介護保険制度スタート、特別養護老人ホーム「山吹の里」を小渕首相が視察(平成12年4月1日)介護保険制度スタート、特別養護老人ホーム「山吹の里」を小渕首相が視察(平成12年4月1日)

 戦後の復興期から高度経済成長へ続く日本経済の目覚ましい発展は、それを支える労働力を地方から求め、東京圏へ大量の人口流入をもたらした。先の戦争により昭和20(1945)年に10万人を切っていた豊島区の人口(国勢調査)も10年後の昭和30(1955)年には30万人を超え、40(1965)年には37万人にまで達した。しかしその頃になると都心部を中心に地価の上昇が激しくなり、次第に郊外へ転出する人々が増加し、人口の外延化、いわゆるドーナツ化現象が生じるようになった。こうした傾向は豊島区でも同様で、昭和40(1965)年以降、人口は減少に転じ、50年代半ばに再び30万人を割って以後、平成初頭まで減少傾向は続いた。
 一方、世帯数(国勢調査)は40年代に入っても増加を続け、ファミリー層を中心に転出者が多くなった50年代以降もずっと12~13万世帯のまま、ほぼ横ばいで推移していた。このため30年代では一世帯当たりの人数は約4人だったものが年々減少していき、40年代には3人を切り、さらに平成初頭には2人を切るまでとなって単身世帯が過半数を占めるようになっていった。
 また年齢構成でも、昭和40(1965)年には総人口に占める15歳未満の年少人口割合は17.1%と、65歳以上の高齢者人口割合4.3%の約4倍だったが、その差は急速に縮まり、平成2(1990)年には年少人口割合11.1%に対し高齢者人口割合は12.5%と逆転する。さらに平成12(2000)年には年少人口割合8.4%に対し高齢者人口割合18.4%と2分の1以下にまで下がり、その後もその傾向に歯止めがかからない状況が続いている(※1)。
 戦後の著しい人口動態の変容は人々の暮らしに大きな影響を及ぼしたが、なかでも昭和の終わりから平成にかけてのこうした人口変動は、個人の生活にも地域社会にもさまざまなひずみもたらした。少子高齢化の進行や単身世帯の増加、特に一人暮らし高齢者の増加は著しく、また40万人を超える昼間人口や年間の転出入者数が人口全体の1割にも上る流動性の激しさ、さらに平成に入ってから急増した外国人住民など、多様な人々が多様な価値観、多様な生活様式で暮らすようになった地域社会では、それゆえに住民相互の関わりが希薄になり、家族や個々人の孤立を招くなど、時代とともにさまざまな課題が浮かびあがってきた。
 こうした地域社会の変容を背景として、前節では主に施設などの整備に関わる「街づくり」に焦点をあて、平成バブル崩壊前後の動きをたどったが、本節では福祉や教育等の区民生活に直接かかわる政策分野を中心に、複雑多様化する都市課題にどのように対応していったのかをたどっていく。

基本構想・基本計画

 平成期の福祉や教育分野の政策を見るにあたって、まず区の総合計画である基本構想・基本計画について概観する。
 昭和50(1975)年の地方自治法改正を受け、昭和56(1981)年、「みんなできずく生活文化都市としま」を将来像に掲げる基本構想が制定された(※2)。そしてこの基本構想に示された施策大綱の「文化をはぐくむまち(文化・教育)」、「生活を尊重するまち(福祉・保健)」「活力のあるまち(地域経済)」「災害につよいまち(防災対策)」「うるおいのあるまち(都市整備)」の5つの柱のもとに39の計画事業を体系化したものが、翌57(1982)年11月に策定された豊島区初の総合計画となる基本計画(昭和58年度からの10か年計画)である(※3)。
 この基本構想・基本計画の策定経緯は豊島区史通史編四(※4)「都市化の進行とコミュニティの模索」に記されているが、地方自治の拡充や都区制度改革が進む中、基礎的自治体としての責務を明確にし、「生活文化都市」実現への指針を示すことにその策定意義があったと言える。だが、将来像に「みんなできずく」と住民参加を謳ってはいるものの、当時はようやく一部の会議に区民委員の枠を設ける程度で、また掲げられた計画事業の大半は公共施設の整備で占められるなど、いわゆる「ハコモノ行政」を超えるものではなかった。とは言え、当時の区内各地域の様相は、いずれも戦後の急激な都市化とそれに伴う人口増に公共インフラ整備が十分に追い付いているとは言えず、高度経済成長の余韻が残る中、「区民福祉の向上=公共施設整備」という図式が成り立っていたのは無理からぬことだった。
 そしてこの時代の潮流に乗り、基本構想・基本計画の実現を公約に掲げ、昭和から平成への転換期12年間を担った加藤区政は、平成元(1989)年に基本計画を補完する公共施設整備中期計画を策定して、さらに公共投資を拡大させていったのである。
 しかし前節でも述べたように平成3(1991)年のバブル崩壊後、区の歳入は一気に落ち込み、平成5(1993)年以降、長引く不況により公共施設整備は大きな曲がり角を迎える。そのような中、先の計画策定から10年が経過したのを機に、区は新たな基本構想・基本計画の策定に着手し、平成7(1995)年3月、「暮らし豊かにこころ輝く都市」を将来像とする基本構想を制定(※5)、9(1997)年1月には新たな基本計画(平成9年度からの10か年計画)を策定したのである(※6)。
 この新基本構想は、それまでの右肩上がりの日本の社会経済が大きな転換点を迎える中、前構想の理念を継承発展させつつ、その後の長引く平成不況の時代にはまぶしいほどの将来都市像を掲げながら、新たな地域社会づくりの方向を定める指針として制定された。この基本構想を踏まえ、策定された基本計画は21世紀初頭の社会を念頭に「いきいきと健康に暮らす」「豊かな人間性を育てる」「多様な活力を生み出す」「ゆとりある生活空間をきずく」「美しい環境と共生する」の5つの柱のもとに98の計画事業を分野別計画として体系化し、合わせてそれらの事業を区内5地域に落とした地域別計画を提示した。しかし先の見えない財政状況下では、事業ごとに示されるはずの実施年次や数量目標等は明示することができず、具体的な内容は改めて実施計画で明らかにするとされた。つまりこの基本計画は財源的な裏付けが不透明なまま旗揚げした格好で、個々の事業の実現性だけでなく、基本計画そのものの成否さえも行財政改革の取り組み如何にかかっていたと言えるものだった。そしてその基本計画と同時に策定された計画事業実施計画(※7)と行財政改革計画(※8)は、いずれも平成9~11(1997~1999)年度のわずか3か年を計画期間としながら、実施計画には基本計画98計画事業のうち71事業が事業費総額約633億円と想定して盛り込まれたのである。だが行財政改革計画は計画初年度の平成9(1997)年度予算編成時になんとか36億円の財政効果を生み出したものの、96億円にのぼる財源不足を埋めるには遠く及ばず、残りの60億円は基金の繰入・運用で賄うことになった。この広がってしまった収支の不均衡を一気に縮めることは容易ではなく、結局、基金運用に頼らない財政運営への道は依然として開かれなかったのである。
 こうして、急速に進む少子高齢化や地球規模の環境問題、男女共同参画、国際化など、前計画以降に生じた様々な課題を取り込みながらも、財政面での大きな不安を抱えたまま第2期基本計画はスタートした(下図表1-④「昭和57年策定と平成9年策定の基本計画施策体系」参照)。この例に見るまでもなく、区の政策・施策を総括する基本計画はどうしても策定時の社会経済状況や地域社会の様相を色濃く反映しやすく、またその時々の財政状況に大きく左右されるため、とりわけ変化が激しい時代にあってはともすると絵に描いた餅になりかねない危うさを孕むことになるのである。
図表1-④ 昭和57年策定と平成9年策定の基本計画施策体系 【昭和57年策定】
【平成9年策定】

高齢社会対策総合計画・地域高齢者住宅計画

 昭和40年代以降、日本の高齢化は諸外国の中でも例を見ない早さで進み、65歳以上の高齢者人口が全人口の7%を超えるいわゆる「高齢化社会」迎えた昭和45(1970)年(7.1%)から四半世紀後の平成7(1995)年(14.6%)には「高齢社会」となり、そのわずか10年後の平成17(2005)年には20.2%となって「超高齢社会」に突入した。さらに団塊世代が75歳以上の後期高齢者となる令和7(2025)年には高齢化率は30%に達すると推計され(内閣府:令和2年版高齢社会白書)、高齢者対策は喫緊の課題だった。
 豊島区の高齢化率は昭和40(1965)年に4.3%(全国平均5.7%)、45(1970)年に5.4%(全国平均7.1%)と昭和40年代は全国平均を1ポイント以上下回っていたが、50年代に入るとその差は次第になくなり(50年7.0%:全国平均7.9%、55年9.0%:全国平均9.1%)、60年代以降は全国平均を上回り(60年10.6%:全国平均10.3%、平成2年12.5%:全国平均12.0%)、急速に高齢化が進行していた(前掲:豊島の統計平成18年版[国勢調査])。
 こうしたことから区は近い将来、確実に高齢社会が到来することを想定し、高齢化対策を区の重点施策と位置づけ、複雑化する地域社会の実態に即した施策の展開を模索していった。まず昭和63(1988)年4月、この対策を全庁的にリードする「高齢化対策室」を設け、翌平成元(1989)年5月には区長の諮問機関として「高齢社会対策審議会」を設置し、今後の施策展開の軸となる「高齢社会対策総合計画」の策定に向けた検討をスタートさせた。
 平成元(1989)年区議会第1回定例会開会にあたり、加藤区長は所信表明の中で総合計画策定の意義を次のように述べている(※9)。
-急速な人口の高齢化、長寿化に対応し、区民それぞれの多様な生活設計に適切に応え得る施策を効果的に推進していくためには、高齢社会の問題を単に高齢者の問題としてのみではなく、すべての世代にかかわる複合的な事象として幅広くとらえ、その対応を早くから進めておくことが重要であります。このような考え方のもとに、昨年四月に福祉部内に高齢化対策室を設置し、さまざまな施策を福祉的視点から総合的・体系的に推進していくための「高齢社会対策総合計画」の策定に向けて、目下、準備を進めているところでございます。高齢社会対策総合計画は、豊島区基本構想の基本理念のもとに、二十一世紀初頭の本格的な高齢社会を展望した、総合的な福祉基本計画として位置づけ、平成三年度を初年度とする十カ年計画として策定してまいりたいと考えております。
 その上で、当時、特に緊急性が高かった高齢者の住宅確保については、総合計画の策定に先行して前倒しで進めていく方針を明らかにした。
 戦後復興期から高度成長期にかけ、地方から仕事を求めて転入してきた人々のために建てられた木造賃貸住宅がこの時期一斉に更新期を迎え、建替えによる立ち退きやそれに伴う家賃の上昇等により住宅確保が困難になる高齢者が増えていたのである。そこで区は平成2(1990)年3月、急遽、「地域高齢者住宅計画」(※10)を策定し、さらに翌2年度を「高齢者住宅元年」に位置づけて住まいに困窮する高齢者の住宅確保に動き出した。そして翌3(1991)年6月、高齢者が安心して暮らせるよう緊急通報装置や生活協力員を常駐させた福祉住宅第1号「要町つつじ苑」(16戸)を開設したのである。この施設は民間の土地所有者に一定の条件で建設してもらった集合住宅を区が一括して借り上げたもので、16戸の入居募集に対して14倍を超える226人の応募があった。これは区内高齢者の住宅問題がいかに深刻かその切実さを物語るもので、この状況を踏まえ、区は借り上げ住宅のほか区が独自に建設したものも含め、11(1999)年度までに計13団地230戸の福祉住宅を整備していった。
 一方、平成2(1990)年12月、およそ1年半の審議を経て高齢社会対策審議会の答申が出され、これを受けて翌3(1991)年1月、「地域高齢者住宅計画」をも取り込む形で「高齢社会対策総合計画」(以下「総合計画」)を策定した(※11)。
 平成12(2000)年度までの10か年を計画期間とするこの総合計画は以下の4つの基本目標のもとに8つの課題を設定し、それぞれの課題に対応する分野別計画に高齢者住宅400戸・ケアハウス100戸、高齢者在宅サービスセンター13施設(10施設増)、特別養護老人ホーム3施設(2施設増)等の施設整備を含む120の事業を体系化した。あわせて総合計画を推進していくための庁内組織として平成3(1991)年4月に区長を本部長とする「高齢社会対策推進本部」を設置し、翌5月に区民参加による「高齢社会対策推進区民会議」、6月には「福祉のまちづくり推進会議」を設置するなど、推進体制を迅速に整えていった。
  • ○高齢社会対策総合計画の施策体系
  • (1)安心して生活するために
  •   ① 在宅福祉の推進
  •   ② 施設福祉の拡充
  • (2)健やかに生活するために
  •   ③ 健康の保持・増進
  •   ④ 地域保健医療の充実
  • (3)快適に生活するために
  •   ⑤ 住宅の確保
  •   ⑥ 福祉のまちづくり
  • (4)豊かに生活するために
  •   ⑦ 社会参加と参画の促進
  •   ⑧ 生涯学習の推進
 この基本目標の(1)に掲げられているのは、高齢者が地域で安心して生活していくためには在宅福祉と施設福祉双方の充実を図り、それぞれの施策を有機的に連携させていく必要があるとの基本認識である。それまで家族の役割とされてきた在宅介護に対する施策は、区としてはまだ緒に就いたばかりの分野で、その後の高齢化のスピードを考えれば最重要課題として挙げられたことが伺える。また基本目標の(2)では保健・医療分野の施策の展開を掲げているが、これは当時、区の組織では福祉部門と保健所が別だったことから、組織の縦割りの弊害を排し、高齢者の生活を支えるという点で両分野が連携し、横断的に取り組んでいくことを意図するものであった。
 この計画の策定にあたり、区は平成3(1991)年4月から8月にかけて高齢者実態調査を実施している(※12)。この調査は65歳以上の一人暮らし高齢者4,524人と高齢者のみで構成される2,703世帯5,477人を対象に、民生委員による訪問聞き取り方式で実施したものだが、とりわけ高齢になるほど住み慣れた家で暮らしたいという人が多く、将来寝たきりになった場合にどこで過ごしたいかとの問いに対しても「可能な限り現在の住まい」と回答した割合が最も高いという結果が出ている。しかし将来の療養先に関する回答結果については高齢者世帯と一人暮らし世帯とではその回答に違いが見られた。「可能な限り現在の住まい」と回答した割合は高齢者世帯で39.3%だったのに対し一人暮らし高齢者は22.0%にとどまった一方、「特別養護老人ホーム」と回答した割合は高齢者世帯の4.7%に対し一人暮らし高齢者は13.6%と3倍近くにのぼった。また近所づきあいについても「つきあいがない」と答えた割合は高齢者世帯の6%に対し一人暮らし高齢者は14.5%と高かったことからも、一人暮らし高齢者の孤立が懸念される実態も明らかになった。
 そこで区はこれらの調査結果を踏まえ、それぞれの高齢者が置かれた状況に応じたきめ細かなサービスを提供していくため、在宅介護を支える各種サービスを提供する高齢者在宅サービスセンターと、在宅での介護が困難となった高齢者を受入れるための特別養護老人ホームの整備の充実を図ることとした。
 従来の高齢者住宅に加え、新たに高齢者在宅サービスセンターと特別養護老人ホームの整備を強力に進めるとともに、デイホームやショートステイ、配食サービス等を提供する高齢者在宅サービスセンターについては、既に開設していた3施設(高田豊寿園、東池袋豊寿園、山吹の里)に加え、長崎第一豊寿園(平成3年6月)、千川豊寿園(4年6月)、長崎第二豊寿園(5年6月)、巣鴨豊寿園(5年12月)、アトリエ村(6年6月)、風かおる里(8年5月)、いけよんの郷(9年4月)、菊かおる園(11年5月)、上池袋豊寿園(11年6月)と、平成11(1999)年度までに新たに9施設を整備し、計12施設を区内各地域へ配置した。
 これらの施設整備と並行し、区は高齢者の在宅生活を支える新たなサービスを展開していった。平成5(1993)年9月に創設した「財産保全サービス制度」(※13)もそのひとつで、日常生活において財産管理が極めて困難な一人暮らし高齢者等を対象に、財産の管理や手続き等を区が代行するというものである。社会福祉協議会がその窓口となり、必要な場合には高齢者等の所有資産を担保に生活費や福祉サービス利用料等を融資することにより、高齢者が在宅のまま自立した生活をおくれるよう、経済的側面から支援する制度であった。
 また平成8(1996)年7月には「24時間巡回型ホームヘルプサービス事業」(※14)を区の北東部地域で試行的に開始した。この事業は常時介護を必要とする高齢者等を抱える家庭に対し、深夜帯を含めた24時間巡回型でホームヘルパーを派遣するもので、それぞれの状況に応じて作成したケアプラン(援助計画)に基づき巡回時間や回数が組まれた。この事業をスタートさせるにあたり、前年に実施した「寝たきり高齢者等の介護者の健康に関する調査」でも介護者の2割近くが75歳の高齢者で、介護者の多くが肩こりや腰痛、疲労などの自覚症状を覚え、「自分の自由時間がない」「精神的ストレスがある」などの悩みを抱えている実態が明らかになっていて、寝たきりの高齢者本人はもとより、介護家族への支援が大きな課題となっていた。それが試行開始から4か月後に行った利用者アンケートでは、利用者本人の生活の質が改善するとともに介護者の身体的・精神的な負担軽減などの効果が見られ、その結果を踏まえ、区はその後順次、実施区域を拡大し、平成11(1999)年10月からは区内全域で実施するようになった。
 さらに保健・医療分野との連携では、平成5(1993)年4月に在宅介護の総合相談窓口となる「高齢者介護相談センター」を開設し(※15)、在宅療養中の高齢者や介護家族のさまざまな悩みや相談に応じるとともに、訪問看護指導や福祉ヘルパーの派遣など保健分野と連携した事業を展開していった(平成8年度中央保健福祉センターに移行)。また翌6(1994)年1月には豊島区医師会の協力のもと、寝たきりの在宅高齢者を対象に看護婦等が介護に重点を置いた看護サービスを提供する「訪問看護ステーション」を開設(※16)、9(1997)年4月には身近な地域のかかりつけ医を紹介する「かかりつけ医療制度」を導入するなど、地域医療との連携による新たな仕組みづくりを進めていった。
 こうした多元的なサービス提供体制を確立していく一方、高齢者が安心して地域で暮らしていくためには、地域区民の参加や協力が不可欠であった。そこで区は社会福祉協議会(現・豊島区民社会福祉協議会)に委託し、平成3(1991)年10月、通称「リボンサービス」と呼ばれる会員制在宅福祉サービスをスタートさせた(※17)。この会員制サービスは、専門家等で構成された「高齢者在宅サービス推進委員会」が在宅福祉の新たなあり方についてまとめた最終報告(※18)の中で構想され、それを事業化したものである。日常生活の中でちょっとした手助けを必要とする高齢者が利用会員となり、この事業の趣旨に賛同し提供できるサービスや時間をあらかじめ登録した区民が協力会員となって家事援助や外出介助等を行う有償サービスで、地域の中での新たな支え合いの仕組みづくりをめざすものであった。また翌4(1992)年6月には家庭介護に必要な知識や技術を習得したい人やホームヘルパーとして働きたい人を対象とする「ホームヘルパー等養成講習会」をスタートさせた。この講習会は以後10年ほど開催され、家庭介護や在宅介護を支えるマンパワーの裾野を広げていった。
 一方、施設福祉の基盤となる特別養護老人ホームの整備については、平成元(1989)年4月に開設した「山吹の里」(※19)に加え、「アトリエ村」(6年4月開設 ※20)、「風薫る里」(8年5月開設 ※21)、豊島区初のケアハウス併設した「菊かおる園」(11年5月 ※22)を順次建設し、総合計画が数値目標として掲げた3施設を上回る4つの区立施設を整備した。また区が建設費を助成し、社会福祉法人により整備された「ゆたか園」(8年4月開設 ※23)と、区内で最も早く開設された「養浩荘」(昭和56年開設)の民間2施設を合わせ、介護保険制度がスタートする平成12(2000)年度には区内に6つの特別養護老人ホームが整備された。
 しかしこうした急ピッチの整備も高齢化の進行には追いつかず、特別養護老人ホームへの入居待機者は年々増加傾向にあり、さらなる施設需要の増加が見込まれた。第1章で記したように特別養護老人ホームのような大規模施設を整備するには莫大な経費がかかり、用地取得費を含めると、この区立4施設だけでその整備費総額は200億円を超えていた。必要に迫れられて建設したものではあるが、こうした投資的経費の拡大は結果的に区財政の悪化を招き、以後、特別養護老人ホームの建設は民間事業者による整備を誘導するという方向に転換していくことになった。また区立施設の運営についても民間委託、さらに民営化方式へと移行していった。
 その先鞭をつけたのが、平成6(1994)年3月31日に設立した社会福祉法人「豊島区社会福祉事業団」である(※24)。区が基本財産を出資し、同年4月開設の「アトリエ村」やその後に整備する特別養護老人ホーム、高齢者在宅サービスセンター等の運営委託先として設立された。この新たな外郭団体については、総合計画の中で「新しいサービス組織の開発」として位置づけられていたもので、受託施設の安定的な運営はもとより、民間法人ならではの独自性や柔軟性を活かした新たなサービス提供主体としての役割が期待された。
 同じく6(1994)年3月、区は「高齢者保健福祉計画」(※25)を策定するとともに「高齢者福祉施設整備基金」を創設した。この計画は老人福祉法及び老人保健法の一部改正に伴い各区市町村に「老人保健福祉計画」の策定が義務づけられたことを受け、区の総合計画を補完する計画として策定されたもので、計画期間も総合計画の終了年度に合わせて平成12(2000)年度までとされた。同計画は前年に実施した高齢者ニーズ調査や今後の高齢者人口予測などに基づき、計画期間内に実施すべき基幹的な福祉・保健サービスの目標量を数値化しているが、その目標量は総合計画策定当初の数値を上回り、施設建設だけで約320億円もの整備費が見込まれた。このため区は同年区議会第1回定例会に、積立金約52億円を盛り込んだ補正予算案とともに施設整備のための基金設置条例案を提出し、議会の議決を経て「高齢者福祉施設整備基金」を創設した。しかしこの基金もまた庁舎等建設基金と同様、区財政が逼迫するに伴って財源不足を埋めるために運用され、わずか4年後の平成10(1998)年度には実質的に底をついた。
 待ったなしに進行する高齢化は家族や地域社会にさまざまなインパクトを与え、特に介護問題は、本人はもとより、家族にとっても社会にとっても計り知れない負担と影響をもたらす。そのような状況を踏まえて総合計画が果たした役割を改めて振り返ると、施設整備のための投資的経費の拡大が区の財政悪化を招いた側面があったにせよ、介護保険制度をはじめとする、その後の区の高齢化対策の重要な基盤を形成するものであったと言えよう。
高齢社会対策審議会(平成元年5月設置)
高齢者在宅サービスセンター「高田豊寿園」(昭和62年12月開設)
特別養護老人ホーム「山吹の里」(平成元年4月開設)

福祉のまちづくり

 介護保険制度導入の経緯をたどる前に、総合計画の基本目標(3)に「住宅の確保」とともに課題としてあげられた「福祉のまちづくり」について、その契機となった障害者福祉施策の動向も含めここで触れておく。
 「福祉のまちづくり」とは障害者や高齢者等の生活圏の拡大を図るため、公共施設や商業施設、交通機関等のバリアフリー化を進めていく取り組みである。こうしたバリアフリーの考え方は当初、障害者福祉の分野から生まれたものであり、その契機となったのは昭和56(1981)年の国連総会での「国際障害者年」宣言であった。ノーマライゼーションの理念に基づき障害者の「完全参加と平等」を謳ったこの宣言の目的のひとつに、「障害者が公共の建物及び交通システムを利用しやすいよう改善することをはじめ、障害者の日常生活における実際的な参加を容易にするための研究・調査プロジエクトの実施を奨励する」ことが掲げられたのである。そして「障害のある人が社会生活をしていく上で障壁(バリア)となるものを除去する」というバリアフリーの考え方は国内においても次第に広まり、公共施設や交通機関のみならず教育や雇用等の制度面の障壁も含めたバリアフリー化が図られていった。それが昭和60年代から平成にかけて、障害者だけではなく「障害の有無、年齢、性別、人種等にかかわらず多様な人々が利用しやすいよう都市や生活環境をデザインする」というユニバーサルデザインの考え方へと発展していったのである。 
 そうした流れは国の「ハートビル法」(高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律、平成6[1994]年9月施行)や「交通バリアフリー法」(高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律、平成12[2000]年11月施行)、さらに両法を統合した「バリアフリー法」(高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律、平成18[2006]年12月施行)などの法制度の整備や「ユニバーサルデザイン政策大綱」(17[2005]年決定)、「バリアフリー・ユニバーサルデザイン推進要綱」(20[2008]年決定)といった政府方針の進展のなかに見ることができる。
 一方、豊島区において障害者福祉施策が福祉分野の政策の中で体系的に位置づけられたのは平成に入ってからで、障害者基本法(昭和45[1970]年制定)に基づく「障害者福祉計画」(※26)が策定されたのは平成5(1993)年2月のことであった。
 この計画は「障害者の地域自立生活推進豊島プラン」と名付けられ、「障害者の在宅での自立生活の支援」を第一義的な目的に掲げ、障害者福祉に関する施策を総合化、体系化したものである。区はそれ以前から、国際障害者年の翌年にあたる昭和57(1982)年4月に障害者やその家族の相談窓口となる「心身障害者福祉センター」(目白福祉作業所併設)を開設し、障害者の活動や交流を進めるとともに、平成4(1992)年4月にはいわゆる親亡き後対策として「福祉ホームさくらんぼ」(※27)を都内で初めて開設するなど先駆的な取り組みを進めていた。しかし、行動範囲が限定されがちな障害者にとって住み慣れた地域で暮らし続けたいという願いは強く、この計画策定を機に区の障害者福祉施策の中心課題も「施設」から「地域」へ、「在宅」へと転換していったのである。
 また障害者を取り巻く環境も「国際障害者年」を機に少しずつ変化が見られるようになり、彼らを支えるボランティアの増加や地域社会の理解も広がりつつあった。そこで区は障害者の移動を支えるインフラ整備として、平成元(1989)年4月、「福祉のまちづくり整備要綱」(※28)を施行し、公共施設はもとより不特定多数が利用する民間施設も含めたバリアフリー化の取り組みを開始した。
 この要綱の施行に先駆け、区は前年63(1988)年度に「福祉環境整備事業」として約5,300万円を予算化し、豊島荘、区民センター、ことぶきの家、出張所等20か所の区施設で出入口の段差解消や障害者用トイレの設置等のバリアフリー化に着手した。そして要綱施行に伴い、新たに「福祉のまちづくり事業」として平成元(1989)年度に約1億4,800万円を予算化し、東京都芸術文化会館(東京芸術劇場)周辺道路整備をはじめ公園・児童遊園内にある公衆便所の改修等22施設のバリアフリー化を図った。2(1990)年度には事業予算を約2億2,000万円に拡充し、南大塚社会教育会館・南大塚ホールに身障者用リフト・エレベーターを設置するなど18区施設でバリアフリー化を進めていった。
 そしてさらなる事業の展開をめざし、翌3(1991)年1月策定の総合計画の課題のひとつに「福祉のまちづくり」を掲げ、区施設のバリアフリー化を推進していった。それとともに区民や当事者の声を施策に反映させる仕組みづくりに取り組み、平成3(1991)年6月、高齢者団体、障害者団体の各役員、民生委員、地域団体代表等と行政職員とが意見交換する場として「福祉のまちづくり推進会議」(※29)を発足させた。また平成6(1994)年3月には障害者等の視点を取り入れた「やさしいふくしのまちづくりガイドマップ」(※30)を発行した。このガイドマップは区内エリアごとに区施設、官公署、鉄道駅、銀行、病院、主要な文化施設・商業施設などのバリアフリー状況をピクトグラムで表示したもので、障害者を含む区民参加による検討委員会が企画・編集したものである。
 一方、商業施設や銀行、病院など不特定多数が利用する民間施設については、新築・増築または改築する際に「福祉のまちづくり整備要綱」に基づく事前協議を通じてバリアフリー化への協力を求めた。また同年10月に池袋駅を中心とする約1㎢の区域が都の「福祉のまちづくりモデル地区整備助成事業」のモデル地区第一号に指定されたのを受け、池袋駅周辺の公共的施設や公共交通機関等のバリアフリー状況の実態調査や施設管理者等も含めた意向調査を実施し、その調査結果を踏まえて翌2(1990)年3月、「福祉のまちづくりモデル地区整備推進計画」を策定した(※31)。これに合わせて「福祉環境整備(福祉のまちづくり)事業助成金交付要綱」(※32)を施行し、民間施設のバリアフリー化にかかる経費の一部を助成する事業を開始した(上限1か所300万円、1施設700万円)。
 民間施設の中でも特にバリアフリー化の要望が高かったのが鉄道駅である。駅ホームから改札口や街路へ出るための階段の上り下りは、障害者だけでなく高齢者や乳幼児を抱える親たちにとっても大きな障害となっていた。こうした声に応え、区は設置工事費の54.5%を負担し、平成6(1994)年3月にJR巣鴨駅(1基)、続く4月にはJR池袋駅(2基)に車いす対応型エスカレーターを設置した(※33)。また平成13(2001)年5月には「鉄道駅エレベーター等設置事業費助成金交付要綱」(※34)を制定し、区・都・鉄道事業者の三者協働により駅エレベーター等の設置を進めていった(下図表1-⑤「鉄道駅エレベーター等設置事業における助成実績」参照)。
 こうして障害者のためのバリアフリー化に端を発した「福祉のまちづくり」は高齢者にも共通する課題となり、さらに事業開始当初には「障害者及び高齢者等の生活圏の拡大」を目的に掲げていた条文の記述が後に「高齢者や障害者のみならず、すべての人が円滑に社会参加できる環境を創出するため」(改正「福祉のまちづくり整備要綱」第1条 ※35)と書き改められたように、誰もが使いやすいユニバーサルデザインの視点に立ったまちづくりへと進展していったのである。
図表1-⑤ 鉄道駅エレベーター等設置事業における助成実績
障害者福祉計画(平成5年2月策定)
心身障害者福祉センター/目白福祉作業所・生活実習所(昭和57年4月開設)
福祉ホームさくらんぼ(平成4年4月開設)
福祉のまちづくりガイドマップ
バリアフリー情報誌「IKUZO」(平成6年7月創刊)

介護保険制度

 平成12(2000)年4月1日、医療・年金・雇用・労災に続く5番目の社会保険として介護保険制度がスタートした。制度開始に向けた準備段階から運営主体となる各市区町村は様々な対応に追われたが、豊島区での経緯を見る前に、国が介護保険制度導入に至った背景について概観する。
 前述したとおり、日本の高齢化率は昭和40年代以降増加の一途をたどり、介護保険制度の検討が開始された平成初頭には14%を超えて超高齢社会に突入していた。また人口構造の変化に伴い、1人の高齢者を支える20歳~64歳の現役世代の人数は1990年時点で5.1人であったものが、2010年には2.6人となり、高齢者が総人口の約40%となる2060年にはさらに1.2人にまで縮小すると予測されている(2016年11月厚生労働省老健局:日本の介護保険制度について)。
 こうした急激な高齢化に対応していくため、昭和38(1963)年の老人福祉法制定以降、国は老人福祉政策や老人医療制度の改革を幾度となく行ってきた。特別養護老人ホームや訪問介護(ホームヘルプサービス)を制度化した老人保健法制定の背景には、高度成長期の都市への人口集中とともに核家族化が進み、また女性の就業率の増加もともなって、かつては「家族の責任」とされてきた高齢者の介護が困難になってきた状況があった。この法制化に続き、昭和50年代には短期入所生活介護(ショートステイ)事業や日帰り介護(デイサービス)事業等が創設されたが、特別養護老人ホームへの入所にも、またこれらの介護サービスを利用するにも所得制限があり、いずれも社会的・経済的な弱者を公費で支えるという「公助」の仕組みであって要介護高齢者の介護は基本的には家族が担うべきと考える風潮は依然として根強かった。
 一方、昭和48(1973)年に無料化された老人医療費の公費負担は年々増加し続け、高度経済成長の終焉とともに社会保障制度全般の財政基盤を圧迫するに至っていた。このため国は昭和57(1982)年に老人医療費の一部負担を導入し、さらに平成元(1989)年には医療・年金・福祉等社会保障制度の財源に充てるための消費税(3%、9年5%に引き上げ)を創設した。さらに平成に入って寝たきり高齢者の増加や病院での治療終了後も受け入れ先がないため入院し続ける、いわゆる「社会的入院」が社会問題化したため、昭和62(1987)年に老人保健法を改正し、入院終了後も介護が必要な高齢者の在宅復帰を支援するリハビリ施設である「老人保健施設」を制度化した。
 その上でこうした介護施設や在宅福祉サービスの整備をより総合的かつ迅速に推進していくために、平成元(1989)年12月、各施設やサービスの達成目標値を定めたゴールドプラン(高齢者保健福祉推進10か年戦略)を、さらに5年後の平成6(1994)年には整備目標を上方修正した新ゴールドプランを策定したのである。これらプランに基づき、国は10年間で約6兆円を投じ、ホームヘルパーの増員やデイサービス施設の増設、特別養護老人ホームの増床、老人訪問介護ステーションの新設等を図っていった。こうした一連の改革に並行し、平成6(1994)年4月、厚生省に高齢者介護対策本部を設置し、介護保険制度導入に向けた検討を開始したのである。
 国が介護保険制度を構想した背景には、高齢化・長寿命化による要介護高齢者の急増に介護施設等の基盤整備が追いつかず、また従来の老人福祉法や老人医療制度の枠組みでは対応しきれなくなっていた現状があった。前述した通り、老人福祉法等に基づく各種サービスは市区町村が実施する「公助」すなわち措置制度であったため利用者がサービスを選択することができず、また収入に応じて定められた利用料は中高所得層にとって大きな負担となっていた。その一方、老人医療費はその一部が利用者負担とされてもなお介護サービスを利用するよりも負担が軽かったことに加え、介護施設の絶対数が不足していたため施設に入所できない要介護高齢者の「社会的入院」が常態化していたが、介護施設としての機能や体制を備えていない病院での長期入院は、要介護者にとって望ましいものではなかった。
 しかしそうした制度全般の問題以上に深刻だったのは、要介護高齢者を抱える家族の問題であった。平成10(1998)年の「国民生活基礎調査」によれば、65歳以上の要介護高齢者のいる世帯の46.6%が夫婦のみあるいは親と未婚の子のみの核家族で、寝たきり高齢者の主な介護者は同居家族が86.1%を占めていた。また、介護者自身も40.5%が65歳以上の高齢者であり、高齢者が高齢者を介護するという「老老介護」の実態が浮き彫りになった。若い家族がおらず施設に入居するゆとりもなく、身体的にも精神的にも疲弊して共倒れになるケースも珍しくなかった。さらに介護者の性別では女性が85.2%を占めており、続柄も子の配偶者が32.5%、配偶者が28.5%と、いずれも子の22.5%を超えていた。
 この調査結果からは核家族化により家族の中で介護を担う人数が限られるなかで、その負担がひとえに妻や嫁にかかっている現状が読み取れる。家事・育児と同様に介護もまた当たり前のように「女の仕事」と捉えられていたのである。また寝たきりの状態の期間も半数以上が3年以上と長期にわたっており、昼も夜もなく、いつ終わるとも知れない家族の介護のために仕事を辞めざるを得ない「介護離職」も問題となっていた。平成4(1992)年の「就業構造基本調査」によれば介護のための離職者は全国で98,000人にのぼり、そのうちの88,000人が女性だったのである。
 さらに深刻だったのは認知症(当時の呼び方は「痴呆症」、平成16[2004]年に「認知症」に名称改定)の高齢者を抱えた家族であった。「痴呆性老人対策に関する検討会報告書」(平成6[1994]年6月)では平成2(1990)年現在で全国の痴呆性老人数は994,000人と推計されていた。しかしその当時は認知症に対する理解やケアがいまだ確立されておらず、家族が認知症であることを隠したがる傾向さえあった。また認知症の高齢者を受け入れてくれる施設も少なかったため、年齢とともに意思疎通が困難となっていく親や配偶者にどれほどの切なさをもって向き合わざるをえなかったのか想像するに忍びない。
 要介護高齢者の容態が一様でないように、それぞれの介護家族が抱える事情や悩みも様々であったが、高齢化率や介護需要の将来推計などの数値だけでは計れない切実な問題が、地域社会の其処此処で生じていたのである。そしてそうした高齢者介護にまつわる問題が多くのメディアで取り上げられるにつれて、「明日は我が身」という老後に対する不安が国民の間にも蔓延していった。平成初頭期に実施された各世論調査でも、要介護高齢者やその介護家族を社会全体で支える新たな制度の創設を支持する声が6 割以上を占めており、多くの国民にとっても高齢者介護は避けて通れない問題となっていたのである。
 こうした状況を背景に、国が構想を打ち出したのが介護保険制度である。この構想については、平成6(1994)に厚生省に「高齢者介護対策本部」が設置される以前から様々な審議会や検討委員会等の場で議論が重ねられていたが、その論点のひとつが制度を運用するための財源問題であった。厚生事務次官の懇談会として発足した介護対策検討会が平成元(1989)年12月にまとめた報告書は、新たな介護施策の基本的な考え方とめざすべき方向性、サービス内容やその供給体制等を示すとともに、この財源問題に初めて触れ、「①公費、保険料、双方の組み合せのいずれにするのか、②社会保険方式の場合は医療保険制度、老人保険制度、年金制度、単独制度等のいずれの方式とするのか、③現行の措置費制度、特別障害者手当制度等他制度との関係をどう整理するのか」という3つ視点を提示した。その後も厚生省内で検討が重ねられ、平成6(1994)年3月にまとめられた「高齢者介護問題に関する省内検討プロジェクトチーム」報告書では、ケアマネジメントの仕組みや在宅サービスにおける日常生活支援サービスと医療的サービスの一体的な提供など現在の介護保険制度の基となる枠組みを示すとともに、費用負担については保険料・公費・利用者負担を適切に組み合わせることを前提に、市区町村が運営する新たな社会保険制度と既成の老人保健制度をベースに市町村と各医療保険者との協働事業とする2案が提案された。そうした検討を経て平成7(1995)年7月、当時内閣総理大臣の諮問機関であった「社会保障制度審議会」が公的介護保険制度の創設を勧告、翌8(1996)年4月には厚生省の老人保健福祉審議会から最終報告「高齢者介護保険制度の創設について」が発表され、社会保険方式による公的介護保険制度の導入への流れが固められていった。ちなみにこの最終報告には「はじめに-国民の皆様に訴える-」と題する序文が添えられているが、新たな制度への理解を国民に求めるメッセージであるとともに、当時の多くの国民の心情を映し出したものでもあった。その冒頭部分を以下に引用する。
―わが国は、急速に、少子・高齢社会に突入しつつある。
高齢社会においては、すべての人が、老いに伴って不自由な老後の生活に直面するのではないかという不安を強く感じている。老いは避けられず、自分自身の身の始末が思うとおりにできない悩み、老いの孤独、若者社会からの疎外感、若い時代に果たした家族や社会への貢献が評価されなくなるとの思い等が累積する社会を、幸福な社会と言うことはできない。わが国はそうであってはならない。人間としての尊厳が大切にされる社会、高齢者の尊厳と幸せを大きな目標とする社会の実現が今こそ求められている。人はすべて親から生まれ、親の労苦によって育てられたことを想えば、高齢に達した親の平安な老後を看とり、人生の最期まで人間としての尊厳を全うできる介護をしたいと願うのは、誰しも同じである。しかし現実には、高齢者の介護は、それを負担する家族に肉体的、精神的、経済的重圧となり、心で想う介護が全うできず、家族の崩壊や離職をはじめ、様々な家庭的悲劇の原因となる。家族愛に根ざし、社会的な連帯によって高齢者の介護を支える社会を創る時が来ている。
明るい高齢社会の新時代を創るため、高齢者自身の自助努力を基軸としつつ、すべての国民が社会的連帯の精神に基づき、個々の利害を離れてこの問題を考え、痛みを分かちあって必要な社会的負担を受け容れることを訴えたい。
 バブル崩壊後の平成不況の長期化により国も地方も多額の財政赤字を抱えていた中で、公費のみでの実施は極めて困難であり、制度を安定的に運用していくためには国民にも広く負担を求める社会保険方式を採るしかなかったと言えよう。こうして介護保険の財源問題については、サービス利用者の負担を除いた分を税(公費)と保険料でそれぞれ50%ずつ分け合うかたちで、公費部分は国が25%、都道府県と市区町村がそれぞれ12.5%負担し、保険料は65歳以上の第1号被保険者が17%、40歳から64歳までの第2号被保険者が33%を負担するという枠組みが定められた。また運営主体(保険者)を各市区町村とし、高齢者の自立支援・利用者本位を基本に従来の措置制度から利用者の選択により保健・医療・福祉サービスを総合的に提供する制度への転換が図られた。その利用手続きの流れは、利用者(被保険者)やその家族等が市区町村窓口に提出した申請書に基づき市区町村職員等が訪問調査により心身の状態等を聞き取り、その調査結果や医師の意見書等を踏まえ、保健・医療・福祉の専門家等で構成される介護認定審査会で審査判定を行い、介護の必要度に応じて要支援から要介護1~5までの段階を認定する。そしてその認定結果を受けて作成されたケアプラン(介護サービス計画)に基づいて在宅サービスや介護施設の各事業者からサービスの提供を受けるというもので、利用者の負担は経費の1割とされた(※36)。またサービスの提供者についても、措置制度のもとでは社会福祉協議会等に限られていたが、新たな制度では多様な民間事業者の参入を想定していた。こうして制度の骨格が定められ、平成8(1996)年11月、「介護保険関連三法案」が臨時国会に提出され、翌9(1997)年12月に介護保険法が成立し、約2年の準備期間を経て介護保険制度が開始されることとなったのである。
 一方、豊島区では区内を 3 つのサービス区域に分け、平成8(1996)年4月に従前の高齢者介護相談センター(平成5年開設)を中央保健福祉センターに移行したのに続き、翌9(1997)年には東部・西部両保健福祉センターを開設した(※37)。この3つの保健福祉センターは、高齢者や障害者の日常生活の自立支援と介護家族の負担軽減を図るための各種在宅サービスを展開する拠点施設で、高齢者介護相談センターが担っていたホームヘルプサービスや訪問看護サービス等を引き継ぐかたちで保健と福祉の一元化を図るものであった。また、来るべき介護保険制度のもとでケアプランの作成やサービス提供事業者への橋渡しが円滑に行えるよう、実施事業にはケアマネジメントも含まれた。
 その設置趣旨について、平成9(1997)年区議会第2回定例会の招集あいさつの中で、加藤区長は以下のように述べている。
-本格的な高齢社会の到来のもとで、保健・医療・福祉を有機的に連携した地域保健福祉システムの構築は区政の大きな課題でございまして、本年四月に新たに東西の保健福祉センターを設置し、在宅サービスの拠点として三カ所体制を整備したところでございます。(中略)平成12年には介護保険制度の創設が予定されておりますが、保健福祉センターが介護サービス提供システムの中心的役割を果たす施設として制度にスムーズに対応できますよう、さらにケアマネジメン卜手法を含め充実に努めまして、高齢者や障害者の方々が住みなれた地域で安心して自立した生活が送れますよう、今後とも在宅福祉サービスの向上を図ってまいる所存でございます。
 また前述した通り、24時間巡回型ホームヘルプ事業の全区域展開や特別養護老人ホーム・高齢者在宅サービスセンター等の基盤整備についても豊島区では先行的に進めていた。そして前年12月の介護保険法の公布を受け、平成10(1998)年2月、庁内検討組織として介護保険制度対策検討委員会を立ち上げたのに続き、4月、新たに介護保険準備室を設置し、本格的な準備作業に入ったのである。
 介護保険準備室がまず取り組んだのは、「介護保険事業計画」の策定である。介護保険法により策定が義務づけられた「介護保険事業計画」はサービスの内容や量、またその確保策等を明らかにすることになっており、平成12(2000)年度から16(2004)年度までの5か年を計画期間として3年ごとに見直すこととされていた。そこで7月に学識経験者、社会福祉・保健医療各関係者、被保険者(公募区民)等で構成する「介護保険事業計画策定員会」(委員長:大橋謙策日本社会事業大学福祉学部長)を設置するとともに、8月から10月にかけて計画の基礎となるデータを収集するための高齢者実態調査を実施した(※38)。
 この調査は、①区の保健福祉サービス利用者を除く65歳以上の高齢者11,000人を対象とするアンケート方式の「高齢者一般調査」、②在宅サービスの利用者約4,000人を対象に区職員や民生委員等による訪問面接方式の「要援護高齢者個別調査(在宅)」、さらに③特別養護老人ホーム入所者553名を対象に各施設に調査を依頼する「要援護高齢者個別調査(施設)」の三本立てで実施された(※39)。①と②の調査ではいずれも世帯構成について質問しているが、①は「夫婦のみ」「ひとり暮らし」「子どもと同居」の順、②では「ひとり暮らし」「子どもと同居」「夫婦のみ」の順で割合が高く、どちらもその3つの類型で全体の約7割を占め、「子ども夫婦同居」「子ども夫婦と孫と同居」は合わせておおよそ2割にとどまっていた。特に②の調査で37.5%と一番割合が高かった「ひとり暮らし」の内訳を見ると、性別では女性が82.5%、年齢別では75歳以上が75.9%を占めていたことから、夫に先立たれ妻が夫婦のみの世帯から一人暮らしへと移行している状況が窺えた。また希望する介護については平成3(1991)年にも同様の調査を実施しており、「現在もしくは今後、介護が必要になった場合、どのようにしたいとお考えですか」との問いに対し、①の調査では老人ホームや介護をしてくれる病院等への入所希望者が34.9%、自宅や身内のところなど在宅での介護希望者が50.1%であったのに対し、②の調査ではそれぞれ26.2%、54.5%となっており、いずれも前回調査と同様に在宅介護へのニーズの高さが窺えた。
 また今回の②の調査では家庭内での主な介護者についても質問しており、その内訳は「夫または妻」(27.7%)と「娘」(27.6%)がほぼ同じ割合で、次いで「息子の妻」(17.0%)・「ヘルパー」(13.1%)・「息子」(9.9%)の順になっており、家族・親族の77.9%を女性が占めていた。介護者の年齢も50歳代(30.2%)が最も多かったが、約半数は60歳以上で70歳以上も27.2%に及んでいた。豊島区においても、介護者が女性に偏っていることや高齢者が高齢者を介護している状況など国の国民生活基礎調査結果と同様の傾向が見られた。さらに「介護を行ううえで困っていることは何ですか(複数回答)」との問いに対し、約半数の49.1%が「精神的な負担(ストレス)を感じている」と回答しており、腰痛や腱鞘炎などの症状や不眠など身体的な負担もそれぞれ2割を超え、介護家族の負担の深刻さが浮き彫りになった。なお③の調査は施設入所者のみを対象としているため単純には比較できないが、入所前の世帯構成は②の調査と同様に「ひとり暮らし」(40.0%)の割合が最も高かった。
 一方、痴呆の有無については②の調査で「痴呆の症状はない」が約半数の51.2%であったのに対し、③の調査では「医師により痴呆と診断されている」(47.9%)と「医師により診断されていないが何らかの症状がみられる」(18.4%)を合わせて7割近くにのぼっており、それに伴って日常生活の自立度も低くなっている実態が明らかになった。また同じ一人暮らしの要援護者であっても、痴呆等の重篤な症状がなければ在宅での生活を続けていることが推察される。
 区のこうした動きと連動し、東京都は介護保険制度の実務上の課題や対応策を検証するため、平成8(1996)年度から「高齢者介護サービス体制整備支援事業」を開始し、各区でモデル事業を実施していった。豊島区においても平成10(1998)年10月から11月に要介護認定モデル事業、9月から11月にかけて介護サービス計画(ケアプラン)作成モデル事業が実施された(※40)。要介護認定モデル事業は在宅療養・施設入所者合わせて100名を対象に、「介護認定調査員」(看護婦・保健婦・介護福祉士等専門職11名委嘱)が訪問聞き取り調査を行い、その調査票とかかりつけ医の意見書に基づき「介護認定審査会」(豊島区医師会、同歯科医師会、社会福祉法人等5名委嘱)で審査・判定を行うという実際の手続きをシミュレーションするものであった。また介護サービス計画(ケアプラン)作成モデル事業は在宅療養者のうち10名を対象に、ケアマネージャー(介護支援専門員指導者研修修了者及び介護認定調査員等)が介護サービス計画書を作成するという、これもまた実際の手順に即したものであった。そしてそれぞれの手続きに要した日数や時間、ランク別の認定者件数等を集計し、制度開始時に想定されるサービス量や必要人員等の基礎データとして介護保険事業計画に反映していったのである。
 一方、国においても介護保険制度の詳細設計が引き続き検討されていたが、年が明けた11(1999)年になってもいまだ不確定要素が多く、開始まで1年というところにきて、制度の円滑な導入を危ぶむ声が聞こえはじめた。保険料や費用負担のあり方を巡り、国会では政党間の思惑が入り乱れ、連立政権を構成する与党内でも意見が分かれる混乱状態が続いた。事態の収拾を図るため、11月、政府は保険料等の軽減措置・激変緩和策等を盛り込んだ「特別対策」を発表し(※41)、ぎりぎりの決着が図られたのである。
 こうした国政レベルの混乱に振り回されながらも、区は制度開始に向けた準備を着々と進めていった。平成11(1999)年4月、すでに開設していた3保健福祉センターに加え、新たに8か所に在宅介護支援センターを開設した。この在宅介護支援センターは在宅介護に関する身近な地域の窓口として介護保険制度の認定申請受付からケアプラン作成までの一連のケアマネジメントを実施する地域拠点に位置づけられ、12(2000)年度にはさらに2か所を加え区内13か所への整備が完了した(※42)。また11(1999)年4月の組織改正で介護保険準備室に替わり新たに介護保険課を設置し、人的配置も含め、介護保険事業の業務体系に則した執行体制を整えた(※43)。
 続く7月には介護認定審査会の委員定数を84名と定め、医療・保健・福祉各分野から委員を選出し、10月から認定申請受付を開始した(※44)。なお、制度開始直前の平成12(2000)年3月までの申請件数は5,256件にのぼり、うち4,539件について審査判定が行われたが、その内訳は自立167、要支援740、要介護1~5が3,632で、介護給付の対象となる要支援・要介護の計4,372件は、第1号被保険者(65歳以上高齢者)約43,500人のほぼ1割にあたっていた。
 一方、平成10(1998)年7月より「介護保険事業計画」の策定に向けて検討を重ねてきた策定委員会は、「高齢者保健福祉計画」の改定についても合わせて検討し、11(1999)年9月、検討状況を公開し広く意見を聴くための「中間のまとめ」(※45)を公表した。前述した通り、介護保険法により各市区町村に策定が義務づけられた「介護保険事業計画」(5か年計画)は介護サービスの内容や量及びその確保策を明らかにするものであったが、平成6(1994)年に策定した「高齢者保健福祉計画」も老人福祉法等の改正により策定が義務づけられ、国のゴールドプランを地域レベルに落とし込む形で施設やサービス等の整備目標を設定していた。また、「高齢者保健福祉計画」は平成3(1991)年に策定した「高齢社会対策総合計画」の補完計画に位置づけられ、この総合計画とあわせて平成12(2000)年度までを計画期間としていたが、この間の急速な高齢化や介護保険制度の開始に伴う見直しが必要となっていた。このため「中間のまとめ」では、「介護保険事業計画」を区の高齢者保健福祉政策全般にわたる計画に包含されるものと捉え、両計画の整合性を保つために一体化が図られた。そして12(2000)年1月に策定委員会からの最終報告を受けた区は同年3月、この一本化された計画を新たに「高齢者支援としまプラン21」(以下「プラン21」)として策定したのである(※46)。
 平成12(2000)年度から16(2004)年度までの5か年を計画期間とする「プラン21」は、「①利用者の立場に立ったサービスシステム」「②積極的な参加と高齢者支援のネットワーク」「③在宅支援へのアプローチ」を基本方針に掲げ、21世紀の高齢社会に向けて取り組むべき課題や施策の方向を示すとともに、介護サービスの基盤整備に向けた具体的な取り組みを明らかにするものであった。その中で介護保険事業については、対象となる居宅サービス15事業・施設サービス3事業の年度ごとの見込量が設定された。その見込み量に基づいて算出された平成12(2000)年度から3年間の事業費は、介護サービスに係る総費用として319億円、利用者負担分を除いた介護保険事業の運営に要する事業費として約283億円が見込まれた。そしてこの事業費見込額を公費負担と保険料負担それぞれの割合で按分した額を保険料算定の基礎とし、第2号被保険者(40歳~64歳)の保険料は加入する各医療保険で定め、第1号被保険者(65歳以上)の保険料は運営主体(保険者)である各市区町村が条例で定めるとされた。豊島区においても課税・非課税の別や被保険者の所得に応じて5段階の階層を設け、18,153円(平均月額1,512円)~54,459円(同4,538円)、基準額(第3段階)36,306円(同3,025円)の保険料額を算定し、区議会の議決を経て同年3月27日、介護保険条例を制定した(※47)。なお、この第1号被保険者の保険料については、前年10月に政府が発表した「特別対策」により制度開始後半年間は徴収せず、その後1年間は半額に据え置かれ、その軽減分は国からの臨時特例交付金で賄われた。また3年ごとの介護保険事業計画の見直しに合わせ、保険料も改定していくこととなったのである。
 こうした様々な準備段階を経て平成12(2000)年4月1日、都区制度改革と時を同じくして介護保険制度はスタートした(※48)。その後の実施状況については逐次議会に報告されており、その報告資料をたどると12(2000)年3月末時点での累計が認定申請件数5,256件、審査判定件数4,539件(うち要支援・要介護認定4,372件)であったものが、8月末に申請7,165件、審査6,254件(認定6,014件)、13(2001)年1月末に申請12,405件、審査10,409件(認定10,109件)、1年後の13(2001)年3月末には申請14,125件、審査12,788件(認定12,459件)と時間の経過とともに増加し、それに伴って介護保険サービス利用者も急速に増加していった。一方、制度開始当初は「制度の内容がよくわからない」「保険料が高すぎる」「ケアマネージャーがなかなか訪問してくれない」などの苦情もかなりあったが、制度が周知されるにつれその件数も減っていき、平成14(2002)年に介護サービス評価事業の一環として居宅介護支援サービス 利用者500人と訪問介護サービス利用者500人を対象に実施した利用者評価調査では、困った時の相談に対する説明やケアマネージャー・ヘルパー等の対応に概ね8割が満足しいるとの回答だった(※49)。
 こうした変化は介護保険制度が要介護高齢者やその家族にとって不可欠なものとして定着していった証である反面、予想を超える利用者の増加は介護給付費の増大に直結していた。国民健康保険と同様に介護保険事業は区の一般会計とは切り離された特別会計で行われているが、介護保険費用負担額の一定割合は一般会計から繰出すこととされており、その操出額は制度開始当初から毎年度30億円を超えていた。
 高齢化のさらなる進行が予測される中、介護保険制度を持続可能なシステムとして維持していくためには、増大し続ける介護給付費の抑制を図っていく必要があった。このため介護保険制度の導入以降、区の高齢化対策は生活自立支援や介護予防など高齢者の健康寿命を延伸する施策に重点が置かれていった(※50)。またそれとともに高齢者が可能な限り住み慣れた地域で暮らし続けられるよう、多様な担い手が連携して医療・介護・予防・住まい・生活支援などのサービスを包括的に提供していく仕組みづくりも求められた。そして平成18(2006)年2月、高齢者保健福祉計画・介護事業計画の3期目の見直しにあたって介護保険事業推進会議から提出された答申には、「介護予防の推進」とともに、新たな仕組みとして「地域包括ケアシステムの構築」が重点的に推進すべき施策に位置づけられたのである(※51)。
高齢者の健康づくり「浴場ミニディサービス」(左)と「おたっしゃ給食」(平成18年度事業開始)