東池袋四丁目地区市街地再開発事業/エアライズタワー(左)とライズアリーナビル(平成19年1月竣工)東池袋四丁目地区市街地再開発事業/エアライズタワー(左)とライズアリーナビル(平成19年1月竣工)

 前項では街づくり公社設立の背景に、都市機能を高めるための開発事業を推進していく一方、そこに日々暮らす人々の生活環境の保全・改善という相反するベクトルをどう調和させていくかという、街づくりの根本的な課題が内在していたことに触れた。
 そこで本項では高度経済成長に支えられた昭和が終焉し、人々の価値観やライフスタイルが多様化するに従い、都市の抱える矛盾がより顕在化していく中で街づくりがどのように進展していったのか、区が直面したいくつかの事例をたどる。

東池袋四丁目地区市街地再開発事業

 東池袋四丁目地区市街地再開発事業は区内初の法定再開発事業として平成5(1993)年に都市計画決定され、19(2007)年に竣工した第一種市街地再開発事業(権利変換方式)である。「土地神話」に浮き立つバブル景気只中の昭和63(1988)年に地権者らが立ち上げた再開発協議会からスタートし、バブル経済の崩壊とその後の平成不況の荒波をまともに被り、事業完了まで実に20年の歳月を要した難事業だった。
 前項でも触れたとおり、サンシャインシティと首都高速5号線に挟まれた東池袋4丁目地区は、隣接する5丁目地区とともに昭和58(1983)年に他地区に先駆け「居住環境総合整備事業」が開始された木造住宅密集地域である。整備地区指定後の早い段階から (株)フジタが地域住民に再開発(共同化)への誘導を働きかけていたが、企業のそうした動きに戸惑う地権者らが区に相談を持ち掛け、それをきっかけに勉強会が始まった。昭和63(1988)年7月27日、後の再開発組合の母体となる「東池袋四丁目再開発協議会」が発足し、(株)フジタも協議会事務局として参加することとなった。そして翌平成元(1989)年10月1日、地権者らが中心となって「東池袋四丁目地区市街地再開発準備組合」を設立し、法定再開発事業の具体化に向けた第一歩を踏み出したのである。
 こうした動きを受け、民間主導の再開発事業に対して指導的な立場にある区も副都心の新たな軸となるこの地区の街づくりの方向性を探るため、昭和63(1988)年に街づくり基礎調査を、翌平成元(1989)年には住民意向調査を実施した。また平成3(1991)年5月に策定した「副都心整備基本計画」(※1)の中で、当時の建設省補助事業であった「都市活力再生拠点事業」を適用し「東池袋4丁目地区の街づくり」をリーディングプロジェクトのひとつに位置づけた。これらの調査や計画に基づき、区は平成4(1992)年2月に東池袋4丁目エリア全体の街づくりの基本指針となる「東池袋4丁目地区街区整備計画(地区再生計画)」を策定し、東池袋四丁目地区市街地再開発事業を副都心の機能強化のための公共的事業に位置づけたのである。
 区の整備方針が定まったことにより具体的な事業設計が進み、平成5(1993)年8月17日には、再開発地区計画・市街地再開発事業・高度利用地区・補助175号線変更の4件からなる東池袋再開発関連都市計画が決定された。その計画内容は、敷地面積9,400㎡、建築面積5,300㎡、延べ床面積93,100㎡、地上33階地下3階の業務棟と地上15階地下3階の住宅棟(120戸)等からなる高層オフィスビルを中心とする構成であった(※2)。
 この都市計画決定を受け、平成6(1994)年、準備組合は事業計画を付して再開発組合設立を申請し、区もこれを積極的に支援した(※3)。そして同年11月29日に都知事の認可を受け、翌30日の設立総会をもって正式に「東池袋四丁目地区市街地再開発組合」(地権者数:所有権者66名、借地権者49名)が発足したのである(※4)。ちなみに再開発組合による事業計画では、再開発建物の規模等について、延べ床面積79,700㎡、業務棟地上31階、住宅棟同16階と若干の修正は見られるが、オフィスビルをメインとする構成に変更はなく、事業費約719億円、平成11(1999)年度末の完成をめざすとされていた。
 こうして昭和63(1988)年の協議会発足から6年の歳月を経て、いよいよ法定再開発事業としての船出を果たしたものの、翌平成7(1995)年の年明けとともにその先行きには暗雲が漂い始めた。
 バブル経済崩壊後の長引く不況に加え、同年1月に起きた阪神淡路大震災により社会経済状況の不安定感が増し、保留床の大口購入予定者であった「社会保険診療報酬支払基金」(以下「支払基金」)が慎重な姿勢を見せ始め、購入の確約が取れなくなったのである。さらに、当該事業地の地価も保留床売買価格の基礎となる従前資産評価額を算出した平成4(1992)年11月時点からわずか3年の間に65%も下落し、そのため評価額の減額を含め事業計画を大幅に見直しせざるを得ない状況に陥ったのである(※5)。しかし、それでもなお当初のスケジュール通りに進めたい組合員側と、協議会発足当初から事業に協力し、参加組合員にまでなっていたフジタとの間で見解が分かれ、ついには双方の信頼関係が崩れるに至り、フジタは事業から撤退した。そのフジタに代わり翌8(1996)年2月、大成建設が新たな事業協力者となり、以後事業の完成まで組合員と苦楽を共にすることになった。一方、組合内では7(1995)年10月に事業計画を見直し(※6)、従前資産評価額を約30%減額して支払基金に替わる新たな保留床購入者の開拓を図ったが、いずれも交渉成立には至らなかった。
 保留床問題に進展が見られないまま組合設立から2年の歳月が経過し、事業の先行きに不安を募らせた再開発組合は、平成8(1996)年11月20日付けで「保留床購入のお願い」と題する要望書を区長宛てに提出した。それは、支払基金に代わりに区に保留床を買ってもらいたい、さらには新庁舎の移転も含めて検討してもらいたいという内容だった。財政状況がいよいよ逼迫し、既にその年の4月には新庁舎建設計画を事実上の凍結にしたばかりの区にとって、それはとても飲める話ではなかったが、しかしここで区が退けば再開発事業そのものが頓挫することも目に見えていた。それまでにも区長自ら幾度となく支払基金側に出向いて保留床購入の可能性を探っていたが、組合からの要望を受けて年明け9(1997)年1月に支払基金の理事長と面談し、これ以上は期待できないとの最終判断に至った。そして、もはやこのままでは再開発組合の存続すら危惧されるという差し迫った状況のなかで、事業の再構築を前提に、やむなく保留床23,000㎡のうち6,000㎡を区が購入することを決断したのである(※7)。区の基本計画に老朽化した中央図書館の建て替えが計画事業に位置づけられていたことから、中央図書館を軸に付随する施設も含めた床面積として算出した数字であったが、区の財政状況からしてもそれが購入可能なギリギリの面積だった。
 区としては、再開発組合の要望に対する満額回答ではなかったが、保留床の一部ではあってもこの再開発事業の建物に公共施設が入ることにより、事業自体の確実性・信頼性が増し、企業の購入意欲を引き出す効果があると期待したのであり、それ以上に、保留床を少しでも減らして再開発組合の経済的負担を軽減するとともに、何としてもこの事業を完成させようという区の意気込みを示すことにより、苦境に陥っている組合員の精神的負担を軽減したいとの思いがあった。またこの事業地に隣接する街区(東池袋四丁目第2地区)でも既に再開発の話が進んでおり、万一この事業が頓挫するようなことになれば、周辺地区への影響はもとより、区全体の今後の街づくりへの影響は計り知れなかったのである。
 再開発組合に対する区の提案については、この間の経過も含め、直近の平成9(1997)年2月6日に開かれた副都心開発調査特別委員会で報告されたが、議会にとっては寝耳に水の話で区長の独断専行的な対応を糾す声が噴出した。また、ここに至るまでの区の判断の甘さや、区が保留床の一部を購入したとしても残った保留床が確実に売れる保証はなく、問題の先送りだとの反対意見も出される中、区長は「進むも地獄、退くも地獄という言葉がございますけれども、進むしかないと決断をいたしたわけでございますので、これは何としても成功させる、このように考えております」と、苦渋の判断をした胸の内を訴えた(※8)。この案件は翌月3月5日の委員会まで持ち越され、2日間にわたって厳しい質疑が繰り広げられたが、ことここに至ってという状況で、区はこれまでの「指導」という立場ではなく当事者として責任を持って事業を進めていくという、言わば条件付きで議会も追認する形となった。
 この区の参入で保留床交渉には弾みがつき、企業からの引き合い件数も約半年間に資料提供が22社、具体の交渉をした企業は9社にのぼった。しかし、価格が組合側の希望と折り合わないケースが多く、その後もなかなか成立を見ない状況が続いた(※9)。その一方、保留床交渉と並行して従前資産評価額の見直しや事業費圧縮等の事業計画の見直しも進められたが、結局保留床の買い手の見通しが立たなければ事業計画も固められないというジレンマに再び陥った。
 こうした膠着状態が平成10(1998)年、11(1999)年とさらに続くに至り、再開発組合はついに業務系企業の誘致に見切りをつけ、事業再構築に踏み切ることを決断したのである。この間の経緯については、副都心開発調査特別委員会で逐次報告されているが、その会議録をたどっていくと、再構築に関する言及は平成10(1998)年4月15日の同委員会で既にその可能性が示唆されていたものの、実際に動き出したのは翌年になってからであった。平成11(1999)年6月15日の同委員会における再開発課長の発言からその経緯を以下に抜粋する。
-これまで業務系を主体とした計画で地価動向を勘案した従前資産の評価額及び建築費等を圧縮して、床価格を下げて交渉に当たってきましたが、現在の経済状況から企業の動きが非常に鈍いことと、また池袋方面は立地条件として都心3区、大崎、品川方面に比較すると開発物件が少ないということから、業務系では企業を誘致しづらい地域ということが言われております。しかし、住宅としましては交通の便もよく、評価の高い地域ということが言われておりますので、こうした市場の評価を受けまして、現在、組合では建物用途を業務系から住宅に一部変更を含めた再構築案のス夕ディーを行っているところでございます。
 この発言から3か月後の平成11(1999)年9月7日、再開発組合は複数案を比較検討中の再構築案について組合員に説明した。その概要は建物を業務用と住宅用の2棟に分離し、業務棟を当初計画の31階から24階程度に縮小するのに対し住宅棟を16階から29階程度に増床するという、業務系から住宅系への方向転換を示すものであった。この再構築案をもとに住宅デベロッパー各社にヒアリングを行い、参加可能との回答があった数社をさらに選考にかけていった。そして11月22日の再開発組合臨時総会において再構築案とともに住宅保留床取得候補企業との正式交渉が承認されたことを受け、12月24日、住友不動産並びに三菱地所の2社と事業協力に関する覚書を締結したのである(※10)。
 これ以後2社を加えての施設計画策定作業が開始され、再開発事業は再び動き出した。施設計画に事業費(建設コスト)を落とし込みながらの設計協議が年をまたいで重ねられ、ようやく翌年9月に概ね合意に達した。そして平成12(2000)年10月4日に開催された再開発組合臨時総会において、業務棟地上15階・地下2階、住宅棟地上41階・地下2階とさらに住宅系へと大きくシフトする建築計画案が承認された(※11)。また同時に従前資産評価額を引き下げる事業計画変更案も承認されたが、それは組合設立当時の価格からおよそ80%引き下げという厳しい内容だった。しかもこの評価額は住宅デベロッパーによる保留床購入価格が組合想定より10%以上も下回ったため、その後さらに20%減額されることになった。そうした苦い思いをすべて飲み込みながら事業は進められ、翌13(2001)年1月、住友不動産(住宅棟)と大成建設(業務棟)による保留床の購入が決定した。これにより、平成7(1995)年以来難航を極めた保留床の処分がようやく確定したのである(※12)。
 長年の懸案事項が解決したことで事業再構築に向けた動きは加速した。同年2月16日の再開発組合臨時総会で事業計画の変更が承認されたのを受け、区は3月15日に都市計画変更案について都知事へ協議書を提出、4月5日都知事同意、同6日都市計画案の公告・縦覧、5月11日都市計画審議会に付議、同日審議会の議決を得て都市計画決定された(※13)。これに続き、当初計画時に719億円だった事業費を414億円にまで縮減した事業計画と、保留床取得により正式な参加組合員となる住友不動産と大成建設を加える定款の変更について、7月2日に都知事の認可が下り、これをもって事業再構築の手続きが一通り完了した(※14)。
 また翌平成14(2002)年11月には権利変換計画も認可され(※15)、15(2003)年の年明け1月から既存建物等の除却工事が始まった。そして平成16(2004)年2月、この再開発事業に関わった多くの人々が見守る中、いよいよ再開発ビルの建築工事が着工された。それから3年間の工期を経て平成19(2007)年1月30日、ついに企業と区が入居する業務棟(ライズアリーナビル:地上15階・地下2階)と大規模高層マンションの住宅棟(エアライズタワー:地上42階・地下2階、総戸数555戸)が竣工したのである(※16)。当初予定の平成11(1999)年度末から8年遅れての完成であった。その業務棟の4・5階には新中央図書館が同年7月に開館し、2・3階には豊島区の新たな文化拠点となる舞台芸術交流センター(あうるすぽっと)が9月にオープンした。
 協議会発足から20年の歳月を経て、2棟のビルが立ち並ぶ威容を目にした再開発組合関係者の思いは察するにあまりある。平成不況の荒波に翻弄され、数々の高いハードルを乗り越え、それでも迷走する船から降りなかったのは、そこが日々ずっと暮らし続けてきた土地だったからこそであろう。特に当初の計画が頓挫し、自分たちの権利を削ってまでして事業を組み立て直す過程では様々な紛糾もあったことは想像に難くない。それらを乗り越えるためには組合員それぞれにも相当の覚悟が求められたであろうし、そうした組合員の総意をまとめあげていった理事たちもつらい立場であったに違いない。当時の区担当者がこの再構築が実行できた最大の理由として、「組合の理事長や理事の方々、コンサルタント、民間企業や区の職員が問題解決のため話合いのテーブルをつくることが出来たことに尽きる」(※17)と振り返っているように、「まちづくり」とは個々人の利害を超え、そのまちに暮らす人々とその事業に関わる人々の信頼関係、協力関係があって初めて成り立つものと言えるだろう。
東池袋四丁目地区市街地再開発事業/当初計画(左)と事業再構築後の完成模型
市街地再開発組合作成の事業パンフレット表紙

都市高速道路中央環状新宿線建設事業

 都市機能を高めるインフラ整備の中でも都市計画道路や都市高速道路の整備はその事業規模の大きさゆえに工事期間も長期にわたり、また工事中の騒音・振動はもとより道路完成後の交通量増加や排ガス等大気汚染問題など、周辺地域の生活環境に大きな影響を与えるため、地域住民の理解を得るのが難しい事業である。豊島区でもそうした道路整備事業が各地で進められてきたが、その中でも地域住民から強い反対を受け、当初の計画の大幅な変更を余儀なくされたのが都市高速道路中央環状新宿線建設事業であった。
 首都圏における高速道路の建設が本格化したのは高度経済成長が始まる昭和30年代以降である。人流・物流両面で自動車が急速に普及し、それに伴って慢性化しつつあった交通渋滞の解消が急務となっていた。昭和34(1959)年に日本道路公団から事業を引継ぐかたちで首都高速道路公団が設立され、39(1964)年開催の東京オリンピックもはずみとなり、首都高速道路の建設は急ピッチで進められた。豊島区においても、都市高速道路5号線の竹橋JCT-北池袋JCT間が昭和44(1969)年に開通し、続いてその延長路線である高島平までの区間が52(1977)年に開通した。このように都心部の河川上空や湾岸部の埋立地などから始まった首都高速道路の建設は、次第に都心部から周辺部へ放射線状に広がり、さらに都心部に集中する混雑を迂回分散するための環状線建設構想へと進展していったのである。
 そのひとつである首都圏3環状道路の一番内側を走る都市高速道路中央環状線は、都心から約8kmの圏域を品川区大井JCTから渋谷・新宿・池袋の3副都心を経由し、江戸川区葛西JCTまでを環状に結ぶ全長約47kmの路線で、その整備構想の萌芽は昭和39(1964)まで遡る。昭和45(1970)年に首都圏整備計画の中で「整備を進める路線」に位置づけられたことにより事業化され、50年代以降路線東側区間から反時計回りに建設工事が進められた。東側区間を形成する中央環状葛飾江戸川線及び葛飾川口線(江北JCT-葛西JCT間約21km)から開始された建設工事は、北側区間の中央環状王子線(板橋JCT-江北JCT間約6km)へと進み、それに続いて事業化されたのが西側区間の中央環状新宿線(大橋JCT-熊野町JCT間約10km)であった。
なお、王子線と新宿線をつなぐ熊野町JCT-板橋JCT間は都市高速道路5号池袋線の一部として既に開通していたが、最終区間となる南側の中央環状品川線(大井JCT-大橋JCT間約9km)を含めた中央環状線全線の開通は平成27(2015)年のことで、全線工事期間が40年に及ぶ一大事業であった。
 この中央環状新宿線の整備計画は昭和57(1982)年策定の東京都長期計画で「整備を図る路線」に位置づけられ、さらに61(1986)年策定の第2次東京都長期計画で「整備を促進する路線」として位置づけられたことを機に具体化に向けて動き出した。既に完成間近の東側区間や都市計画決定された北側区間に続く事業化ではあったが、目黒区青葉台4丁目から高松1丁目までの延長10.1kmの区間への高速道路の敷設は、都心部及び周辺街路の混雑解消はもとより、都市高速道路3・4・5号線を結ぶ高速道路全体のネットワーク機能の強化、さらには渋谷・新宿・池袋の副都心機能の強化も期待されていた。またその構造についてはそれまで建設された高速道路のほとんどが高架式で先行2区間も同様であったため、中央環状新宿線についても構想の初期段階では高架式が想定されていた。しかし市街地を縦断する路線沿道の多くが住宅専用用途地域であったため、周辺環境への影響が考慮されたことに加え、トンネル工法の新たな技術(シールド工法)が実用化されたこともあって高架式から地下構造へと変更され、首都高速道路としては初の本格的な地下トンネル道路の建設と謳われたのである。
 この建設計画については地元説明会に先立ち、沿道各自治体の区議会への説明が行われた。豊島区においても、昭和63(1988)年1月11日に開催された副都心開発調査特別委員会で都と首都高速道路公団担当者からその計画の概要が明らかにされた。ところがそこで初めて、全路線の約9割が地下構造となる中で区内西武池袋線以北の南長崎~高松ランプ間の一部については高架式で計画されていることが判明したのである。
 既に中央環状新宿線は山手通り(都市計画道路環状6号線)を活用して敷設される予定とされ、高速道路の建設に合わせて山手通りを幅員40m道路として整備することが都市計画決定し、要町交差点までの拡幅工事は完了していた。そしてこの山手通りの地下を新宿方面から延びてきた道路を高架式の5号池袋線に接続させるためには、高松ランプの手前で地下から高架へ切り替える必要があった。これら諸条件のもとで「①環状6号(山手通り)の都市計画幅員(40m)は変更しない、②既存の高松ランプは取り壊さない、③都市計面道路および主要道路の交差点の機能を確保する」の3項目を原則(以下『三原則』)とし、南長崎~高松ランプ間にある主要交差点を避ける形で外回り線については補助172号線と千早交差点の間で、また内回り線については要町交差点を越えたところでそれぞれ半地下から高架に切り替え高松ランプにつなげるという計画が立てられたのである(※18、資料8ページ「豊島区内路線計画概略図」参照)。これによりこの間の外回り線約860m、内回り線約220mの区間が高架となり、特に要町交差点以北は両線とも高架となる計画になっていた。
 一方、この山手通りに限らず、それ以前から区内の幹線道路沿道では交通量の増加に伴う騒音や自動車排出ガスによる大気汚染等の「自動車公害」を訴える声が多くあがっていた。そのため区は鉄道や主要幹線道路沿いの騒音・振動や区内3か所(巣鴨・長崎・池袋)に設けた測定室で大気汚染の状況を測定し、その調査結果を毎年度公表していた。昭和61(1986)年度に実施した調査で騒音レベルが最も高かったのは都市高速道路5号池袋線が走る川越街道であったが、その他の幹線道路沿いでも自動車による騒音公害が慢性化していた。また、この年度の調査では中央環状新宿線の建設計画があがっていたことから、3か所での定点観測に加え山手通り沿い24地点で大気汚染の簡易測定が実施されたが、既にその時点で自動車排出ガスによるものと推定される二酸化窒素濃度は環境基準を超えていた。こうした状況に加え、もし計画通りの高架式となれば、さらなる環境悪化が懸念されたのである。
 区議会への説明に続いて2月8日に開かれた地元説明会では、そうした懸念を抱く沿道住民から周辺環境への影響を問う声があがったが、都や首都高速道路公団からは納得のいく説明は得られなかった。また、この説明会場が、高架式による影響を最も受ける要町交差点以北の地域からは離れた道和中学校であったことも不信感を招き、地元への説明が不十分であると捉えられる結果となった。そのため高架化が予定されている区間の沿道住民からは、計画の再検討とともに地元千川中学校での説明会の早期開催や、周辺住民の十分な理解と同意がないかぎり具体化を進めないことなどを求める陳情2件が区議会に提出され、昭和63(1988)年区議会第1回定例会でいずれも採択された。
 こうした動きを受け、5月27日には都と首都高速道路公団担当者の列席のもと、高架が計画される沿道5町会(高松1丁目・要町1丁目・千早1丁目・長崎1丁目・西池袋4丁目)の共催による説明会が千川中学校で開催された。周辺住民約500人が詰めかけた会場からは車公害を訴える切実な訴えが出され、さらに「なぜ高松ランプを撤去して区内全線を地下化できないのか」との質問もあがったが、公団側は「『三原則』に則った計画であり、既存の施設は取り壊せない、都市計画手続き上も難しい」などと、原案ありきの回答に終始した。住民の大勢は「建設そのものには反対しないが高架には反対」というところにあったのだが、住民側が求める公害問題への明確な対策が示されないまま、質疑は平行線をたどった。
 また6月28日の副都心開発調査特別委員会に提出された環境影響評価案(アセスメント)も路線全体の評価にとどまり、高架式となる南長崎~高松ランプ間の影響については何ら示されなかった。そのため各委員からは「100年の計である都市づくりの見地からも全線地下路線に」「地下化できない明確な理由を」「この場での説明をアセスメント手続きのアリバイにするな」「全体評価とは別に高架部分のアセス案を作成してもらいたい」など、住民の意向を何ら汲み取ることなく計画を進めようとする都・公団を糾す意見が噴出した。これに対し、都・公団側はあくまでも『三原則』を堅持する姿勢を崩さなかったためその日の委員会では決着が見られず、次回7月15日に改めて質疑を行うこととなった。
 一方、千川中学校での説明会でさらに不安を募らせた沿道住民らは、新たに4件の請願を区議会に提出した。請願者には沿道住民・町会に加え、高架への出入路に面する聖パトリック幼稚園の関係者も含まれていたが、その趣旨は建設計画そのものに反対するもの(1件)と高架式での建設に反対し地下化の再検討を求めるもの(3件)の二つに分かれていた。そして第2回区議会定例会(会期6月30日~7月13日)において、これらの請願のうち計画そのものに反対する請願を除く3件を採択した区議会は、7月12日、都知事、首都高速道路公団理事長あてに「都市高速道路中央環状新宿線の全路線地下化を求める要望書」を提出した(※19)。その中で改めて「全路線の地下化は、豊島区民の切実な願いと副都心池袋の一層の機能強化を図るうえからも不可欠であり、『三原則』にとらわれずに、現在の財政面や技術の粋をもってすれば、実現は可能なことと思われます」と地下化に向けての再検討を強く求めたのである。
 そして定例会終了後の7月15日、副都心開発調査特別委員会での質疑が再開された。そこでは公団側から高架部分をゼロまたは縮小する6案が提示されたものの、結論としてはいずれの案も街路の再買収が困難、高松ランプだけでなく地下鉄有楽町線コンコースの取り壊しが必要、千早町交差点が分断されるなどを理由に『三原則』が堅持できる原案の優位性を示す説明に終始し、問題解決の方向は見出せなかった(※20)。
 こうした状況に「なんで我々の町だけが犠牲に」(昭和63年6月28日付『豊島新聞』)との不満を募らせた住民の反対運動は、日を追うごとにエスカレートしていった。7月29日、公団側の環境影響評価案に関する説明会には「高架絶対反対」の鉢巻き姿に幟を掲げた反対住民が詰めかけ、巻き起こった「怒りの〝帰れコール〟」(昭和63年8月2日付『豊島新聞』)に説明会は急遽中止せざるを得ない事態となった。一方、都知事から環境評価書案に対する意見照会を受けていた区長も、9月2日、地下化される西武池袋線以南についてのみ了承する旨の回答をし、高架とされた西武池袋線以北については絶対反対を表明した(※21)。
 地元自治体・議会・住民から激しい反対を受け、当初の計画を思うように進められなくなった都は、ついに方針転換をせざるを得ない状況になり、高架とした西武池袋線以北1.4kmを計画対象区域から除き、目黒区青葉台4丁目~南長崎1丁目までの区間8.7kmのみを対象とする都市計画変更案を発表した。これを12月23日開催の都の都市計画地方審議会に諮るとともに、先に出されていた環境評価書案も都市計画変更案に即して西武池袋線以南までの区間に変更された(※22)。
 一方、問題となっている西武池袋線以北については、地下化の可否を技術面から検討するため、都は区に対し「豊島区に係る都市高速道路中央環状新宿線地下化技術検討委員会(以下「地下化技術検討委員会」)」の設置を提案した(※23)。区もこれに同意し、ただちに区の都市計画審議会委員である久保田庄三郎東海大学工学部教授ら学識経験者4名と区・都・公団各部課長級職員12名により構成された地下化技術検討委員会の第1回会議がその年も押し迫った12月26日に開催された。このような地元の反対による都市計画案な変更は極めて異例のことではあったが、間髪入れずに区と都、公団が地下化に向けて同じテーブルで話しあう場を設けたことが、それまで全く噛み合っていなかった事態の打開に向けて動き出すきっかけとなったのである。
 こうして年末の慌ただしい方針転換で仕切り直しとなってから3か月後の平成元(1989)年3月、区間変更された都市計画案と環境評価書案が改めて公表され、意見募集が開始された。この都市計画案の中では、地下化技術検討委員会で検討中だった西武池袋線以北部分は「構造等検討区間」と位置づけられ、高架問題はその結論を待つ形となっていた。しかし区長は、変更後の環境評価書案に対する意見として都に提出した回答の中で、西武池袋線以北の地下化を重ねて要望し、その姿勢を改めて伝え(※24)、また、翌平成2(1990)年6月20日に提出した都市計画道路の変更に対する回答においても、「本計画の池袋南出入路付近における本線の構造は、同出入路以北の構造等検討区間についての地下化の構造検討を制約しないものとすること」との意見を付し、今回の南長崎1丁目までの計画が地下化技術検討委員会の検討の足枷にならないよう、地下化要望を念押した(※25)。この意見付き了承回答には8項目の意見が付されていたが、その最後の項目は「本計画も含め、道路網整備が混雑緩和、都市機能の強化、経済活力の活性化等を目的として行われがちであるが、都市環境の保全等の視点から交通総量に対する対策等検討を進めること」というもので、効率重視の都市開発に対する問題提起と言える内容であった。
 一連の手続きを経て、目黒区青葉台4丁目~南長崎1丁目(8.7km)区間は平成2(1990)年8月13日に都市計画決定され、翌3(1991)年3月11日に建設大臣の事業認可を得て事業着手に向けて動き出した。一方この間、地下化技術検討委員会も足掛け3年、可能な限り地下化区間を確保することを基本方針として、15回に及ぶ会議を重ね、同(1991)3年4月に報告書をまとめた(※26)。そしてさらに検討委員会の構造案をベースとして作成された都市計画変更案が、8月28日の副都心開発調査特別委員会に提示された(※27)。
 この変更案は構造等検討区間とされていた西武池袋線以北の1.4km(南長崎~高松)と、それに接続する5号線0.3km(高松~板橋区中丸町)を加えた1.7kmの区間を対象として、高松ランプの出路を廃止した上で両線を接続させるものであった。これにより懸案だった高架区間のうち南長崎から要町交差点までは内回り・外回りとも地下化され、外回りについては中央環状線から5号線に接続する高松1丁目の手前まで地下化が延長されることとなった。一方、それに伴い5号線高松出路の代替として西池袋4丁目付近に池袋南第二出路を設置することと、要町交差点南側の地下に換気室を設け、山手通りの中央分離帯に換気塔(幅7m、長さ27m、高さ45m)を設置することが新たに付け加えられた。結果は全線地下化とはならなかったが、区内路線の大部分が地下となる変更案は区にとって大きな成果と言えた。
 しかし、千川中学校はこの新たに示された案でも依然として高架となる区間に面し、また換気塔が設置される要町交差点の近くには要町小学校(現・要小学校)があった。このため、高架反対運動は児童生徒たちへの健康被害に強い不安を感じる保護者らが中心となっての公害対策運動へと形を変え、新局面を迎えることとなったのである。
 平成3(1991)年区議会第3回定例会に「中央環状新宿線高架計画から千川中学校の教育環境をまもる措置を求める陳情」が出され、これを採択した区議会は、10月11日、都知事と公団理事長あてに「都市高速道路中央環状新宿線の環境対策を求める要望書」を提出した(※28)。一方、翌11月から変更案の都市計画決定に向けた手続きが進められ、12月16日に都市計画案公告・縦覧開始(4年1月6日まで)、翌17日には環境影響評価書案公示・縦覧開始(同1月23日まで)、続く18日には住民説明会が開催された(※29)。しかし、説明会を経ても保護者や学校関係者の不安は解消されず、12月1日には千川中学校教職員一同38人の連名で、中央環状新宿線高架計画から千川中学校の教育環境をまもる措置を求めることが決議され、同25日には区教育委員会も「中央環状新宿線及び第5号線の環境対策を求める要望書」を都に提出、年が明けた平成4(1992)年1月13日には千川中学校の地元町会の役員など「千川中学校の教育環境を守る会世話人」5人の連名で、区議会・区長による都への働きかけを求める「首都高速道路中央環状新宿線計画についての要望書」が出されるなど、子どもたちへの健康被害を危惧するさらに声は高まっていった(※30)。
 こうした動きを受け、区長は平成4(1992)年1月末期限の環境影響評価書案に対する意見を都知事に提出する際、23項目からなる意見の冒頭に、「坑口及び出入路付近には学校、幼稚園及び病院が所在しており、その環境影響については、特に関係地域住民の重大な関心事となっているので、対策について万全な措置を講じ、住民の不安解消に努められたい」との全般意見を付した(※31)。
 この区長意見のほか、環境影響評価書案に対して都に寄せられた意見は実に11,851件にものぼった。これらの意見に対し、7月1日、事業者(都・公団)の考えを示す見解書が公示され、同日、開催された区議会副都心開発調査特別委員会において都と公団担当者からその概要が説明されたが、しかし示された見解の大半は評価書案時点の考えをなぞるもので、地域の不安を解消する具体策に乏しいものであった(※32)。このため区長は7月28日、改めて区として要望すべき事項を7項目にまとめ、「見解書に対する区長意見」として都知事に再提出した(※33)。さらに、10月27日、都知事から照会のあった都市計画道路の変更についても、「周辺の環境保全については、先に提出した『見解書に対する区長意見』の実現に最大限努力されたい」との意見を付して了承する旨の回答を提出した。また議会も、9月24日開会の第3回定例会に出された「中央環状新宿線計画における区長意見の完全実現についての陳情」を採択し、10月9日、区長意見の確実な実施を求める「中央環状新宿線に関する要望書」を都知事・公団理事長あてに送付したのである。
 こうした区の動きや都の環境影響審議会からの答申を踏まえ、9月29日、環境影響評価(アセスメント)実施者としての都知事は事業者に対し評価書の内容・表現をさらに明確にし、住民が理解しやすいものとするよう努めるべきとの審査意見書を出した。これを受けて環境影響評価書は加筆修正され、12月18日に事業者知事からアセスメント知事に提出する形で公表された(※34)。
 その修正案は12月24日の副都心開発調査特別委員会において報告されたが、「これでよしとするのか」と問われた区長は、これで十分とは思っていないがと前置きしつつも、「見解書に対する区長意見」の7項目について、1項目を除き非常に具体的に数値を挙げた記述に修正された点を鑑み、「国の環境行政が非常に後退している中で、これだけ思い切って書かれているということは、やはり評価してよろしいのではないかと、このように考えております」と答え、環境問題についても一定の決着が見られることとなったのである。
 これにより残された西武池袋線以北の南長崎1丁目~板橋区中丸町(1.7km)の区間についても、翌平成5(1993)年2月1日に都市計画決定され、6(1994)年3月18日に建設大臣の事業認可を受け、7(1995)年から建設工事が開始された(※35)。
 また中央環状新宿線と並行し、地上部分の環状6号線(山手通り)の街路整備も進められ、その進捗状況は区に逐次報告された。環境対策の面でも、平成15(2003)年4月に区長が要請した低濃度脱硝装置が実用化に伴って要町換気所に導入されるなど、周辺環境に配慮した様々な工夫が施された(※36)。そして12年に及ぶ区内工事が完了し、平成19(2007)年12月22日、中央環状新宿線の西新宿ジャンクション~5号線熊野ジャンクション間が開通するに至ったのである。
 都市計画道路や都市高速道路は都市の「動脈」に喩えられるが、都市に活力を与える「血液」をうまく流すためには、交通インフラとしての効率性や利便性を追求するだけではなく、その沿道地域の生活環境の保全はもとより、人々の暮らしを豊かにしていくための「みちづくり=まちづくり」が求められる。中央環状新宿線建設事業はそのことを改めて考えさせられる例であったと言えるだろう。
中央環状線(新宿線-池袋線)区間図
中央環状新宿線・環状6号線整備イメージ
中央環状新宿線(椎名橋付近)

目白駅周辺のまちづくりと目白の森

 目白駅周辺地区の整備は、昭和62(1987)年6月25日、目白2・3丁目町会長等が、東京都第四建設事務所長あてに「目白橋改修促進に関する要望書」を提出したことに端を発する。
 目白地域は、駅に隣り合うように学習院大学のキャンパスが広がり、目白通り沿いの商店街の後背には閑静な住宅地が形成される区内でもみどり豊かな文教地区である。しかし要望書が出された当時は目白駅舎(大正8年改築)も、またそのすぐ前に架かる目白橋(山手線跨線橋、昭和7年架設)もともに老朽化が著しく、特に耐用年数を超えた目白橋の架け替えは安全性の面からも早急に解決しなければならない課題だった。既にこの目白橋の架かる目白通り(都市計画道路補助76号線)は橋の両側まで都市計画事業が完了し、学習院のある東側は幅員18m、西側は25mに拡幅されていたのだが、橋部分は未着手で幅員15 mのままだったため、その部分の道路は細くくびれた形状になり、たびたび交通渋滞や交通事故の発生を招いていた。加えて昔ながらの目白駅舎には駅前広場がなかったため、朝夕の通勤通学時には通行人が滞留し、大量の放置自転車がそれに拍車をかけていた。
 こうした課題を何とか解決したいと地域住民から声が上がり、平成元(1989)年6月16日には町会・商店会や婦人会、目白地域の有志の集まりである目白美化同好会などの人々を中心に、「目白駅周辺地区整備推進協議会」(以下「推進協議会」)が発足した。そして同年12月18日、目白橋の架け替え・目白駅東側の国鉄清算事業団用地の活用・福祉の駅舎づくり・駅前空間並びに安全な歩行者空間の確保・自転車駐輪場の設置等を盛り込んだ「目白駅周辺整備についての提言書」を区長に提出した。
 一方、区も近い将来に国鉄清算事業団用地の処分が想定されることを見据え、平成元(1989)年、駅周辺地区の一体的・総合的な街づくりの指針となる「目白駅周辺地区整備構想」の策定調査を実施した。その報告書は翌2(1990)年3月にまとめられ、地区内を駅前ゾーン、商業・サービスゾーン、都市型生活ゾーンの3つのゾーンに区分けし、各ゾーンの整備方針を示すとともに、当面の整備目標として、駅前ゾーン(自転車駐車場・駅前広場・目白橋架け替え)と山手線東側の都市型生活ゾーン(高付加価値住宅、生活関連サービス機能、歩車分離の街路整備)の2か所を先導的整備ゾーンに位置づけていた(※37)。
 平成3(1991)年9月に清算事業団資産処分委員会から目白用地の処分促進について提言が出されたのを機に、区も用地取得に向けて平成4(1992)年区議会第3回定例会に用地取得にかかる債務負担35億7千万円の補正予算案を提出した。その取得計画は、まず4(1992)年度中に清算事業団用地約8,600㎡のうち駅寄りの約1,020㎡を土地開発公社が取得し、翌5(1993)年度に区がそれを買い取る。さらにその用地と目白通りに面した駅舎東側のJR用地を等価交換し、そこに区は広場と地下自転車駐車場を整備するというものだった(※38)。しかし議会からは「放置自転車に対する責任を鉄道事業者に求めていこうという全国的な運動を推進する一方で、区が全額出して自転車駐車場も広場もつくるというのは整合性がない」「財政状況が厳しい中で35億7千万円も負担できるのか」「事前説明もなく、いきなり補正予算を出してくるのは議会対応として問題がある」等々の厳しい意見が次々出された。
 駅前の放置自転車は深刻な問題ではあったが、当時の自転車法のもとでは区が自転車駐車場をつくらざるをえず、また広場用地の提供についても区はJRと交渉を重ねたが、公共広場の整備は自治体の仕事とするJR側の見解を崩せずにいた。そこで都の目白橋架け替え工事に伴う道路拡幅により駅舎をセットバックし、そのセットバックで生まれた部分と区がJRとの等価交換によって取得する部分を合わせ、約1,600㎡の駅前広場を確保する。整備についてはセットアップ部分を移転補償として都が実施し、その他は区が行う方向で三者間の調整を図っていた。また、区が単独で35億7千万円もの用地取得費を負担することは厳しかったが、そのうちの4分の3は財政調整により都が措置する確約が取れたため、急遽補正予算の提案に踏み切ったのである。これら水面下で進めている交渉状況を明かし、この機会を逃すと目白のまちづくりは永久にできないと区長自ら訴え、どうにか議会の了承を得ることができた。
 この補正予算の議決を得て、年度末の平成5(1993)年3月25日、土地開発公社が駅前広場代替地となる清算事業団用地約1,020㎡を取得、それを4月16日に区が公社から買い取り、取得登記を完了した(※39)。また6月23日にはJR東京工事事務所長と豊島区長との間で駅前のJR用地と区が取得した清算事業団用地との交換に関する覚書が交わされ、翌6(1994)年10月18日、JRとの用地交換契約が正式に締結された。
 一方、残りの清算事業団用地約7,600㎡については、平成4(1992)年当時から住宅・都市整備公団(以下「住都公団」)が取得に向け動き出していたが、5(1993)年に入り、それを知った推進協議会は「駅前から公団住宅が建つのは目白のイメージに合わない」として、駅前広場代替地に続く2,000㎡についても、区に取得してほしいと要望した。しかし財政上、それに応じることが困難だった区は、それに代えて、地域住民の理解が得られるよう住都公団と推進協議会との話し合いが整うまで、2,000㎡部分の土地処分は延期してくれるよう清算事業団に要請した。宙に浮いた形となったその2,000㎡を残して、清算事業団用地は平成6(1994)年3月に東京都交通局がバス回転広場施設用地446㎡を取得したのに続き、翌7(1995)年3月には住都公団が住宅建設用地として5,200㎡を取得した(※40)。
 この5,200㎡の用地も含め、住都公団の用地取得には紆余曲折があった。住都公団と推進協議会との協議は平成5(1993)年から幾度となく重ねられていたが、住宅建設を基本とする住都公団と住宅ではまちの活性化につながらないとする推進協議会の意見は噛み合わず、調整は難航した。そうした状況は年を越しても続き、次第に話し合いの場を持つことさえ難しくなってきたため、これを打開しようと住都公団は区長に対し、平成6(1994)年10月19日、公団法に基づく建設計画についての意見照会を行った。そこに添付された建設計画書は名称を「(仮称)目白1丁目市街地住宅」とする地上7階建て3棟(約160戸)の賃貸住宅の建設内容で、意見照会はいわばこの住宅建設に関する区の考えを質すものであった。一方、推進協議会側も、同年11月10日、「目白駅周辺の魅力的な街並とにぎわい空間の形成についての陳情書」を区に提出するとともに、同16日、区議会に対しても「目白駅周辺へのオープンスペース豊かな駅前広場の確保と地区の玄関にふさわしい魅力的な街並みとにぎわい空間の形成についての陳情」を提出した。それらは、駅前広場及び駅周辺の整備に関して区・都・JRが個々別々に計画を進めるのではなく、共同して全体の土地利用計画を策定して都市基盤整備を図っていくための連絡協議会を区が中心となって設置するよう求める一方、清算事業団用地に関しては、業務・商業機能の充実を図り、にぎわいとうるおいのある魅力的な街並みを形成するために「都市計画等の見直し」を求めるものであった。この清算事業団用地については駅寄りの一部を除き用途地域の「住居地域」に指定されており、また先に述べたとおり、平成2(1990)年に策定した「目白駅周辺地区整備構想」の中でも「都市型生活ゾーン」に位置づけられ、高付加価値住宅や生活関連サービス施設などの一体的な整備を図るとされていた。推進協議会が求める住宅系から商業・業務系への土地利用の転換は、まさしく住都公団による住宅建設計画の見直しを求めるものにほかならず、この陳情を審査した区議会区民建設委員会でも、ここにきての住都公団外しとも言える要望に疑問を呈する意見が出され、いずれにしても区が両者の調整を図っている段階では結論を出せないとして、推進協議会から出された陳情は「継続審査」の取り扱いとされた。
 一方、11月17日に開かれた清算事業団資産処分審議会において、債務処理の早期解決のために目白を含めた全国111件の未処分地について随意契約や公開競争入札により処分することが決定された。その決定を受け、清算事業団は年度末までには処分を完了したいとの考えを示した。住都公団との随意契約がまとまらなければ公開入札となり、開発事業における公共性の確保はより難しくなる。用地処分のタイムリミットが迫る中、区は再度、住都公団と推進協議会の話し合いの見通しがつくまでは公共入札を延期してくれるよう清算事業団に要請するとともに、本格的に両者の仲介に乗り出した。まず区は12月6日、推進協議会に対し住都公団を入れた話し合いの場を設けることを要請するとともに、住都公団には12月16日、先の意見照会に対しては、住宅建設を基本としながらも、当該地が駅隣接地であることや「教育文化のまち」目白の地域特性を考慮し、文化・商業機能を付加して地域の活性化につながる計画となるよう留意するとともに、推進協議会の理解が得られるよう努められたいとの回答を送った。さらに同20日には、この回答主旨に沿って円滑に開発が図れるよう、住都公団は「(仮称)目白1丁目市街地住宅」の施設計画について推進協議会等と積極的に協議を行い、区はその協議の場に立ち会うなど協力していく旨の覚書を交わした。また区と住都公団は、平成7(1995)年2月までに住都公団が用地を取得できるよう関係者と最大限の調整を図るとともに、同年6月までに推進協議会との話し合いがつかなかった場合には住都公団が提案している計画を基本に開発を進めていくとした(※41)。
 こうしてタイムリミットを定めて推進協議会への働きかけを重ねていった結果、平成7(1995)年3月8日、区・住都公団・推進協議会・街づくり公社による「目白1丁目地区連絡会」の第1回会議が開催され、ようやく話し合いの場が持たれたのである。以後、期限の6月まで連絡会は毎月開催され、処分先が決まっていなかった残りの2,000㎡についても住都公団が追加購入し、そこに商業文化施設を整備する全体計画案が示され、6月23日の第4回連絡会において推進協議会も概ね合意するに至った。そして、翌7月13日に開催された推進協議会臨時総会で住都公団の開発計画案が正式に了承され、難航した清算事業団用地の開発の方向性が固まったのである(※42)。
 一方、駅前広場の整備も平成7(1995)年に入って都とJRとの間で工事負担区分を含めた協議がまとまり、着工に向けて動き出すのを機に、目白橋の架け替え(目白通り拡幅)、駅前広場と自転車駐車場の整備、駅舎の改築等、それぞれ施工者が異なる工事を総合的・一体的に進めていくための連絡調整の場として、区・都・JRに推進協議会と街づくり公社も加わった5者による「目白駅前広場等に関する連絡協議会」(以下「駅広協議会」)が発足した。この駅広協議会には推進協議会も積極的に関わり、広場の景観や自転車駐車場の外観デザインなど、具体的なイメージを提案し、計画に反映させていった。
 こうしてこの年の7月、清算事業団用地の開発も含め、目白駅周辺地区整備の全体スケジュールがようやくまとまった(※43)。以後、順次着工され、平成8(1996)年3月、清算事業団用地の南側JR用地に郵趣会館が竣工し、4月に切手の博物館がオープンしたのを皮切りに、翌9(1997)年12月には住都公団による賃貸住宅と商業業務棟が完成し、12(2000)年11月に目白橋の架け替えと目白駅舎の改築(※44)、14(2002)年3月に地下自転車駐車場(※45)、同9月に駐輪場の地上部にあたる駅前交通広場と目白通り横断地下通路がそれぞれ完成し、目白駅周辺の景観は様変わりしたのである(※46)。
 また駅広協議会は、目白駅周辺整備を駅前広場と清算事業団用地の2か所だけに終わらせず、さらに広がりのあるまちづくりにつなげていこうとその後も検討を重ね、平成9(1997)年3月に「目白駅周辺地区街づくり計画」をまとめた(※47)。そして翌10(1998)年10月、この計画に基づき、目白駅周辺地区のまちづくりルールとなる「目白駅周辺地区地区計画」が都市計画決定された(※48)。
 この活動を機に、目白駅周辺地区整備推進協議会(現・目白地域協議会)は現在に至るまで、道の名付け親運動(平成15年度)、目白通りの歩道拡幅・並木の復活(17年度)、目白古道の整備(24年度)、銀鈴の坂エレベーター設置(令和元年度)など、区と連携してさまざまなまちづくり提案を具体化してきた。こうした長期にわたる連携関係を可能にした理由のひとつには、推進協議会が特定の事業のためだけに設置された組織ではなく、目白をより暮らしやすいまちにしたいという地域住民の発意によって誕生し、目白通りを軸に展開される様々なまちづくり事業において常に行政との調整窓口の役割を果たしてきたことが挙げられる。
 そしてもうひとつの理由は、推進協議会のワーキンググループの役割を担う「目白まちづくり倶楽部」(以下「まちづくり倶楽部」)の存在であろう。このまちづくり倶楽部は「目白の森」の保存運動をきっかけに誕生したボランティア組織である。現在、区民の森として親しまれている「目白の森」は、目白4丁目の旧升本邸約千坪(3,200㎡)の敷地に約120本(うち10本は幹周125㎝以上の保護樹林に相当する高木)の樹木が生い茂る屋敷林だった。平成6(1994)年、その土地が売却され、マンション建設の計画が持ち上がった。3月28日、建設事業者から前年7月に施行されたアメニティ形成条例に基づき樹木伐採の届出があり、それを受けた区が現地調査を開始したところ、事業者の言い分とは異なり、近隣住民の大半は樹木の保存を望んでいることが判明した。そして5月9日には、1,700人を超える署名を集めた近隣住民たちにより、「目白4丁目旧升本邸の樹木林の豊かな緑の景観と環境を保全するための請願」が区議会に提出されたのである。請願の趣旨は、当該敷地を区に買い上げてもらいたい、それが財政上の問題で断念せざるを得ない場合は、既存の樹木を極力生かす建築計画とするよう指導してほしいという内容で、マンション建設計画に真っ向から反対するのではなく、あくまでも貴重な樹木の保存を求めるものであった。
 一方、調査を行った区も6月3日、建設事業者に対して保護樹林相当樹木の保存とその他の樹木についても可能限り計画に取り入れるようにとする指導書を出したが、同20日の事業者からの回答は指導内容の受け入れは不可能であり、区が当該地を適正な価格で買い上げるといった新たな展開が見られない限りは届出に従い、近日中に適正な手段で伐採に着手するというものであった。強制力を持たない条例には限界があり、10本の保護樹林相当樹木もすべて伐採の対象とされた。
 こうした中、区議会区民建設委員会では7月4日に請願の審査が行われ、何とか請願の趣旨に添えないか様々な議論がなされ、区による買い上げはとても無理としても、樹木の保存については区議会としても強く求める要望書を出すべきとの意見で一致し、審議は次回委員会へ継続された。そして2日後の6日、委員会冒頭で急遽、助役から区が買い上げる方向で検討する旨の発言があり、それを受けて委員全員が区の方針に意義なく同意する考えを示し、請願は採択されたのである(※49)。当該樹林は区内にわずかに残されたかけがえのない自然林であり、今失えば二度と手に入れることはできないと判断し、伐採を目前にしての切羽詰まった状況の中で、無理をしてでもその環境を守ろうと、区としてはぎりぎりの決断であった。
 こうして区は旧升本邸敷地を約26億円で買収し、屋敷林の自然をそのまま生かした「区民の森」公園として整備、平成9年4月29日(みどりの日)、並行して整備を進めていた「池袋の森」と同時に「目白の森」をオープンしたのである(※50)。
 この保存運動に関わったのが市民グループ「まちづくり倶楽部」であり、保存運動での成果を得て、さらに街づくりに地域区民の声を活かそうとの意思で推進協議会にも参加することになった。メンバーには建築家や都市計画家等の専門家も加わっているため、街づくりのイメージを具体的に描いて提案することができ、推進協議会のワーキンググループとして機能している。目白駅周辺地区整備推進協議会が地域代表組織としての顔であるならば、そのバックで具体的な提案づくりを担うのがまちづくり倶楽部と言える。その両者がうまく噛み合い、目白のまちづくりは長く区民参加のもとで進められてきた(※51)。
 また、まちづくり倶楽部は地域の文化的・歴史的資源を調査研究し、平成18(2006)年にはそれらを巡る回遊ルートや沿道整備案をまとめて区長に提言した。さらに19(2007)年には地域固有の価値ある資源を地域に住む人々にも再発見してもらおうと、マップ「目白選集」を発行するなど、地域に根ざした活動も継続している(※52)。「目白の森」で生まれたひとつのサクセス・ストーリーが市民活動の原動力となり、さらなるまちづくり活動へとつながり、次々にその成果を具体化し続ける希有な事例である。
旧目白駅舎(左)と改築後の目白駅舎(平成12年11月完成)
目白の森(左)にオブジェとして蘇った樹齢250年の楠の切株(平成11年10月)(右)目白のまちづくり提案(平成18年8月)

地区整備方針・アメニティ

 以上、市街地再開発、都市高速道路、駅周辺整備の3つの事例を通し、大規模な都市開発事業における地域住民との調整プロセスをたどってきたが、そこからは、まちづくりに対する人々の意識にふたつの大きな変化が読み取れる。
 ひとつは、従来の行政主導型の都市開発から地域住民が自分たちのまちの将来を考え、まちづくりに参加するスタイルの広がりである。それには前項で触れたように、街づくり公社の活動がきっかけとなって誕生した、各地域の街づくり協議会活動がその土壌を醸成したと言えるだろう。また目白の事例のように、地域を共に創り上げる喜びや提案が形になっていく手ごたえ、住民同士のつながり、達成感など、地域の中で得られる体験を通じ、より主体的なまちづくり活動へと発展してきたものもある。
 もうひとつは、まちづくりそのものに対する意識の変化である。戦後の復興期から高度成長期へと移行していく中で、都市開発事業は人々の生活を豊かにする進歩の証として、むしろ好意的に捉えられていた。しかしそのひずみが大気汚染や騒音等の公害問題となって顕在化するに伴い、次第に環境問題に対する意識が高まっていった。さらには地域固有の文化や街並みの保全といった、便利さとは別の「豊かさ」を求める意識がまちづくりにも新たな視点を求めるようになった。
 そして、こうした人々の意識の変化に対応して、まちづくりの新たな課題として「アメニティ」が登場してくる。
 豊島区の施策の中に「アメニティ」という言葉が初めて登場するのは、平成2(1990)年7月に策定された「地区別整備方針」であった(※53)。この方針は区内を地理的文化的にまとまりのある13の地区に分け、それぞれの地区ごとに目標と施策の方向を示し、将来の姿と街づくりの状況を可視化することによって街づくりを計画的・総合的に進めていくことを目的としていた。区の基本構想・基本計画の分野別計画に位置づけられ、また各地区の特性を活かした街づくりを進めていくガイドラインとなるもので、後の「都市計画マスタープラン」(現「都市づくりビジョン」)の原型と言える。
 この方針の中で「土地利用の方針」「道路網形成の方針」などとあわせ、7つの都市整備の方針のひとつに掲げられたのが「アメニティの形成」である。「人々の生活に密着した環境と空間の質の面を重視した、うるおい、住み心地、にぎわいなどの言葉に象徴される概念」と定義づけ、「豊島区のような都市においては、アメニティの形成、特に歩行者・生活者の視点から見た戸外空間の快適性を確保していくことが必要である」との基本的な考え方を示した。「環境と空間の質」というやや抽象的な表現ではあるが、「アメニティ」は社会経済状況や人々の意識の変化を踏まえ、利便性優先の街づくりから人間性重視の街づくりへの転換を志向する新たなキーワードであったと言える。また、「戸外空間の快適性の確保」には、行政が行う公共事業だけではなく、民間の建築・開発に対する規制・誘導も含まれ、また、単にみどりや街並みの整備といったハード面だけではなく、地域の歴史や文化、にぎわいなどソフト面も視野に入れたものとされ、この新たな「アメニティの形成」という視点は、それまで個別バラバラに取り組まれてきた事業を地域を軸に束ね直し、総合的なまちづくりを展開していくための包括的な指針として位置づけられたのである。
 平成4(1992)年6月、この方針に基づき策定された「アメニティ形成基本計画」(※54)は、「①骨格的な地域環境の保全と創出、②公共施設のアメニティ形成、③民間建築に対するアメニティ形成の誘導、④アメニティニーズへの積極的対応」の4つの柱のもとに施策を体系化し、その実現性を担保する手法として「①アメニティ条例等の策定、②アメニティ委員会・アドバイザー制度の創設、③各種「ガイドライン」「アメニティアイデア集」づくり、④アメニティ担当部局の設置、⑤アメニティ予算1%システムの創設、⑥景観シミュレーション等の予測システムの運用」の6項目を掲げている。アメニティ政策形成には庁内各部署にまたがる事業を束ね、それをマネジメントしていくための組織や仕組が必要であり、まずは区が整備する公共施設に「アメニティ」の考え方を反映させていくことが求められた。そして同時に、区民にとって目新しい「アメニティ」という考え方を目に見える形で分かりやすく示し、その理解を広めていくことが重要であった。とりわけ目白の例のようにマンション建設問題が各地で頻発する状況では、地域環境と調和する開発を誘導するために民間開発事業者に対して明確な基準(ガイドライン)を示すことが必要とされたのである。
 平成5(1993)年3月、この計画に基づき、区は全国自治体に先駆けて「アメニティ形成条例」を制定(※55)、同年7月の条例施行に伴い、「建築行為等に関する事前届出制度」をスタートさせた(※56)。また、計画を推進する専管組織「アメニティ推進担当課長」(平成12年度都市計画課に統合)を新設するとともに、「アメニティ形成審議会」を設置し、各種ガイドラインの検討を開始した(※57)。翌6(1994)年、審議会の答申に基づき、染井・雑司が谷・池袋を、豊島区を特徴づける骨格的な地区として特別推進地区に指定し、各地域のアメニティ形成指針となる地区ガイドラインを策定した(※58)。さらに、アメニティ意識の普及・啓発を図るため、アメニティ形成に寄与している建築物等を表彰するアメニティ形成賞を創設するなど、次々に先駆的なアメニティ施策を展開していった。ちなみにこの表彰は平成6(1994)年度に続き7(1995)年度、10(1998)年度と3回実施され、以下の物件が受賞した(※59)。その受賞対象は街路や公園のほか、歴史的建造物から民間住宅、さらには池袋第三小学校緑のモデル校事業(池三小緑の会)や私の庭・みんなの庭(お庭クラブ運営委員会)など、住民参加のコミュニティ活動まで幅広く選定されている。
 こうして、平成期初頭から10年代にかけて、アメニティ形成基本計画に基づく施策が多面的に展開されが、平成11(1999)年4月に都市計画道路補助172号線沿道を新たに特別推進地区に指定し、地区ガイドラインを策定して以降(※60)、条例に基づく届出制度の運用以外に、際立った施策展開は見られなくなる。まちづくりに対する人々の意識の変化を背景に、まちづくりの包括的な指針を提示した意義は大きかったが、「アメニティ」という言葉そのものがやや概念的・抽象的であったため、その考え方が区民の間に十分に浸透しなかった側面もあったと思われる。そして平成16(2004)年の景観法施行に伴い、法に基づく景観行政団体へ移行するため、平成28(2016)年3月、アメニティ形成基本計画とアメニティ形成条例は、新たな景観計画、景観条例へと受け継がれることとなったのである(※61)。
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