平成元(1989)年、区は「公共施設整備中期計画」を策定し、福祉施設・公共住宅・公園等の施設整備を拡大する方針を明確にするとともに、あわせて「新庁舎建設審議会」を設置し、庁舎及び豊島公会堂の建設に向けた検討を本格化させた。バブル景気の潤沢な税収を背景に、公共施設の積極的な整備は区の基本路線に位置づけられていたのである。だが一方、地価の異常な高騰により施設整備のための用地取得費や建設経費等の投資的経費が膨らみ、区の財政規模は急速に拡大していった。当時の区の財政状況については第3節で詳しく述べるが、昭和60(1985)年度に500億円台だった一般会計決算額は、わずか6年後の平成3(1991)年度には倍の1千億円を突破していた。
しかしまさにその平成3(1991)年、バブルは崩壊し、日本経済は一気に減速する。後に「失われた10年」と言われるほど平成不況が長期化することなど、当時は予想されるべくもなく、また区の主要財源である区民税は前年所得が課税対象となることから景気悪化の影響が遅れて現れることもあって、財政見通しに対する区の判断は後手に回った。しかもこの間も公共施設整備の基本路線は緩めることなく堅持され、積極的な投資を繰り返していった結果、昭和62(1987)年度一般会計決算に過去最高の45億円の黒字を記録した区財政は、わずか3年後の平成2(1990)年度には事実上の赤字収支に転化し、財政調整基金の取り崩しや庁舎等建設基金等の運用による収支の帳尻合わせが常態化していったのである。
本項では、区財政悪化の引き金となった「公共施設整備中期計画」と「新庁舎整備計画」のふたつの計画の策定から見直し・休止にいたる経緯をたどる。
しかしまさにその平成3(1991)年、バブルは崩壊し、日本経済は一気に減速する。後に「失われた10年」と言われるほど平成不況が長期化することなど、当時は予想されるべくもなく、また区の主要財源である区民税は前年所得が課税対象となることから景気悪化の影響が遅れて現れることもあって、財政見通しに対する区の判断は後手に回った。しかもこの間も公共施設整備の基本路線は緩めることなく堅持され、積極的な投資を繰り返していった結果、昭和62(1987)年度一般会計決算に過去最高の45億円の黒字を記録した区財政は、わずか3年後の平成2(1990)年度には事実上の赤字収支に転化し、財政調整基金の取り崩しや庁舎等建設基金等の運用による収支の帳尻合わせが常態化していったのである。
本項では、区財政悪化の引き金となった「公共施設整備中期計画」と「新庁舎整備計画」のふたつの計画の策定から見直し・休止にいたる経緯をたどる。
公共施設整備中期計画
総合的かつ計画的な自治体運営を図るため、基本構想の策定を義務づける昭和50(1975)年地方自治法改正を受け(平成23年改正で義務づけ規定廃止)、56(1981)年3月、豊島区においても初めて「豊島区基本構想(以下「基本構想」)」が議決された。そしてその基本構想が掲げる都市像「みんなで きずく 生活文化都市としま」を実現するため、翌57(1982)年11月には「豊島区基本計画(以下「基本計画」)」が策定された。基本計画は58(1983)年度から10か年の長期計画であり、計画事業数39、総事業費は約586億円が見込まれていた。折しも57年は区制施行50周年にあたり、21世紀の未来を展望する基本計画の策定はその後の計画行政の道を開くものとなった。
計画事業の具体的な内容は毎年度策定される「実施計画」に落とし込まれていったが、昭和62(1987)年4月、第5次実施計画をまとめ終えたところで、戦中戦後の激動の時代を昭和9(1934)年に区に奉職してから50有余年、46(1971)年からは区長として4期16年を務めた日比寛道区長が勇退し、その後を継いで加藤一敏新区長が就任した。
日比区政の継承を掲げて区長選を制した加藤新区長は、基本計画についてもその着実な実施を自らの最大の責務に位置づけた。しかしバブル経済を迎えた日本社会の変化は著しく、10か年の折り返し点を迎えた基本計画は高齢化や国際化、さらに地価高騰等の区政を取巻く社会経済情勢の急激な変化に対応しきれなくなっていた。このため、基本計画を補完するものとして平成元(1989)年2月に策定されたのが「公共施設整備中期計画(以下「中期計画」)」だったのである。
計画事業の具体的な内容は毎年度策定される「実施計画」に落とし込まれていったが、昭和62(1987)年4月、第5次実施計画をまとめ終えたところで、戦中戦後の激動の時代を昭和9(1934)年に区に奉職してから50有余年、46(1971)年からは区長として4期16年を務めた日比寛道区長が勇退し、その後を継いで加藤一敏新区長が就任した。
日比区政の継承を掲げて区長選を制した加藤新区長は、基本計画についてもその着実な実施を自らの最大の責務に位置づけた。しかしバブル経済を迎えた日本社会の変化は著しく、10か年の折り返し点を迎えた基本計画は高齢化や国際化、さらに地価高騰等の区政を取巻く社会経済情勢の急激な変化に対応しきれなくなっていた。このため、基本計画を補完するものとして平成元(1989)年2月に策定されたのが「公共施設整備中期計画(以下「中期計画」)」だったのである。
平成元年第1回区議会定例会の開会にあたり、加藤区長は所信表明(※1)の中で、中期計画の策定理由を次のように説明している。
-特別養護老人ホームをはじめ、基本計画策定時には予想もしていなかった事業を既に数年前より実施計画に織り込み、実施してまいったところでございます。深刻な課題となっている高齢者住宅、取得を強く要望してまいりました旧国鉄用地5か所の取得とその利用計画、さらには新庁舎等の建設など、多くの懸案も立ちはだかっており、これらを既定の基本計画計上事業と合わせて実施していかなければなりません。このため、新たな視点に立って、基本計画を補完する計画として、平成元年度を初年度とする5か年の「公共施設整備中期計画」を策定した次第でございます。
こうして高齢者住宅、特別養護老人ホーム、福祉作業所・生活実習所、福祉ホーム等の福祉関連施設のほか、区役所本庁舎及び公会堂の改築、日本庭園(目白)、女性センター(西池袋)、竹岡健康学園、猪苗代青少年センター等の新設、そして旧国鉄用地5か所の買収等の新たな事業を加え、中期計画は基本計画を再構築するかたちで策定された。その事業数は41、5か年の総事業費は基本計画策定当初の584億円をはるかにしのぐ1,004億2千万円(一般会計628億6,200万円、土地開発公社375億5,800万円)にのぼった(※2)。
さらに同計画は平成3(1991)年1月に、同時に策定された「高齢社会対策総合計画」(平成3年度を初年度とする10か年計画)の前期5か年の施設建設事業を取り込む形で、平成3年度から5か年計画の「新公共施設整備中期計画」に衣替えされ、計画事業数45、総事業費1,087億円(一般会計688億7,500万円、土地開発公社398億2,500万円)とより拡大していった(※3)。
このようにして既にバブルが崩壊した平成3(1991)年以降も公共施設整備は積極的に進められていったが、この間、バブル崩壊による平成不況が区の財政環境に及ぼす影響について、区はどのようにとらえていたのだろうか。以下、平成元(1989)年から平成5(1993)年までの各年の第1回区議会定例会における加藤区長の所信表明(※4)の中から財政環境に関する言及部分をたどっていくと、そこからは先行きの見えない状況に対し、次第に苦渋の色が滲んでいく様子が見て取れるのである。
平成元(1989)年の所信表明では、税制改正(所得税・住民税等の大幅減税及び消費税の導入)による影響に懸念しつつも、景気の回復を反映した法人税収の増による国や都の予算案の高い伸びに倣う、強気の姿勢が見られた。だが景気に陰りが見えだした平成2(1990)年には「大型景況も頭打ちに近づきつつある」、翌3(1991)年には「日本経済もようやく減速感が強まりつつある」とやや控えめだった懸念は4(1992)年には一転し、「バブル崩壊とともに景気の減速感が一段と色濃く」と現実味を帯びた危機感をあらわにした。しかし国や都が景気停滞による税収の急速な落ち込みを懸念し、いち早く拡大路線から緊縮型予算へと移行したにもかかわらず、またその路線変更が区財政にも深刻な影響を及ぼしていたにもかかわらず、「これまで培ってきた財政対応能力を最大限活用して、所要財源の確保に努めますと同時に、長期的視点に立って財源の計画的かつ重点的な配分にも特段意を用いて」予算を編成したとして、投資的事業への積極姿勢は崩さなかった。その言に違わず、平成4年(1992)度一般会計予算総額は1,031億9,300万円、前年比12.1%増で、初めて1千億円を超える過去最高額となったのである。
しかし、その後も区を取り巻く財政環境は悪化の一途をたどり、翌5(1993)年の所信表明では「バブルの崩壊に伴う景気低迷が、複合不況の影を色濃く引きずりながら、一段と深刻化し、長期化」しているとのかつてない厳しい現状認識が示された。そして、「これまで培ってきた財政対応能力」の最大の武器である財政調整基金も底をつき、いよいよ庁舎等建設基金の運用や、昭和50(1975)年度以来17年ぶりとなる「減収補填債」を発行する状況にまで追い込まれたのである。事ここに至り、平成5年(1993)度予算編成では施策の重点化、すなわち「選択」を行わざるを得ず、平成3(1991)年度から進めてきた「新公共施設整備計画」に基づく事業の一部(25施設)について、次年度以降への繰り延べを余儀なくされた。しかしそれでもなお、一旦走り出した整備計画にはなかなか歯止めをかけることはできなかったのである。
下表1-①は、昭和62(1987)年度から平成11(1999)年度までの加藤区政時代に整備された主な施設の一覧である。高齢者福祉施設・住宅、公園等、区が直面する課題に対応するための施設整備が中期計画策定以降急速に拡大していったことがうかがえる。特に整備費が数10億から100億円に及ぶ大規模施設の整備は、減収補填債の発行など区財政に黄色信号が灯り出した平成5~7(1993~1995)年度に集中し、長崎6丁目地区複合施設(長崎第二豊寿園・福祉住宅つつじ苑:37億円)、上池袋2丁目池袋電車区(上池袋図書館・上池袋さくら公園:93億円)、三芳グランド(106億円)、猪苗代四季の里(32億円)、特別養護老人ホームアトリエ村(83億円)、生活産業プラザ(108億円)などピークを迎えていた。さらに区財政にいよいよ赤信号が灯った平成8(1996)年度以降も、特別養護老人ホーム風かおる里(55億円)・菊かおる園(58億円)、新池袋保健所(43億円)、健康プラザとしま(105億円)など大規模施設の整備は止まることがなかった。また、こうした大規模施設ばかりでなく、小規模公園等(49件)の取得経費も、地価の高騰も相まって昭和62(1987)年度以降12年間で約376億円に及んでいた。
それら莫大な経費をかけて進められた公共施設整備は確実に区の財政基盤を蝕んでいき、後に区財政を危機的状況に追い込む最大要因となっていったのである。
このようにして既にバブルが崩壊した平成3(1991)年以降も公共施設整備は積極的に進められていったが、この間、バブル崩壊による平成不況が区の財政環境に及ぼす影響について、区はどのようにとらえていたのだろうか。以下、平成元(1989)年から平成5(1993)年までの各年の第1回区議会定例会における加藤区長の所信表明(※4)の中から財政環境に関する言及部分をたどっていくと、そこからは先行きの見えない状況に対し、次第に苦渋の色が滲んでいく様子が見て取れるのである。
平成元(1989)年の所信表明では、税制改正(所得税・住民税等の大幅減税及び消費税の導入)による影響に懸念しつつも、景気の回復を反映した法人税収の増による国や都の予算案の高い伸びに倣う、強気の姿勢が見られた。だが景気に陰りが見えだした平成2(1990)年には「大型景況も頭打ちに近づきつつある」、翌3(1991)年には「日本経済もようやく減速感が強まりつつある」とやや控えめだった懸念は4(1992)年には一転し、「バブル崩壊とともに景気の減速感が一段と色濃く」と現実味を帯びた危機感をあらわにした。しかし国や都が景気停滞による税収の急速な落ち込みを懸念し、いち早く拡大路線から緊縮型予算へと移行したにもかかわらず、またその路線変更が区財政にも深刻な影響を及ぼしていたにもかかわらず、「これまで培ってきた財政対応能力を最大限活用して、所要財源の確保に努めますと同時に、長期的視点に立って財源の計画的かつ重点的な配分にも特段意を用いて」予算を編成したとして、投資的事業への積極姿勢は崩さなかった。その言に違わず、平成4年(1992)度一般会計予算総額は1,031億9,300万円、前年比12.1%増で、初めて1千億円を超える過去最高額となったのである。
しかし、その後も区を取り巻く財政環境は悪化の一途をたどり、翌5(1993)年の所信表明では「バブルの崩壊に伴う景気低迷が、複合不況の影を色濃く引きずりながら、一段と深刻化し、長期化」しているとのかつてない厳しい現状認識が示された。そして、「これまで培ってきた財政対応能力」の最大の武器である財政調整基金も底をつき、いよいよ庁舎等建設基金の運用や、昭和50(1975)年度以来17年ぶりとなる「減収補填債」を発行する状況にまで追い込まれたのである。事ここに至り、平成5年(1993)度予算編成では施策の重点化、すなわち「選択」を行わざるを得ず、平成3(1991)年度から進めてきた「新公共施設整備計画」に基づく事業の一部(25施設)について、次年度以降への繰り延べを余儀なくされた。しかしそれでもなお、一旦走り出した整備計画にはなかなか歯止めをかけることはできなかったのである。
下表1-①は、昭和62(1987)年度から平成11(1999)年度までの加藤区政時代に整備された主な施設の一覧である。高齢者福祉施設・住宅、公園等、区が直面する課題に対応するための施設整備が中期計画策定以降急速に拡大していったことがうかがえる。特に整備費が数10億から100億円に及ぶ大規模施設の整備は、減収補填債の発行など区財政に黄色信号が灯り出した平成5~7(1993~1995)年度に集中し、長崎6丁目地区複合施設(長崎第二豊寿園・福祉住宅つつじ苑:37億円)、上池袋2丁目池袋電車区(上池袋図書館・上池袋さくら公園:93億円)、三芳グランド(106億円)、猪苗代四季の里(32億円)、特別養護老人ホームアトリエ村(83億円)、生活産業プラザ(108億円)などピークを迎えていた。さらに区財政にいよいよ赤信号が灯った平成8(1996)年度以降も、特別養護老人ホーム風かおる里(55億円)・菊かおる園(58億円)、新池袋保健所(43億円)、健康プラザとしま(105億円)など大規模施設の整備は止まることがなかった。また、こうした大規模施設ばかりでなく、小規模公園等(49件)の取得経費も、地価の高騰も相まって昭和62(1987)年度以降12年間で約376億円に及んでいた。
それら莫大な経費をかけて進められた公共施設整備は確実に区の財政基盤を蝕んでいき、後に区財政を危機的状況に追い込む最大要因となっていったのである。
※4 各年区長所信表明
平成元年第1回定例会
平成2年第1回定例会
平成3年第1回定例会
平成4年第1回定例会
平成5年第1回定例会
新庁舎整備計画
昭和36(1961)年に建設された区庁舎は、都市化の進展や都区制度の見直し等による事務量の増大に伴って次第に手狭になり、分庁舎等にも機能が分散していた。そのため昭和57(1982)年に策定された基本計画の中で「新庁舎の建設計画について、学識経験者を含めた審議会を設けて、将来のあるべき庁舎像を求め、移転その他抜本的対策を慎重に検討して、区民に開かれた庁舎の建設をはかる」ことが初めて「計画目標」として盛り込まれた。また、昭和27(1952)年建設の公会堂は老朽化により度々の改修が余儀なくされ、その上、戦後間もない舞台設備やホールの構造は新たな時代の文化活動の場としては機能的にも著しく低下していた。そのため、同じく基本計画の中で「区民の文化交流・文化活動拠点として、公会堂を改築し、整備する」ことが「計画目標」に掲げられ、さらに現状の約3倍規模での改築が「計画事業」に位置づけられた。この「計画事業」とは基本計画の計画期間(昭和58~67年)内に達成すべきとされる事業であるが、敷地の形状や法的な規制等の面から現状地では3倍の施設規模を確保できず、公会堂単体での改築は現実的に困難だった。一方、基本計画の推進にあたっては新庁舎よりも区民生活に直結する福祉施設などの建設が優先されたため、新庁舎・公会堂建設に向けた具体的な動きはなかなか見られなかった。
そうした中、昭和62(1987)年3月、池袋東西の商店会・大型店で構成される池袋副都心協議会が日本都市計画学会に委託した21世紀の池袋副都心づくり構想「池袋ルネッサンス構想」(※5)が公表され、その21のプロジェクトのひとつに「区民のためのシビックセンターづくり」(区庁舎・公会堂の建て替え計画)が掲げられた(昭和62年3月24日付『豊島新聞』)。また同年3月、退任を前にした日比区長が庁舎と公会堂の一体化構想に言及したこともあり、にわかに庁舎・公会堂の「改築計画が浮上」(同4月7日付『豊島新聞』)したのである。
日比区長からバトンを受け取った加藤区長は、翌63(1988)年の第1回定例会所信表明の中で、「二十一世紀に向けて『みんなで築く生活文化都市』を実現してまいりますためには、区民サービスの飛躍的な向上を期するとともに、活力ある区政を展開する場として、効率的・近代的事務執行を担保する新しい庁舎の建設を具体化する必要」があると述べ、「庁舎等建設基金」設置条例案と初年度積立分30億円を計上した63年度当初予算案を議会に提出した。ちなみにこの基金条例案が区議会企画総務委員会で審議された際、基金の総額に関する質問に対し、「庁舎部分約3万平米、公会堂関連施設5,000平米、合わせて35,000平米程度の面積の建て替えで約150億円程度」との事業見込とともに、今後毎年10億から20億円の積み増しをしていく方針であるとの答弁がなされている。
日比区長からバトンを受け取った加藤区長は、翌63(1988)年の第1回定例会所信表明の中で、「二十一世紀に向けて『みんなで築く生活文化都市』を実現してまいりますためには、区民サービスの飛躍的な向上を期するとともに、活力ある区政を展開する場として、効率的・近代的事務執行を担保する新しい庁舎の建設を具体化する必要」があると述べ、「庁舎等建設基金」設置条例案と初年度積立分30億円を計上した63年度当初予算案を議会に提出した。ちなみにこの基金条例案が区議会企画総務委員会で審議された際、基金の総額に関する質問に対し、「庁舎部分約3万平米、公会堂関連施設5,000平米、合わせて35,000平米程度の面積の建て替えで約150億円程度」との事業見込とともに、今後毎年10億から20億円の積み増しをしていく方針であるとの答弁がなされている。
※5 豊島學(P76-77)
この「庁舎等建設基金」の創設に合わせ、庁内に「新庁舎等建設計画委員会」を立ち上げ、具体的な検討を開始しするとともに、翌平成元(1989)年5月には、区長の諮問機関としての「新庁舎等建設審議会」を設置し、検討を本格化させた。建築評論家・川添登氏を会長に迎え、学識経験者6名、区議会議員6名、区民12名、区職員3名から構成される審議会は、約1年半、10回にわたる審議を経て、平成2(1990)年12月18日に、「新庁舎・公会堂及びこれに併設する施設の建設計画に関する基本構想について」(※6)を答申した。
この基本構想は、現在地での建て替えを前提に新庁舎及び新公会堂に求められる理念、果たすべき機能、設置すべき施設及び規模等をまとめたもので、以降の新庁舎整備計画を方向づけるものとなった。その基本となる建設の理念には、以下の3項目が掲げられている。
これら3つの理念に対応し、新庁舎・新公会堂の機能として「区政の拠点機能」「文化創造機能」「広場機能」の3点をあげ、議会施設・防災センター・生活情報センター等を備えた新庁舎(38,000㎡程度)、1,300人程度収容可能な大ホールと500~800人程度収容可能な中ホールに会議室・練習室・展示室等を備えた新公会堂(15,000㎡程度)、その他に駐車場(12,000㎡程度)と、それぞれの具体的な内容と規模が示された。また、広場機能を担う中池袋公園や周辺道路の一体的整備の必要性についても提言されている。
- ① 自治と参加のシンボル
豊島区は、長い歴史と伝統を刻み込んだ、区民の自治によって形成される基礎的な自治体である。
新庁舎及び新公会堂は、区民の参加と連帯によって支えられる豊島区政の展開の場であるとともに、民主主義の理想を追求し、自治の理念を具現する区の象徴である。 - ② 生活と文化の創造の拠点
豊島区は、多様な人々が住み、お互いにふれあう生活都市であり、地域に根づいた文化に彩られた街である。
新庁舎及び新公会堂は、区民が個性豊かな生活を自ら生みだすとともに、伝統的な文化を継承し、新たな地域文化を創造する場である。 - ③ 魅力ある副都心の要
豊島区は、世界都市「東京」の一翼を担う池袋副都心を中心に据える街である。
新庁舎及び新公会堂は、商業・業務機能の集積が進む副都心にあって、街を訪れるすべての人々がやすらぎをおぼえ、語らいが生まれるような場であるとともに、にぎわいと活気あふれる魅力的な副都心の大きな核である。
この基本構想を踏まえ、区は平成3(1991)年7月、「新庁舎・新公会堂建設基本方針」(※7)を策定した。施設内容・規模等は答申内容を踏襲し、建設費には約395億円(新庁舎220億円、新公会堂120億円、駐車場55億円)の概算が示され、その財源に同年3月末時点での基金積立額166億円の充当と地方債の活用があげられた。また平成4~5(1992~1993)年度基本設計、5~6(1993~1994)年度実施設計、7年(1995)度着工、10年(1998)度新庁舎完成、13年(2001)度新公会堂完成という10か年にわたるスケジュールも同時に示され、これら基づき、設計者は新庁舎・新公会堂設計者選定委員会での審査を経て、同年11月、株式会社建築研究所アーキビジョンを選定し(※8)、いよいよ具体的な設計段階に入った。
一方、区議会でも翌4(1992)年6月に「庁舎建設調査特別委員会」が設置された。この特別委員会は「新庁舎及び新公会堂の建設について調査研究し、もって区行政の近代化と行政サービスの向上、議会運営の円滑化、優れた文化環境の形成に寄与すること」を設置目的とし、新庁舎・新公会堂建設のほか議会施設に係ることを調査項目としていた。
以降、新庁舎・新公会堂建設は基本計画(平成4[1992]年7月)(※9)、同基本設計(平成6[1994]年3月)(※10)へと進み、議会審議や区民説明会を経て、平成6(1994)年度に入り、当初の予定よりやや遅れていよいよ実施設計が開始された。しかし前述したとおり、区の財政状況は坂道を転げ落ちるように悪化の一途をたどり、そして事もあろうに、財源不足を穴埋めするために庁舎等建設基金の運用、すなわち実質的な取り崩しが始まったのも同じ平成6年度からであった。
基金運用の端緒は、前年の平成5(1993)年度予算編成に遡る。財政調整基金及び用地取得基金より50億円を取り崩してもなお埋まらない財源不足に対応するため、庁舎等建設基金より43億円が初めて運用された。本来、特定の基金目的以外の使用は条例で禁じられているが、平成5年第一回定例会には平成5年度予算案とともに庁舎等建設基金条例の一部改正案が提出され、現金運用の特例として、基金に属する現金を一般会計歳入へ繰り入れることを可能とする規定が盛り込まれた(※11)。この特例規定により、特定目的すなわち「庁舎及びこれに併設する施設の建設」のための基金が、「運用」という名のもとに実質的に一般財源化されていったのである。幸い、平成5年度予算に計上された運用金43億円は結局手を付けることなく済んだが、翌6年(1994)度は当初予算40億円の運用金のうち23億円が実際に執行され、以降、実質的な取崩しが常態化していった。こうして平成5年(1993)度末に約190億円あった庁舎等建設基金は、わずか5年あまりで底をつく状況に陥っていったのである。
こうした区財政の窮迫に伴い、新庁舎・新公会堂建設計画は根底から揺さぶられ、早々に設計変更や工期の大幅な見直しを余儀なくされた。平成7(1995)年1月の庁舎建設調査特別委員会に提示された新庁舎・新公会堂実施設計第一次プラン案(※12)は、わずか半年後の6月には着工延期と建設費の縮減など設計の見直しが同委員会で表明された。その内容は7月5日発行の『広報としま』(※13)で区民にも知らされたが、この時点では9年(1997)度に予定していた着工をいつまで延期するかは未定であった。折しも9年度を初年度とする新基本計画の策定を進めているところであったため、新庁舎の着工年次はその中で決定することとしていた。
そして翌平成8(1996)年1月の庁舎建設調査特別委員会に、基本設計時から面積約6,000㎡、建設費約66億円を縮減した実施設計第二次プラン(※14)が付議された。しかしそれも束の間の同年4 月には、ついに着工を新基本計画の後期にあたる平成14(2002)年~18年(2006)度へ延期すること、また実施設計については平成8年(1996)度で中途完了することを表明するに至ったのである(※15)。
この表明は、名目上は建設工事の延期であったが、庁舎等建設基金からの運用金償還の見通しさえ立たない中で先送りに等しいものだった。そして第二次まで進められていた実施設計も、結局、検討半ばで「お蔵入り」となった。こうして新庁舎・新公会堂建設計画は事実上の「凍結」に追い込まれていったのである。
一方、区議会でも翌4(1992)年6月に「庁舎建設調査特別委員会」が設置された。この特別委員会は「新庁舎及び新公会堂の建設について調査研究し、もって区行政の近代化と行政サービスの向上、議会運営の円滑化、優れた文化環境の形成に寄与すること」を設置目的とし、新庁舎・新公会堂建設のほか議会施設に係ることを調査項目としていた。
以降、新庁舎・新公会堂建設は基本計画(平成4[1992]年7月)(※9)、同基本設計(平成6[1994]年3月)(※10)へと進み、議会審議や区民説明会を経て、平成6(1994)年度に入り、当初の予定よりやや遅れていよいよ実施設計が開始された。しかし前述したとおり、区の財政状況は坂道を転げ落ちるように悪化の一途をたどり、そして事もあろうに、財源不足を穴埋めするために庁舎等建設基金の運用、すなわち実質的な取り崩しが始まったのも同じ平成6年度からであった。
基金運用の端緒は、前年の平成5(1993)年度予算編成に遡る。財政調整基金及び用地取得基金より50億円を取り崩してもなお埋まらない財源不足に対応するため、庁舎等建設基金より43億円が初めて運用された。本来、特定の基金目的以外の使用は条例で禁じられているが、平成5年第一回定例会には平成5年度予算案とともに庁舎等建設基金条例の一部改正案が提出され、現金運用の特例として、基金に属する現金を一般会計歳入へ繰り入れることを可能とする規定が盛り込まれた(※11)。この特例規定により、特定目的すなわち「庁舎及びこれに併設する施設の建設」のための基金が、「運用」という名のもとに実質的に一般財源化されていったのである。幸い、平成5年度予算に計上された運用金43億円は結局手を付けることなく済んだが、翌6年(1994)度は当初予算40億円の運用金のうち23億円が実際に執行され、以降、実質的な取崩しが常態化していった。こうして平成5年(1993)度末に約190億円あった庁舎等建設基金は、わずか5年あまりで底をつく状況に陥っていったのである。
こうした区財政の窮迫に伴い、新庁舎・新公会堂建設計画は根底から揺さぶられ、早々に設計変更や工期の大幅な見直しを余儀なくされた。平成7(1995)年1月の庁舎建設調査特別委員会に提示された新庁舎・新公会堂実施設計第一次プラン案(※12)は、わずか半年後の6月には着工延期と建設費の縮減など設計の見直しが同委員会で表明された。その内容は7月5日発行の『広報としま』(※13)で区民にも知らされたが、この時点では9年(1997)度に予定していた着工をいつまで延期するかは未定であった。折しも9年度を初年度とする新基本計画の策定を進めているところであったため、新庁舎の着工年次はその中で決定することとしていた。
そして翌平成8(1996)年1月の庁舎建設調査特別委員会に、基本設計時から面積約6,000㎡、建設費約66億円を縮減した実施設計第二次プラン(※14)が付議された。しかしそれも束の間の同年4 月には、ついに着工を新基本計画の後期にあたる平成14(2002)年~18年(2006)度へ延期すること、また実施設計については平成8年(1996)度で中途完了することを表明するに至ったのである(※15)。
この表明は、名目上は建設工事の延期であったが、庁舎等建設基金からの運用金償還の見通しさえ立たない中で先送りに等しいものだった。そして第二次まで進められていた実施設計も、結局、検討半ばで「お蔵入り」となった。こうして新庁舎・新公会堂建設計画は事実上の「凍結」に追い込まれていったのである。
建設計画が「凍結」された新庁舎・新公会堂完成予想図(平成6年3月基本設計)
※7 豊島区新庁舎・新公会堂建設基本方針(H040724庁舎建設調査特別委員会資料)
※8 豊島区新庁舎・新公会堂設計者選定の記録(H040724庁舎建設調査特別委員会資料)
※9 東京都豊島区新庁舎・新公会堂建設基本計画(H040922庁舎建設調査特別委員会資料)
※10 東京都豊島区新庁舎・新公会堂建設基本設計(H060406庁舎建設調査特別委員会資料)
※11 東京都豊島区庁舎等建設基金条例の一部を改正する条例について(H050224企画総務委員会資料)
※12 豊島区新庁舎・新公会堂実施設計第一次プラン案、自主アセス等について(H070119庁舎建設調査特別委員会資料)
※14 豊島区新庁舎・新公会堂実施設計第二次プラン案、縮減の状況について(H080116庁舎建設調査特別委員会資料)
※15 新庁舎・新公会堂建設計画の取扱い案(着工の延期)について(H080411庁舎建設調査特別委員会資料)、 新庁舎・新公会堂建設事業計画の経緯について(H080618庁舎建設調査特別委員会資料)