前項では公共施設整備にかかる投資的経費の拡大が区財政を圧迫していった経緯をたどったが、本項ではその中でも施設用地の取得に深くかかわった土地開発公社と、その2年後に設立された街づくり公社に焦点をあて、ふたつの公社が果たした役割を比較していく。
土地開発公社
豊島区土地開発公社(以下「土地開発公社」)はいわゆる地価バブルへの対応措置として、財団法人豊島区開発公社(以下「開発公社」)から移行する形で、昭和62(1987)年4月に設立された。
その前年の昭和61(1986)年11月21日の区議会企画総務委員会において、「昨今の異常な地価の高騰等に伴いまして、さらに用地取得機能の一層強化を図るために、このたび公有地の拡大の推進に関する法律に基づきます、土地開発公社へ移行しようとするもの」であると、その設立趣旨が説明されている。
ここで述べられている「公有地の拡大の推進に関する法律」(昭和47年法律第66号)とは、都市の健全な発展と秩序ある整備を促進するために、都市計画区域内等における一定規模以上の土地譲渡の「届出義務」と地方公共団体への「土地売渡しの申出」により地方公共団体の用地取得を容易にする「先買い制度」を定め、あわせて地方公共団体に代わって土地の先行取得を行う「土地開発公社の創設」について規定した法律である。
従来の開発公社は民法上の私法人に位置づけられ、寄附行為に借入限度額を定めることが義務付けられており、その額は50億円に制限されていた。またその役割は、区が公用または公共用施設等の整備のために必要な土地の取得に協力しその代金の立替え払いを受託していたにすぎず、開発公社自身が用地を取得することは認められていなかった。
その前年の昭和61(1986)年11月21日の区議会企画総務委員会において、「昨今の異常な地価の高騰等に伴いまして、さらに用地取得機能の一層強化を図るために、このたび公有地の拡大の推進に関する法律に基づきます、土地開発公社へ移行しようとするもの」であると、その設立趣旨が説明されている。
ここで述べられている「公有地の拡大の推進に関する法律」(昭和47年法律第66号)とは、都市の健全な発展と秩序ある整備を促進するために、都市計画区域内等における一定規模以上の土地譲渡の「届出義務」と地方公共団体への「土地売渡しの申出」により地方公共団体の用地取得を容易にする「先買い制度」を定め、あわせて地方公共団体に代わって土地の先行取得を行う「土地開発公社の創設」について規定した法律である。
従来の開発公社は民法上の私法人に位置づけられ、寄附行為に借入限度額を定めることが義務付けられており、その額は50億円に制限されていた。またその役割は、区が公用または公共用施設等の整備のために必要な土地の取得に協力しその代金の立替え払いを受託していたにすぎず、開発公社自身が用地を取得することは認められていなかった。
これに対し、「公有地の拡大の推進に関する法律」に基づいて公法人に位置づけられた土地開発公社は、借入限度額を定款に定める必要がなく、予算(区からの貸付資金)に応じて土地の取得から管理・処分までを直接行うことができる上、不動産取得税や固定資産税等の非課税措置も受けられた。さらに区に具体的な整備計画がない段階でも、「先買い制度」により都に届出・申出のあった土地をより柔軟かつ迅速に区が先行取得することが可能だったのである(※1)。
円高不況に対する低金利政策が地価・株価の高騰を招いた、いわゆるバブル景気のただ中にあって、従来の開発公社では変動の激しい土地売買への臨機応変な対応はできず、借入れ限度額の制限からも用地取得に限界を来していたことや、急速な市街地化により活用できる空地がほとんど残されていない豊島区の特殊事情からしても、限られた用地を先行取得できる土地開発公社への移行は理に適ったことであった。
こうして昭和62(1987)年第1回定例会に土地開発公社設立にかかる議案が提出され、区議会の議決を経て、同年4月の設立に至ったのである。この議案審議の際に提出された説明資料には62(1987)年度から3か年の事業計画が付されており、葬祭場、児童館、公園・児童遊園、野外運動施設、図書館がその対象にあげられ、各年度の事業費は初年度となる62(1987)年度に約35億円、翌63(1988)年度に約30億円、64(1989)年度に約40億円が見込まれていた。なかでも区民一人あたりの面積が23区中最小であることから区民の要望が高かった公園・児童遊園用地の取得には、3か年の事業費合計約105億円のうち約74億円が割り当てられていた(※2)。
このようにして土地開発公社が土地を取得した後にそれを区に売却し、区はその代金を複数年かけて償還していくという仕組みができあがったのである。区は当初、公社から買い取った土地代金をそれぞれ7か年で元利償還していく計画を立て、さらに翌63(1988)年には用地取得基金を創設して土地開発公社による用地買収に財源的な裏付けをもたせる仕組みも用意した。そして63(1988)年度の事業予算を当初計画時の30億円から95億円へと一挙に3倍強にまで増額し、以降、土地開発公社という媒体を活用し、区の用地取得は加速していったのである。
下図表1-②は昭和62(1987)年度から平成10(1998)年度までの用地買収費の推移と主な買収用地の一覧である。この表からもわかるように、バブルが崩壊した平成3(1991)年の331億円をピークに、その前後の昭和63年度から平成4(1992)年度の買収費は土地開発公社分も合わせて100億円超と突出しており、数十億円にもなる高額な用地買収もこの時期に集中している。この5年間の買収費の合計は916億円にものぼり、その約半分の433億円が土地開発公社によるものであった。
土地開発公社による10億円超の高額買収物件第1号となる目白庭園用地(公立学校共済組合目白宿泊所「うずら荘」跡地)は、昭和63(1988)年3月で宿泊所が廃業されることになったため、地元町会や婦人団体等の要望を受けて区が跡地買収に乗り出した物件である。同年4月に共済組合に用地取得を正式に申し入れた時点では、買収額は近隣の土地売買価格を参考に当初約50億円と見込んでいたが、わずか8か月後の翌64(1989)年1月の売買契約時には63億円に跳ね上がっていた。だが、それでも地価高騰のあおりを受けて周辺土地売買価格が40~50%も値上がりしていた中で、共済組合側の「処分するなら公共機関、できれば地元に」との意向により民間事業者と競合することなく収まった金額である。
この例に限らず、この間に購入された公園・児童遊園用地のほとんどが土地開発公社を通して取得したものであった。それは数こそ多いものの、公園としての規模を満たさない狭小な児童遊園用地もかなりあり、近隣の土地売買が活発になるなかでさまざまな事情により区に買い取りを要望する例も見られた。また、手狭な土地は児童遊園として整備されたとしても十分に活用されず、後年見直し(資産活用・売却)の対象になっていったものもある。当時は地価高騰に煽られ、一部には必ずしも十分な検討を仕切れないまま、購入したものもあったと思われるが、そうした児童遊園用地を取得するために、平成2~4(1990~1992)年度の3年間だけで約80億円もの巨費が投じられていたのである。
しかし平成3(1991)年にバブルがはじけ、区財政が逼迫していくに従い、土地開発公社への償還は繰り延べされるようになり、いわゆる「隠れ借金」と言われる長期債務が急速に増大していった。その額はやがて200億円を超えるまでに膨れ上がり、まさにバブルのツケが区財政に重くのしかかっていくことになったのである。
円高不況に対する低金利政策が地価・株価の高騰を招いた、いわゆるバブル景気のただ中にあって、従来の開発公社では変動の激しい土地売買への臨機応変な対応はできず、借入れ限度額の制限からも用地取得に限界を来していたことや、急速な市街地化により活用できる空地がほとんど残されていない豊島区の特殊事情からしても、限られた用地を先行取得できる土地開発公社への移行は理に適ったことであった。
こうして昭和62(1987)年第1回定例会に土地開発公社設立にかかる議案が提出され、区議会の議決を経て、同年4月の設立に至ったのである。この議案審議の際に提出された説明資料には62(1987)年度から3か年の事業計画が付されており、葬祭場、児童館、公園・児童遊園、野外運動施設、図書館がその対象にあげられ、各年度の事業費は初年度となる62(1987)年度に約35億円、翌63(1988)年度に約30億円、64(1989)年度に約40億円が見込まれていた。なかでも区民一人あたりの面積が23区中最小であることから区民の要望が高かった公園・児童遊園用地の取得には、3か年の事業費合計約105億円のうち約74億円が割り当てられていた(※2)。
このようにして土地開発公社が土地を取得した後にそれを区に売却し、区はその代金を複数年かけて償還していくという仕組みができあがったのである。区は当初、公社から買い取った土地代金をそれぞれ7か年で元利償還していく計画を立て、さらに翌63(1988)年には用地取得基金を創設して土地開発公社による用地買収に財源的な裏付けをもたせる仕組みも用意した。そして63(1988)年度の事業予算を当初計画時の30億円から95億円へと一挙に3倍強にまで増額し、以降、土地開発公社という媒体を活用し、区の用地取得は加速していったのである。
下図表1-②は昭和62(1987)年度から平成10(1998)年度までの用地買収費の推移と主な買収用地の一覧である。この表からもわかるように、バブルが崩壊した平成3(1991)年の331億円をピークに、その前後の昭和63年度から平成4(1992)年度の買収費は土地開発公社分も合わせて100億円超と突出しており、数十億円にもなる高額な用地買収もこの時期に集中している。この5年間の買収費の合計は916億円にものぼり、その約半分の433億円が土地開発公社によるものであった。
この例に限らず、この間に購入された公園・児童遊園用地のほとんどが土地開発公社を通して取得したものであった。それは数こそ多いものの、公園としての規模を満たさない狭小な児童遊園用地もかなりあり、近隣の土地売買が活発になるなかでさまざまな事情により区に買い取りを要望する例も見られた。また、手狭な土地は児童遊園として整備されたとしても十分に活用されず、後年見直し(資産活用・売却)の対象になっていったものもある。当時は地価高騰に煽られ、一部には必ずしも十分な検討を仕切れないまま、購入したものもあったと思われるが、そうした児童遊園用地を取得するために、平成2~4(1990~1992)年度の3年間だけで約80億円もの巨費が投じられていたのである。
しかし平成3(1991)年にバブルがはじけ、区財政が逼迫していくに従い、土地開発公社への償還は繰り延べされるようになり、いわゆる「隠れ借金」と言われる長期債務が急速に増大していった。その額はやがて200億円を超えるまでに膨れ上がり、まさにバブルのツケが区財政に重くのしかかっていくことになったのである。
屋敷林を「区民の森」として整備した「池袋の森」(左)と「目白の森」(平成9年4月開園)
街づくり公社
一方、平成元(1989)年4月には区が3億円を出捐し、財団法人街づくり公社(理事長:近藤秀夫助役)が設立された。
同年2月の第1回区議会定例会の開会にあたり、加藤区長はその所信表明(※3)の中で、平成元年度予算の編成については、各行政分野のバランスに配意しつつも特に街づくりと高齢社会対策を重点的に取り組む施策に位置づけ、その街づくり施策の目玉となる公社設立の趣旨を次のように述べている。
昭和50年代から頻発していたマンション紛争が60年代に入ってさらに深刻化していたことや、同時期に区が取り組みを開始した木造住宅密集地域での不燃化促進など、区民の協力なしでは解決できない様々な街づくりの課題が増加していた。このため、新たに設立する街づくり公社には街づくり・家づくりに関する区民の身近な相談窓口としての役割はもとより、様々な街づくり事業を進めていく上で区と区民との間に立ち、街づくりを総合的に調整していく役割が期待されたのである。
その設立の背景には、昭和47(1972)年の再開発基本計画策定時から積み残されてきた「副都心機能の強化」と「居住環境の改善」という異なる街づくりの視点をどう調和させていくかという、豊島区の街づくりの、より根本的な課題があったものと考えられる。すなわち都市の過密化をもたらした戦後の人口東京一極集中は、豊島区においては商業地と住宅地の混在という無秩序な形で現れ、その後の市街地再開発や道路整備・拡幅等の街づくり事業に対する住民の合意形成を難しくさせた。それが地価高騰により、特にマイホームを求めるファミリー層の転出が増え、夜間人口が減少に転じる一方、相続時に分割された土地には賃貸アパートやワンルームマンションが建てられ、そこに多くの単身者が住み始め、さらに老朽化した木賃住宅やアパートにはアジア系外国人が大量に流入するという、それまでにはなかった状況が生み出されていった。こうした匿名性の高い複雑な地域社会が形成されていく中で、街づくりに対する区民の理解や課題を共有することはますます難しくなっていたのである。
一方、街づくり公社が設立された平成元(1989)年は、バブル経済による景気拡大とそれに伴う税収増が一層顕著になるなかで、区は「公共施設整備中期計画」を策定し、投資的事業を一気に展開しようとしていた時期にあたる。先に設立された土地開発公社がそうした施設用地の先行取得という役割に特化していたのに対し、街づくり公社には「区や土地開発公社では取得が困難な用地の取得・処分」という、また別の役割が与えられた。この「取得が困難な用地」とは不燃化促進地区等での防災空地や道路拡幅のための用地のことであり、それらの取得や処分は施設用地のような特定の土地所有者との売買契約とは異なり、多数の地権者との地道な、粘り強い交渉調整が必要とされるものだった。そしてそれらの交渉は個々の事情やその背景、また利害や考え方に隔たりがある場合がほとんどで、多くの困難を伴うものであった。
例えば市街地再開発事業における地区内住宅の共同化や不燃化促進地区等における老朽家屋の除却・建替え、道路拡幅事業など、いずれの事業をとっても地権者や従前からの居住者に土地の提供や転居、立退き等を求めることになる。それらはいずれも個々の私権に関わることから、その交渉には時間も労力も費やさざるを得ず、しかも中立的な立場で利害調整を進めることが求められる。公社に課せられた重要な使命は、まさにこの中立的な立場で利害調整を進めることであった。
同年2月の第1回区議会定例会の開会にあたり、加藤区長はその所信表明(※3)の中で、平成元年度予算の編成については、各行政分野のバランスに配意しつつも特に街づくりと高齢社会対策を重点的に取り組む施策に位置づけ、その街づくり施策の目玉となる公社設立の趣旨を次のように述べている。
-21世紀に向けて、真の豊かさと潤いのある街を築くためには、総合的且つ長期的な視野のもとに、街づくりの一層の進展を図り、街づくりの一方の担い手である区民に対する支援をこれまで以上に充実強化する必要があります。これらの認識に立って、家づくり、街づくりについての普及啓発をはじめ、調査・研究、さらには具体的な相談・助言・援助などを行い、また、区や土地開発公社では取得が困難な用地の取得・処分及び区から受託する街づくりに必要な施設の管理運営を行うなど、区が進める街づくりを補完するとともに、住民主体の街づくりを支援する、公平で信頼性の高い新たな組織として、財団法人「豊島区街づくり公社」を設立いたしたいと考えております。
この区長のあいさつには、街づくりの担い手は区と区民であるという基本認識と、住民主体の街づくりをより一層進めて行くためには区民への支援強化が極めて重要であるとの考えが示された。昭和50年代から頻発していたマンション紛争が60年代に入ってさらに深刻化していたことや、同時期に区が取り組みを開始した木造住宅密集地域での不燃化促進など、区民の協力なしでは解決できない様々な街づくりの課題が増加していた。このため、新たに設立する街づくり公社には街づくり・家づくりに関する区民の身近な相談窓口としての役割はもとより、様々な街づくり事業を進めていく上で区と区民との間に立ち、街づくりを総合的に調整していく役割が期待されたのである。
その設立の背景には、昭和47(1972)年の再開発基本計画策定時から積み残されてきた「副都心機能の強化」と「居住環境の改善」という異なる街づくりの視点をどう調和させていくかという、豊島区の街づくりの、より根本的な課題があったものと考えられる。すなわち都市の過密化をもたらした戦後の人口東京一極集中は、豊島区においては商業地と住宅地の混在という無秩序な形で現れ、その後の市街地再開発や道路整備・拡幅等の街づくり事業に対する住民の合意形成を難しくさせた。それが地価高騰により、特にマイホームを求めるファミリー層の転出が増え、夜間人口が減少に転じる一方、相続時に分割された土地には賃貸アパートやワンルームマンションが建てられ、そこに多くの単身者が住み始め、さらに老朽化した木賃住宅やアパートにはアジア系外国人が大量に流入するという、それまでにはなかった状況が生み出されていった。こうした匿名性の高い複雑な地域社会が形成されていく中で、街づくりに対する区民の理解や課題を共有することはますます難しくなっていたのである。
一方、街づくり公社が設立された平成元(1989)年は、バブル経済による景気拡大とそれに伴う税収増が一層顕著になるなかで、区は「公共施設整備中期計画」を策定し、投資的事業を一気に展開しようとしていた時期にあたる。先に設立された土地開発公社がそうした施設用地の先行取得という役割に特化していたのに対し、街づくり公社には「区や土地開発公社では取得が困難な用地の取得・処分」という、また別の役割が与えられた。この「取得が困難な用地」とは不燃化促進地区等での防災空地や道路拡幅のための用地のことであり、それらの取得や処分は施設用地のような特定の土地所有者との売買契約とは異なり、多数の地権者との地道な、粘り強い交渉調整が必要とされるものだった。そしてそれらの交渉は個々の事情やその背景、また利害や考え方に隔たりがある場合がほとんどで、多くの困難を伴うものであった。
例えば市街地再開発事業における地区内住宅の共同化や不燃化促進地区等における老朽家屋の除却・建替え、道路拡幅事業など、いずれの事業をとっても地権者や従前からの居住者に土地の提供や転居、立退き等を求めることになる。それらはいずれも個々の私権に関わることから、その交渉には時間も労力も費やさざるを得ず、しかも中立的な立場で利害調整を進めることが求められる。公社に課せられた重要な使命は、まさにこの中立的な立場で利害調整を進めることであった。
そのことは平成元(1989)年度の「主要な施策の成果報告」(※4)に、「住民主体の街づくり事業が進展するとともに、各事業地区においてより密接な住民対応、権利者間の調整、各権利者の個別事情への相談などのウエイトが増大してきた。これら行政において対応が困難な問題について公共性と中立的主体性を有する信頼性の高い機関として、また、予算、財源的制約に縛られず機能的、弾力的に対応できる組織として、財団法人豊島区街づくり公社を設立した」と記されていることからも明らかであろう。街づくり公社を民法に基づく私法人・財団法人に位置づけたのも、この「公共性と中立的主体性を有する信頼性の高い機関」とするためだったのである。
実際に街づくり公社が担うことになった事業について、以下公社設立を周知する広報紙記事から要約する(※5)。
このうち①④及び⑤はこれまで述べてきた木造住宅密集地域での不燃化促進やその中から派生した東池袋4丁目地区の市街地再開発など特定地区における街づくり事業にかかるものであり、公社が担う事業の主軸と言える。そのほかにもモデル商店街事業や歴史と文化と公園を訪ねる散歩道づくり、国際化に対応した街づくり、福祉の街づくり、都市景観創造のための街づくりなど様々な事業があげられており、そこからは街づくりを単にハード面からとらえるだけではなく、住みやすく暮らしやすい地域社会の形成というより総合的な施策としてとらえていたことが窺える。さらに住民意向調査や街づくりの情報発信・情報提供などの普及啓発事業も含まれており、街づくりに対する幅広い理解と将来を見据えた街づくりへの参加を促す取り組みもまた街づくり公社に求められたのである。
こうして総合的な街づくり施策を担う新たな組織としての期待を背負い、街づくり公社は平成の幕開けとともに事業を開始した。バブルによる地価高騰とその崩壊後の長期にわたる平成不況により多くの都市開発事業が停滞を余儀なくされていく中、時代に翻弄されながらも実際の街づくりの現場に入り、地域住民との話し合いを重ねながら各地区の街づくりについて住民の合意形成を図っていくという、極めて困難な課題に取り組んでいったのである。
区から街づくり公社に委託された事業の実施状況について平成2(1990)年度以降の「主要な施策の成果報告」からその動きをたどると、同4(1992)年度には市街地再開発が抜け落ち、それ以後は都市防災不燃化促進事業、居住環境総合整備事業に平成7(1995)年度から開始された防災生活圏促進事業を加えた防災街づくり事業が中心になっていく。これらの防災街づくりは、市街地再開発のようにその地区エリアの街並みを一気に変えてしまうのとは違い、木造住宅の建替えにしても狭あい道路の拡幅にしても個々の地権者・住民と粘り強い交渉を重ね、何年もかけて少しずつ改善を図っていく息の長い、「修復型まちづくり」とも言われる事業である。
実際に街づくり公社が担うことになった事業について、以下公社設立を周知する広報紙記事から要約する(※5)。
- ① 街づくりの促進のための相談、助言および技術的援助
市街地再開発、不燃化促進地区(雑司が谷墓地周辺地区、立教大学周辺地区)、東通り拡幅事業、居住環境総合整備事業地区(東池袋4・5丁目地区、染井霊園周辺地区)、歩道のカラー舗装化、モデル商店街事業、池袋駅西口地区の街づくり等 - ② 街づくり促進のための調査、研究および成果の普及
歴史と文化と公園を訪ねる散歩道づくり、民間再開発気運の高い区域での住民意向調査等 - ③ 街づくりの促進のための普及活動
国際化に対応した街づくり、福祉の街づくり、都市景観創造のための街づくり等の新たな視点に立った街づくりの普及。街づくりの情報発信・情報提供(街づくり広報、講演会、街づくりサロン、専門家による街づくり・家づくり出張相談) - ④ 街づくりの促進のための用地の取得、管理および処分
市街地再開発、街づくり事業地区 - ⑤ 区から受託する施設の管理運営
街づくり事業地区内の街づくり施設等
こうして総合的な街づくり施策を担う新たな組織としての期待を背負い、街づくり公社は平成の幕開けとともに事業を開始した。バブルによる地価高騰とその崩壊後の長期にわたる平成不況により多くの都市開発事業が停滞を余儀なくされていく中、時代に翻弄されながらも実際の街づくりの現場に入り、地域住民との話し合いを重ねながら各地区の街づくりについて住民の合意形成を図っていくという、極めて困難な課題に取り組んでいったのである。
区から街づくり公社に委託された事業の実施状況について平成2(1990)年度以降の「主要な施策の成果報告」からその動きをたどると、同4(1992)年度には市街地再開発が抜け落ち、それ以後は都市防災不燃化促進事業、居住環境総合整備事業に平成7(1995)年度から開始された防災生活圏促進事業を加えた防災街づくり事業が中心になっていく。これらの防災街づくりは、市街地再開発のようにその地区エリアの街並みを一気に変えてしまうのとは違い、木造住宅の建替えにしても狭あい道路の拡幅にしても個々の地権者・住民と粘り強い交渉を重ね、何年もかけて少しずつ改善を図っていく息の長い、「修復型まちづくり」とも言われる事業である。
街づくり公社が長く取り組んだ地区の一つ、東池袋4・5丁目地区の経過をみると、事業の開始は豊島区で初の「居住環境総合整備事業地区」に指定された昭和58(1983)年に遡る。少しずつ話し合いが進み、住民参加による辻広場の整備等(※6)のユニークな取り組みも見られたが、その後、当初予定の10年の事業期間を経てもめざましい進捗が見られないまま、平成5(1993)年にはさらに10年の事業延伸がなされた(※7)。
しかしその間、平成7(1995)年1月に阪神淡路大震災が発生し、密集市街地の早期解消は防災上においても喫緊の課題となったため、都は同8(1996)年3月に「防災都市づくり推進計画」(計画期間20年)を策定し、翌9(1997)年3月には特に緊急性の高い地区を対象とする前期10年の整備計画をまとめた(※8)。豊島区では東池袋地区が都内11重点地区のひとつに指定され、従来の「居住環境総合整備事業」に加え、新たに「緊急木造密集地域防災対策事業」の適用も受けることになった(※9)。
一方、国においても「密集市街地整備法」を同9(1997)年11月8日に施行し、特に一体的・総合的に市街地の再開発を促進すべき防災街区を「防災再開発促進地区」に指定、再開発事業として街区整備を加速させる制度を新設した(※10)。東池袋4・5丁目地区もこの「防災再開発促進地区」の適用を受け、都が施行者となって再開発事業を開始することになったのである。
こうした国や都の動きに連動し、平成8(1996)年11月27日には地域協議の場となる「東池袋4・5丁目地区まちづくり連絡会」が新たに設立された(※11)。連絡会は翌9(1997)年9月に中間提案「明日の東池袋に向かって」を作成し、地区内全戸に配布するほか、説明会や街区別の懇談会を重ねて意見集約を図り、10(1998)年2月に地域の意見を踏まえて「まちづくり計画」を作成するよう区長に意見書を提出した。これを受け、同年9月に都区合同による「まちづくり(再開発)計画素案」(※12)が発表され、事業は大きく動き出すかに見えた。
だが、平成不況の長期化はここにも影を落とし、財政難にあえぐ都は平成11(1999)年7月に「財政再建推進プラン」を発表し、突如、新規事業を平成15年度まで凍結する方針を明らかにしたのである。翌12(2000)年度の事業着手を目前に都が撤退し、梯子を外された格好となった「まちづくり連絡会」は不信感を募らせ、ついに解散する事態に陥った。
以降、しばらく停滞を余儀なくされた同地区のまちづくりが再び動き出すのは、5年後の「補助81号線沿道まちづくり事業」(※13)がスタートする平成16(2004)年となる。この事業は、地区内を貫通する都市計画道路補助81号線を都が整備するのに合わせ、区が沿道の不燃化や街並み整備を進めていくという都区協働の取り組みで、道路整備を沿道整備の誘発剤にしていこうという「一体開発誘発型街路事業」と呼ばれるものである。
これを機に同年11月、「東池袋地区補助81号線沿道まちづくり協議会」が改めて設立され、翌17(2005)年11月の 補助 81 号線事業認可に合わせ、12月に「東池袋地区補助81号線沿道まちづくりルール」(提言書)が出された(※14)。これを受けて20(2008)年6月に「東池袋四・五丁目地区地区計画」が都市計画決定され(※15)、さらに25(2013)年4月には「木密地域不燃化10年プロジェクト」の先行実施地区の指定も受け、現在もなお地区内の住宅の共同化や沿道街区の再開発事業が進められている(※16)。
事業開始から40年の歳月を数えるこの東池袋4・5丁目地区に限らず、防災街づくり事業の各実施地区では地域住民の合意形成を図る場として街づくり協議会が立ち上げられ、事業進展の核として大きな役割を果たした。その協議会の組織化や運営を支援するとともに、街づくりニュースの発行や街づくりイベントの開催などを通じて、地域住民に協議会での検討状況を周知していく役割を担ったのが街づくり公社であった。しかし区財政が次第に逼迫していくにつれ、「財政健全化計画平成14年度実施計画」に基づき、公社等外郭団体(財政支援団体)への補助見直しの一環として街づくり活動支援事業(区補助分)は区の直接執行事業に切り替わり、それらは新設された住環境整備課の所管となるとともに公社に派遣されていた区職員も引き上げられた。
その一方、区から受託する施設管理事業は、街づくり協議会の活動拠点となるまちづくりセンターや広場(辻広場、コミュニティ広場等)、街づくり事業のために取得した整備用地など、事業地区内の関連施設が対象であったものが、平成9(1997)年度以降は区営・区立住宅の管理や保育園・児童館・ことぶきの家等の維持管理に伴う修繕、としまテレビ開局(同年)に伴う電波障害対策など、次第に本来の街づくり事業とは直接関わらない事業が増え、街づくり公社に当初求められていた役割は変質していった。
さらに「行財政改革プラン2004」においては、指定管理者制度の導入に伴い、外郭団体への人件費一括補助が廃止され、自立的な経営強化、組織の効率化を図ることを目的に、区の文化事業を担うコミュニティ振興公社と街づくり公社との統合が決定された(※17)。そして平成17(2005)年4月、新たに「としま未来文化財団」が設立されるに至り、街づくり公社としての16年間の歴史は幕を閉じたのである。
しかしその間、平成7(1995)年1月に阪神淡路大震災が発生し、密集市街地の早期解消は防災上においても喫緊の課題となったため、都は同8(1996)年3月に「防災都市づくり推進計画」(計画期間20年)を策定し、翌9(1997)年3月には特に緊急性の高い地区を対象とする前期10年の整備計画をまとめた(※8)。豊島区では東池袋地区が都内11重点地区のひとつに指定され、従来の「居住環境総合整備事業」に加え、新たに「緊急木造密集地域防災対策事業」の適用も受けることになった(※9)。
一方、国においても「密集市街地整備法」を同9(1997)年11月8日に施行し、特に一体的・総合的に市街地の再開発を促進すべき防災街区を「防災再開発促進地区」に指定、再開発事業として街区整備を加速させる制度を新設した(※10)。東池袋4・5丁目地区もこの「防災再開発促進地区」の適用を受け、都が施行者となって再開発事業を開始することになったのである。
こうした国や都の動きに連動し、平成8(1996)年11月27日には地域協議の場となる「東池袋4・5丁目地区まちづくり連絡会」が新たに設立された(※11)。連絡会は翌9(1997)年9月に中間提案「明日の東池袋に向かって」を作成し、地区内全戸に配布するほか、説明会や街区別の懇談会を重ねて意見集約を図り、10(1998)年2月に地域の意見を踏まえて「まちづくり計画」を作成するよう区長に意見書を提出した。これを受け、同年9月に都区合同による「まちづくり(再開発)計画素案」(※12)が発表され、事業は大きく動き出すかに見えた。
だが、平成不況の長期化はここにも影を落とし、財政難にあえぐ都は平成11(1999)年7月に「財政再建推進プラン」を発表し、突如、新規事業を平成15年度まで凍結する方針を明らかにしたのである。翌12(2000)年度の事業着手を目前に都が撤退し、梯子を外された格好となった「まちづくり連絡会」は不信感を募らせ、ついに解散する事態に陥った。
以降、しばらく停滞を余儀なくされた同地区のまちづくりが再び動き出すのは、5年後の「補助81号線沿道まちづくり事業」(※13)がスタートする平成16(2004)年となる。この事業は、地区内を貫通する都市計画道路補助81号線を都が整備するのに合わせ、区が沿道の不燃化や街並み整備を進めていくという都区協働の取り組みで、道路整備を沿道整備の誘発剤にしていこうという「一体開発誘発型街路事業」と呼ばれるものである。
これを機に同年11月、「東池袋地区補助81号線沿道まちづくり協議会」が改めて設立され、翌17(2005)年11月の 補助 81 号線事業認可に合わせ、12月に「東池袋地区補助81号線沿道まちづくりルール」(提言書)が出された(※14)。これを受けて20(2008)年6月に「東池袋四・五丁目地区地区計画」が都市計画決定され(※15)、さらに25(2013)年4月には「木密地域不燃化10年プロジェクト」の先行実施地区の指定も受け、現在もなお地区内の住宅の共同化や沿道街区の再開発事業が進められている(※16)。
事業開始から40年の歳月を数えるこの東池袋4・5丁目地区に限らず、防災街づくり事業の各実施地区では地域住民の合意形成を図る場として街づくり協議会が立ち上げられ、事業進展の核として大きな役割を果たした。その協議会の組織化や運営を支援するとともに、街づくりニュースの発行や街づくりイベントの開催などを通じて、地域住民に協議会での検討状況を周知していく役割を担ったのが街づくり公社であった。しかし区財政が次第に逼迫していくにつれ、「財政健全化計画平成14年度実施計画」に基づき、公社等外郭団体(財政支援団体)への補助見直しの一環として街づくり活動支援事業(区補助分)は区の直接執行事業に切り替わり、それらは新設された住環境整備課の所管となるとともに公社に派遣されていた区職員も引き上げられた。
その一方、区から受託する施設管理事業は、街づくり協議会の活動拠点となるまちづくりセンターや広場(辻広場、コミュニティ広場等)、街づくり事業のために取得した整備用地など、事業地区内の関連施設が対象であったものが、平成9(1997)年度以降は区営・区立住宅の管理や保育園・児童館・ことぶきの家等の維持管理に伴う修繕、としまテレビ開局(同年)に伴う電波障害対策など、次第に本来の街づくり事業とは直接関わらない事業が増え、街づくり公社に当初求められていた役割は変質していった。
さらに「行財政改革プラン2004」においては、指定管理者制度の導入に伴い、外郭団体への人件費一括補助が廃止され、自立的な経営強化、組織の効率化を図ることを目的に、区の文化事業を担うコミュニティ振興公社と街づくり公社との統合が決定された(※17)。そして平成17(2005)年4月、新たに「としま未来文化財団」が設立されるに至り、街づくり公社としての16年間の歴史は幕を閉じたのである。
東池袋4・5丁目地区の「辻広場」(左)と「防災まちづくり用地」
※6
「豊島区史通史編四」第4 章第5節第4項(642p)、
「同資料編六」第4章第4節第2項(708p)
※7 東池袋四・五丁目地区市街地住宅密集地区再生事業期間の延伸について(H050611副都心開発調査特別委員会資料)
※8 防災都市づくり推進計画〈整備計画〉について(H090415副都心開発調査特別委員会資料)
※9 防災都市づくり推進計画関連事業(H090515副都心開発調査特別委員会資料)
※10 「密集市街地における防災街区の整備の促進に関する法律」について(H100114副都心開発調査特別委員会資料)
※11 H0881127プレスリリース
※12 東池袋4・5丁目地区まちづくり計画素案(たたき台)について(H100916副都心開発調査特別委員会資料)
※13 東池袋地区「補助81号線街路整備と沿道まちづくり」について(H160915副都心開発調査特別委員会資料)
※14 東池袋地区補助81号線整備と沿道まちづくりの進捗について(H171215副都心開発調査特別委員会資料)
「街づくり」から「まちづくり」へ
その事業の一部を新財団が吸収する形で街づくり公社は廃止となったが、公社が携わった「街づくり協議会」方式による防災街づくり事業は街づくりへの区民参加を広げ、事業終了後も活動を継続している協議会が多い。
都市防災不燃化促進事業の導入をきっかけに、昭和60(1985)年に発足した立教大学地区不燃化まちづくり協議会(後に「立教大学地区まちづくり協議会」に改称)もそのひとつである。同協議会は、平成8(1996)年事業終了後も活動を続け、平成13(2001)年には「キャンバス通り(補助172号線)沿道まちづくり計画」を区長に提言している。この計画は立教大学南側に位置する都市計画道路補助 172 号線の事業化に伴い、地区内の街並み保全の必要性を感じた同協議会が、反対派住民も含めて組織を再編し、広く地域住民の参加を得ながらまとめたものであり、地区計画の土台となるまちづくりの基本ルールが盛り込まれた。この提言をもとに、平成15(2003)年、区は立教大学南地区地区計画を都市計画決定しており、それは区としては初めての地元提言に基づく地区計画となったのである(※18)。
こうした住民参加の街づくりは、全国各地の密集市街地における「修復型街づくり」を原点として始まったと言われている。豊島区においても防災街づくり事業に端を発し、区の呼びかけにより誕生した「街づくり協議会」が原型となり、その後も区内各地域で区民が主体となって活動する「まちづくり協議会」へとつながっていったと言えるだろう。
下図表1-③は当時街づくり公社が携わっていた街づくり事業と街づくり協議会(事業終了後の活動含む)の一覧である。前述したように、修復型の防災街づくり事業はその事業期間が十年、数十年の長期にわたる。その間、地域の課題を共有し、あるべき地域の姿について議論を重ね、その成果を区に提言するというスタイルは各地区の「街づくり協議会」に共通する活動形態であった。また町会推薦に公募区民を加えた構成や、発足後も広く協議会への参加を呼びかけるなど、開かれた組織づくりをめざしていたことも共通している。区民の主体的な参加を原則として、従来の「要望型」から「提案型」への転換を図ったところに「街づくり協議会」の存在意義があったと言える。それは、国や自治体が先導する公共インフラ等の整備を中心とするハードの「街づくり」の枠組みを超え、住民相互の関わり合いの中で、自分たちが日々住み暮らす「まち」をより住みやすく、暮らしやすくしていくための「まちづくり(地域づくり)」活動へと発展していったのである。
都市防災不燃化促進事業の導入をきっかけに、昭和60(1985)年に発足した立教大学地区不燃化まちづくり協議会(後に「立教大学地区まちづくり協議会」に改称)もそのひとつである。同協議会は、平成8(1996)年事業終了後も活動を続け、平成13(2001)年には「キャンバス通り(補助172号線)沿道まちづくり計画」を区長に提言している。この計画は立教大学南側に位置する都市計画道路補助 172 号線の事業化に伴い、地区内の街並み保全の必要性を感じた同協議会が、反対派住民も含めて組織を再編し、広く地域住民の参加を得ながらまとめたものであり、地区計画の土台となるまちづくりの基本ルールが盛り込まれた。この提言をもとに、平成15(2003)年、区は立教大学南地区地区計画を都市計画決定しており、それは区としては初めての地元提言に基づく地区計画となったのである(※18)。
こうした住民参加の街づくりは、全国各地の密集市街地における「修復型街づくり」を原点として始まったと言われている。豊島区においても防災街づくり事業に端を発し、区の呼びかけにより誕生した「街づくり協議会」が原型となり、その後も区内各地域で区民が主体となって活動する「まちづくり協議会」へとつながっていったと言えるだろう。
下図表1-③は当時街づくり公社が携わっていた街づくり事業と街づくり協議会(事業終了後の活動含む)の一覧である。前述したように、修復型の防災街づくり事業はその事業期間が十年、数十年の長期にわたる。その間、地域の課題を共有し、あるべき地域の姿について議論を重ね、その成果を区に提言するというスタイルは各地区の「街づくり協議会」に共通する活動形態であった。また町会推薦に公募区民を加えた構成や、発足後も広く協議会への参加を呼びかけるなど、開かれた組織づくりをめざしていたことも共通している。区民の主体的な参加を原則として、従来の「要望型」から「提案型」への転換を図ったところに「街づくり協議会」の存在意義があったと言える。それは、国や自治体が先導する公共インフラ等の整備を中心とするハードの「街づくり」の枠組みを超え、住民相互の関わり合いの中で、自分たちが日々住み暮らす「まち」をより住みやすく、暮らしやすくしていくための「まちづくり(地域づくり)」活動へと発展していったのである。
以上、当初は行政主導で組織化された街づくり協議会が、長く活動を継続していく中で主体的にまちづくりを担う住民組織へと進化していった経緯をたどったが、この項を締めくくるにあたり、まちづくりへの区民参加を広げるために街づくり公社が実施した「街づくり大学」と「まちづくりバンク」のふたつの事業について記しておきたい。
平成2(1990)年9月に開校された「街づくり大学」(※19)は、講義(公開講座)と少人数によるゼミの2部構成で数か月にわたり街づくりについて学び、その成果を修了時に街づくり提案として発表するという形式で、多世代が参加しやすいよう平日夜間や休日に開催され、参加資格は「街を愛する気持ちだけ」というユニークな講座であった。同年開館した東京芸術劇場の設計者である芦原義信氏を学長に迎え、各方面で活躍する多彩な講師陣を揃えた講座は人気を集め、大学生から90歳を超える高齢者まで幅広い層が参加し、平成13(2001)年まで毎年度開催された。また、講座修了生のOB会として誕生した「街づくりみみずく倶楽部」は「街づくりフェア」などの公社事業に協力するほか、それぞれのメンバーが住む地域で市民目線のまちづくりを実践していった(※20)。
一方、「まちづくりバンク」は、区民の様々なまちづくり活動を支援する仕組みとして構想された。平成14(2002)年2月に区民・学識経験者・行政関係者から構成される「まちづくりバンク検討委員会(座長:小松善雄立教大学経済学部教授)」が発足し、まちづくりバンクの機能・構成・運用などについて検討を重ね、その成果を構想案としてまとめ、16(2004)年3月に区長に提言した。これを受け、街づくり公社の最終年度となる平成16(2004)年度から実験アクションとしての活動助成事業がスタートしたのである(※21)。
当初はチャレンジ部門・ステップアップ部門・プロポーザル部門の3部門に分かれていた応募枠は、後に部門構成に若干の変更は見られるものの、まちづくりの初心者から専門的なグループまでそれぞれの知識や経験に応じた提案を募集するもので、基本的には幅広い活動を支援する狙いがあった。応募グループの活動内容も、狭義の街づくり活動に限定されず、まちの魅力を発見・発信するためのイベントから街中の落書き消去活動まで、環境・福祉・子育て・文化など多岐にわたっていた。また、公開プレゼンテーション審査を経て助成対象となる認定を受けたグループには、活動費の助成のほか人的支援や情報支援も提供され、交流会や成果発表会などのフォローアップの機会を通じてグループ間のネットワーク化も図られた。
この「まちづくりバンク活動事業」は公社からとしま未来財団へ引き継がれ平成24(2012)年度まで実施され、この間に助成を受けたグループの数は100以上にのぼると思われる。それらの中にはまちづくりバンクの助成をきっかけに生まれたグループや、その後も活動を継続してNPO法人化したグループ、さらにグループ相互の交流が新たな活動へとつながっていった例も見られる。
以上述べてきたように、区の街づくり事業に付随して地区単位に組織化された「街づくり協議会」も、区民が自主的にまちづくりに関わるきっかけの場であった「街づくり大学」や「まちづくりバンク」も、まちづくりへの区民参加の種を蒔き、まちづくり活動のすそ野を広げていく役割を果たしたと言えるだろう。
平成2(1990)年9月に開校された「街づくり大学」(※19)は、講義(公開講座)と少人数によるゼミの2部構成で数か月にわたり街づくりについて学び、その成果を修了時に街づくり提案として発表するという形式で、多世代が参加しやすいよう平日夜間や休日に開催され、参加資格は「街を愛する気持ちだけ」というユニークな講座であった。同年開館した東京芸術劇場の設計者である芦原義信氏を学長に迎え、各方面で活躍する多彩な講師陣を揃えた講座は人気を集め、大学生から90歳を超える高齢者まで幅広い層が参加し、平成13(2001)年まで毎年度開催された。また、講座修了生のOB会として誕生した「街づくりみみずく倶楽部」は「街づくりフェア」などの公社事業に協力するほか、それぞれのメンバーが住む地域で市民目線のまちづくりを実践していった(※20)。
一方、「まちづくりバンク」は、区民の様々なまちづくり活動を支援する仕組みとして構想された。平成14(2002)年2月に区民・学識経験者・行政関係者から構成される「まちづくりバンク検討委員会(座長:小松善雄立教大学経済学部教授)」が発足し、まちづくりバンクの機能・構成・運用などについて検討を重ね、その成果を構想案としてまとめ、16(2004)年3月に区長に提言した。これを受け、街づくり公社の最終年度となる平成16(2004)年度から実験アクションとしての活動助成事業がスタートしたのである(※21)。
当初はチャレンジ部門・ステップアップ部門・プロポーザル部門の3部門に分かれていた応募枠は、後に部門構成に若干の変更は見られるものの、まちづくりの初心者から専門的なグループまでそれぞれの知識や経験に応じた提案を募集するもので、基本的には幅広い活動を支援する狙いがあった。応募グループの活動内容も、狭義の街づくり活動に限定されず、まちの魅力を発見・発信するためのイベントから街中の落書き消去活動まで、環境・福祉・子育て・文化など多岐にわたっていた。また、公開プレゼンテーション審査を経て助成対象となる認定を受けたグループには、活動費の助成のほか人的支援や情報支援も提供され、交流会や成果発表会などのフォローアップの機会を通じてグループ間のネットワーク化も図られた。
この「まちづくりバンク活動事業」は公社からとしま未来財団へ引き継がれ平成24(2012)年度まで実施され、この間に助成を受けたグループの数は100以上にのぼると思われる。それらの中にはまちづくりバンクの助成をきっかけに生まれたグループや、その後も活動を継続してNPO法人化したグループ、さらにグループ相互の交流が新たな活動へとつながっていった例も見られる。
以上述べてきたように、区の街づくり事業に付随して地区単位に組織化された「街づくり協議会」も、区民が自主的にまちづくりに関わるきっかけの場であった「街づくり大学」や「まちづくりバンク」も、まちづくりへの区民参加の種を蒔き、まちづくり活動のすそ野を広げていく役割を果たしたと言えるだろう。