整備という、将来を見据えた課題についても、真剣に勉強していただきたい」と区長が応酬する一幕もあった。いずれにしても、この区道廃止が正式に決定されたことにより、開発事業に実質的な「GOサイン」(平成元年3月21日付『豊島新聞』)が出されたと言える。
こうしてようやく実現した東京芸術劇場の建設が起爆剤となり、西池袋1丁目地区で広がっていった再開発の動きは、区にとっても地域にとっても、その活力を西口地区全体へと波及させる絶好の機会ととらええられた。事実、劇場竣工時の西口地区は、平成元(1989)年9月に着工した芝浦工業大学高校跡地の再開発のほか、池袋警察署庁舎の建て替えや民間ビルの建築など10以上の事業が同時進行で進められ、工事ラッシュの様相を呈していたのである。まさに「槌音響く」その光景に、西口地区のさらなる発展に対する、地域の人々からの期待は高まっていったに違いない。
しかし、時同じくしてバブルが崩壊し、以後長く続く日本経済の停滞は、各地域の再開発事業に色濃く影を落としていった。西口地区のまちづくりも例外ではなく、芝浦工業大学高校跡地にメトロポリタンプラザビルが竣工した平成4(1992)年以降、再開発の動きはほぼ休眠状態に陥っていった。
そして、昭和60(1985)年に池袋駅西口地区開発整備推進協議会が提起した再開発構想が再び検討の俎上に載るのは、平成20(2008)年以降のことであり、四半世紀の歳月を待たねばならなかったのである。
ちなみにこの区道廃止条例案が可決された平成元(1989)年第1回定例会の一般質問で、開発事業地の形状整地のために区道を廃止することについて、反対議員から当時刑事事件に発展していた疑惑になぞらえ、「リクルートまがいの再開発」との発言があり、これに対し、「本件道路を廃止することの是非は、副都心池袋の街づくりに関する基本的な見解の相違である…(中略)、リクルートまがいとのご推察は自由でございますが、都市基盤の整備という、将来を見据えた課題についても、真剣に勉強していただきたい」と区長が応酬する一幕もあった。いずれにしても、この区道廃止が正式に決定されたことにより、開発事業に実質的な「GOサイン」(平成元年3月21日付『豊島新聞』)が出されたと言える。
こうしてようやく実現した東京芸術劇場の建設が起爆剤となり、西池袋1丁目地区で広がっていった再開発の動きは、区にとっても地域にとっても、その活力を西口地区全体へと波及させる絶好の機会ととらええられた。事実、劇場竣工時の西口地区は、平成元(1989)年9月に着工した芝浦工業大学高校跡地の再開発のほか、池袋警察署庁舎の建て替えや民間ビルの建築など10以上の事業が同時進行で進められ、工事ラッシュの様相を呈していたのである。まさに「槌音響く」その光景に、西口地区のさらなる発展に対する、地域の人々からの期待は高まっていったに違いない。
しかし、時同じくしてバブルが崩壊し、以後長く続く日本経済の停滞は、各地域の再開発事業に色濃く影を落としていった。西口地区のまちづくりも例外ではなく、芝浦工業大学高校跡地にメトロポリタンプラザビルが竣工した平成4(1992)年以降、再開発の動きはほぼ休眠状態に陥っていった。
そして、昭和60(1985)年に池袋駅西口地区開発整備推進協議会が提起した再開発構想が再び検討の俎上に載るのは、平成20(2008)年以降のことであり、四半世紀の歳月を待たねばならなかったのである。