前項で述べたように、戦後復興期から高度経済成長期にかけて爆発的に増加した豊島区の人口(住民基本台帳人口及び外国人登録者数)は昭和39(1964)年をピークに減少に転じ、その後は高齢化と少子化が同時に進行していく傾向が顕著になっていった。昭和40(1965)年から平成6(1994)年までの30年間では豊島区の人口は約11万人減少しているが、年齢3区分で見ると0~14歳の年少人口は約4万人の減少、15歳~64歳の生産年齢人口は約9万人の減少だったのに対し、65歳以上の老年人口は約2万人の増加にとどまっており、少子化は高齢化を凌ぐスピードで進んでいたのである。
「少子化」という言葉が広く使われだしたのは平成以降のことで、公の文書としては平成4(1992)年度の「国民生活白書」の中で「出生率の低下やそれに伴う家庭や社会における子供数の低下傾向」を「少子化」と定義づけたのがはじまりだった。その背景には平成2(1990)年の厚生省人口動態統計で、合計特殊出生率が過去最低の1.57となったことから「1.57ショック」と呼ばれ、年少人口減少に関心が集まったことにある。人口学の分野では、合計特殊出生率(女性が一生の間に産む子どもの数)が人口置換水準(人口を維持するのに必要な水準)を相当期間下回っている状態を「少子化」と定義しており、日本では昭和50年代以降、合計特殊出生率が人口置換水準の2.07を下回る状態が続いている。一般的に出生率低下の要因として未婚化・晩婚化があげられるが、先進諸国の中でも日本の少子化傾向が著しい背景には仕事と子育ての両立支援など、子どもを生み育てやすい環境づくりの後れが指摘され、国も本格的に少子化対策に乗り出したのである。
そこで本項及び次項では前項の高齢社会対策に続き、豊島区における少子化対策に焦点をあて、まずは少子化が学校教育にもたらした影響とそれに対してどのような施策が展開されていったかをたどる。
「少子化」という言葉が広く使われだしたのは平成以降のことで、公の文書としては平成4(1992)年度の「国民生活白書」の中で「出生率の低下やそれに伴う家庭や社会における子供数の低下傾向」を「少子化」と定義づけたのがはじまりだった。その背景には平成2(1990)年の厚生省人口動態統計で、合計特殊出生率が過去最低の1.57となったことから「1.57ショック」と呼ばれ、年少人口減少に関心が集まったことにある。人口学の分野では、合計特殊出生率(女性が一生の間に産む子どもの数)が人口置換水準(人口を維持するのに必要な水準)を相当期間下回っている状態を「少子化」と定義しており、日本では昭和50年代以降、合計特殊出生率が人口置換水準の2.07を下回る状態が続いている。一般的に出生率低下の要因として未婚化・晩婚化があげられるが、先進諸国の中でも日本の少子化傾向が著しい背景には仕事と子育ての両立支援など、子どもを生み育てやすい環境づくりの後れが指摘され、国も本格的に少子化対策に乗り出したのである。
そこで本項及び次項では前項の高齢社会対策に続き、豊島区における少子化対策に焦点をあて、まずは少子化が学校教育にもたらした影響とそれに対してどのような施策が展開されていったかをたどる。
児童・生徒数の減少
戦後復興期から高度成長期にかけて特に都市部の人口が急増した時期は、都内のどの街も子どもたちであふれていた。児童生徒数の急増に学校施設整備が追いつかず、1クラス50人を超える「すし詰め教室」や午前・午後の2部制授業も珍しいことではなかった。
豊島区も同様であったが、その当時の状況については豊島区通史編三(※1)及び四(※2)に詳しく記されているので、ここではその経緯を概略するにとどめる。戦災により小学校17校のうち10校が焼失し、焼け残った校舎では昭和22(1947)年から6・3制義務教育による新制中学校教育がスタートした。だが、この戦後復興期は学校施設が圧倒的に不足していたため、学校建設は区政の最重要課題に位置づけられ、教育費が歳出全体の30%~50%を占めるほどであった。しかし戦後まもない当時の区財政は潤沢とは言えず、急造のバラック校舎で凌いだり、都からの支出金で何とか建設費は捻出したものの、体育館(講堂)やプールなどの設備費までは手が回らず、PTA等地元住民からの寄附によって賄われるという状況だった。そうした厳しい環境の中でも、戦後の第一次ベビーブーマーたちが学齢期に達した昭和31(1956)年にはなんとか区立小学校29校、区立中学校13校を開校していたが、それも30年代を半ば過ぎる頃には急造バラック校舎の床が傾き出して「危険校舎」として社会問題となり、さらに戦災で焼け残った木造校舎の老朽化も放置できない状況になっていった。このため、昭和40年代に入ると木造校舎から鉄筋校舎へと次々に転換が図られていったのだが、しかし、ようやく学校環境が整えられつつあった時期になると、そこで学ぶ子どもたちの数、すなわち年少人口は減少に転じていたのである。
豊島区の年少人口は昭和37(1962)年に73,863人で総人口の2割を超えていたが、2年後の39(1964)年には7万人を割り、40年代に6万人、50年代に5万人、60年代に4万人をそれぞれ割り込んだ。平成に入ってからも減少傾向は止まらず、平成3(1991)年にはついに3万人を割って総人口のわずか約1割にまで減少した。こうした少子化の背景には核家族化や出生率の低下など都市に共通する課題とともに、区内には狭小な賃貸住宅が多く、またみどりや公園が少ないなど子育て世代が定住しにくいという豊島区特有の課題もあった。
前述した通り、区の人口が昭和40年代から平成初頭まで減少傾向にあった一方、世帯数は40年代に入っても増加傾向が続き、50年代以降も12~13万世帯のまま横ばいで推移していた。その結果、一世帯当たりの人数は30年代に約4人だったものが40年代には3人を切り、さらに平成初頭には2人を切るまでとなって、単身世帯が全体の過半数を占めるようになったのである。こうした世帯構成の変化は、ファミリー世帯の区外への転出による影響が大きく、そのことが区の人口、特に年少人口の減少の要因にもなっていた。特に昭和から平成にかけてのバブル期には地価高騰に伴って住宅価格や家賃が跳ね上がり、ファミリー世帯の区外転出に拍車がかかったのである。
こうした年少人口の減少に伴い、区立小中学校の児童・生徒数も減少していった。下図表1-⑥は昭和29(1954)年から平成22(2010)年までの児童・生徒数の推移を折れ線グラフで表したものである。このグラフからもわかるように、戦後ベビーブーム世代が学齢期に入り始めた昭和29(1954)年に3万人を突破した児童数は、33(1958)年の33,931人をピークに急激な減少に転じ、わずか5年で1万人以上減少し、その後も減少傾向が続いて49(1974)年には2万人を割り込んだ。中学校の生徒数も小学校の児童数にやや遅れる形で、昭和37(1962)年の16,526人をピークに減少に転じ、4年後の41(1966)年には1万人を割り込んでいる。その後、昭和40年代後半から50年代にかけて児童・生徒数ともに横ばい状態が続く時期もあったが、50年代後半から再び減少しはじめ、平成初頭には児童数は1万人を割り、生徒数も5千人を割ってさらにその傾向は続いていったのである。
豊島区も同様であったが、その当時の状況については豊島区通史編三(※1)及び四(※2)に詳しく記されているので、ここではその経緯を概略するにとどめる。戦災により小学校17校のうち10校が焼失し、焼け残った校舎では昭和22(1947)年から6・3制義務教育による新制中学校教育がスタートした。だが、この戦後復興期は学校施設が圧倒的に不足していたため、学校建設は区政の最重要課題に位置づけられ、教育費が歳出全体の30%~50%を占めるほどであった。しかし戦後まもない当時の区財政は潤沢とは言えず、急造のバラック校舎で凌いだり、都からの支出金で何とか建設費は捻出したものの、体育館(講堂)やプールなどの設備費までは手が回らず、PTA等地元住民からの寄附によって賄われるという状況だった。そうした厳しい環境の中でも、戦後の第一次ベビーブーマーたちが学齢期に達した昭和31(1956)年にはなんとか区立小学校29校、区立中学校13校を開校していたが、それも30年代を半ば過ぎる頃には急造バラック校舎の床が傾き出して「危険校舎」として社会問題となり、さらに戦災で焼け残った木造校舎の老朽化も放置できない状況になっていった。このため、昭和40年代に入ると木造校舎から鉄筋校舎へと次々に転換が図られていったのだが、しかし、ようやく学校環境が整えられつつあった時期になると、そこで学ぶ子どもたちの数、すなわち年少人口は減少に転じていたのである。
豊島区の年少人口は昭和37(1962)年に73,863人で総人口の2割を超えていたが、2年後の39(1964)年には7万人を割り、40年代に6万人、50年代に5万人、60年代に4万人をそれぞれ割り込んだ。平成に入ってからも減少傾向は止まらず、平成3(1991)年にはついに3万人を割って総人口のわずか約1割にまで減少した。こうした少子化の背景には核家族化や出生率の低下など都市に共通する課題とともに、区内には狭小な賃貸住宅が多く、またみどりや公園が少ないなど子育て世代が定住しにくいという豊島区特有の課題もあった。
前述した通り、区の人口が昭和40年代から平成初頭まで減少傾向にあった一方、世帯数は40年代に入っても増加傾向が続き、50年代以降も12~13万世帯のまま横ばいで推移していた。その結果、一世帯当たりの人数は30年代に約4人だったものが40年代には3人を切り、さらに平成初頭には2人を切るまでとなって、単身世帯が全体の過半数を占めるようになったのである。こうした世帯構成の変化は、ファミリー世帯の区外への転出による影響が大きく、そのことが区の人口、特に年少人口の減少の要因にもなっていた。特に昭和から平成にかけてのバブル期には地価高騰に伴って住宅価格や家賃が跳ね上がり、ファミリー世帯の区外転出に拍車がかかったのである。
こうした年少人口の減少に伴い、区立小中学校の児童・生徒数も減少していった。下図表1-⑥は昭和29(1954)年から平成22(2010)年までの児童・生徒数の推移を折れ線グラフで表したものである。このグラフからもわかるように、戦後ベビーブーム世代が学齢期に入り始めた昭和29(1954)年に3万人を突破した児童数は、33(1958)年の33,931人をピークに急激な減少に転じ、わずか5年で1万人以上減少し、その後も減少傾向が続いて49(1974)年には2万人を割り込んだ。中学校の生徒数も小学校の児童数にやや遅れる形で、昭和37(1962)年の16,526人をピークに減少に転じ、4年後の41(1966)年には1万人を割り込んでいる。その後、昭和40年代後半から50年代にかけて児童・生徒数ともに横ばい状態が続く時期もあったが、50年代後半から再び減少しはじめ、平成初頭には児童数は1万人を割り、生徒数も5千人を割ってさらにその傾向は続いていったのである。
昭和50年代に入り、区教育委員会は児童の通学路の安全確保や通学区域と児童の生活圏とのつながりを重視する小学校通学区域の再編に取り掛かった。それまでは新たな学校ができるたびに区域の分割や編成替えが繰り返されてきたため、ひとつの地域(町内会)に複数校の児童が混住する状況が生じ、指定校の変更を希望する者も多く、保護者や町会関係者等からもそうした状況の解消を求める声があがっていた。このため昭和51(1976)年9月に設置した「豊島区立小学校通学区域適正化審議会」(以下「通学区域適正化審議会」)の3次にわたる答申を踏まえ、52(1977)年度から55(1980)年度にかけて小学校の通学区域を段階的に再編した。また55(1980)年4月の全面実施に合わせ、小学校の学区域をベースに新たな中学校通学区域の再編を完了させた(※3)。
この再編の基本方針のひとつに掲げられたのが学校規模の適正化の考え方で、「各学年最低2学級は維持し、児童の学習、教育機能の均衡を保持する」という基準を初めて示したものであった。このような方針を打ち出した背景には、既に昭和50年代から大規模校と小規模校との分化が始まり、学習・教育指導上の重大問題として双方の学校から強く是正を要望されていたことがあった。これを受け、通学区域適正化審議会の第2次答申では「現在の豊島区の人口が減少傾向にあることを考えれば、特に小規模校の児童数増を図るための行政的措置が必要である」と提起されているが、後年の更なる児童数の減少、そして学校統合へとつながっていく前兆が、このとき既に始まっていたと捉えることができる。また併せてこの再編により、入学する指定校の変更申請は原則として認められないこととなったが、その背景には受験競争が過熱化する中、いわゆる進学校として評価が高かった目白小学校への越境入学問題など、不適正なケースを規制する意図もあった。
空き教室問題
通学区域再編後の昭和50年代後半から児童・生徒数の減少は再び加速し始め、それまで不足していた教室が余るようになるという、いわゆる「空き教室」が新たな問題として浮かびあがってきた。
前述した通学区域再編の基本方針として掲げられた「各学年最低2学級」の基準は、想定を超える児童・生徒数の減少により60年代に入ると早々に崩れ始め、各学年が1クラスのみという学校さえ出始めた。そして学級数の減少に伴い、使わない教室、即ち空き教室が増加していき、その数は昭和62(1987)年5月1日時点で小学校29校・中学校13校合わせると、全教室数815室のうち190室(23.3%、1校あたり平均4.5室)にのぼり、翌63(1988)年度には223室(27.4%1校あたり平均5.3室)とさらに増加し、5年後の68(1993)年度には343室(42.1%、1校あたり平均8.2室)にも達すると見込まれていた。
一方、学校施設の開放事業はすでに昭和40(1965)年に開始されていたが、原則として児童を対象に校庭や体育館を放課後の「遊び場」として開放するという限定的なものであった。しかし生涯学習、特に区内には体育施設が不足していたため、生涯スポーツの場として学校施設の開放を求める区民の要望は強く、そうした声を受けて、区教育委員会は昭和52(1977)年度から試行的に清和小学校と平和小学校の校庭及び体育館を区民へ開放する事業を開始した。だが安全管理上の理由や開放時の指導員の配置等の課題が残り、試行開始から10年を過ぎてもなかなか本格実施には至らないため、区議会からも実施校の拡大を求める声が度々あがった。
こうした経緯を踏まえ、区教育委員会は昭和62(1987)年7月に「空き教室対策検討委員会」を立ち上げ、その有効活用策の検討を開始した。そして翌63(1988)年に出された中間報告の中で「①豊かな教育活動を生み出すとともに、多様な指導形態に応えられること」と「②区民の生涯学習の場として有効に活用できるものであること」という空き教室活用の基本的な考えが提起された。この報告書は、教育委員会の主眼はあくまでも①にあり、特色ある教育活動を展開する場として空き教室を特別教室(視聴覚教室、図書室、多目的ルーム、ランチルーム等)に改造するというものだったが、合わせて②の区民による活用についての方向も示したもので、学校施設を本来の学校教育目的以外の施設に転用していくという考えが初めて示されたのである。
前述した通学区域再編の基本方針として掲げられた「各学年最低2学級」の基準は、想定を超える児童・生徒数の減少により60年代に入ると早々に崩れ始め、各学年が1クラスのみという学校さえ出始めた。そして学級数の減少に伴い、使わない教室、即ち空き教室が増加していき、その数は昭和62(1987)年5月1日時点で小学校29校・中学校13校合わせると、全教室数815室のうち190室(23.3%、1校あたり平均4.5室)にのぼり、翌63(1988)年度には223室(27.4%1校あたり平均5.3室)とさらに増加し、5年後の68(1993)年度には343室(42.1%、1校あたり平均8.2室)にも達すると見込まれていた。
一方、学校施設の開放事業はすでに昭和40(1965)年に開始されていたが、原則として児童を対象に校庭や体育館を放課後の「遊び場」として開放するという限定的なものであった。しかし生涯学習、特に区内には体育施設が不足していたため、生涯スポーツの場として学校施設の開放を求める区民の要望は強く、そうした声を受けて、区教育委員会は昭和52(1977)年度から試行的に清和小学校と平和小学校の校庭及び体育館を区民へ開放する事業を開始した。だが安全管理上の理由や開放時の指導員の配置等の課題が残り、試行開始から10年を過ぎてもなかなか本格実施には至らないため、区議会からも実施校の拡大を求める声が度々あがった。
こうした経緯を踏まえ、区教育委員会は昭和62(1987)年7月に「空き教室対策検討委員会」を立ち上げ、その有効活用策の検討を開始した。そして翌63(1988)年に出された中間報告の中で「①豊かな教育活動を生み出すとともに、多様な指導形態に応えられること」と「②区民の生涯学習の場として有効に活用できるものであること」という空き教室活用の基本的な考えが提起された。この報告書は、教育委員会の主眼はあくまでも①にあり、特色ある教育活動を展開する場として空き教室を特別教室(視聴覚教室、図書室、多目的ルーム、ランチルーム等)に改造するというものだったが、合わせて②の区民による活用についての方向も示したもので、学校施設を本来の学校教育目的以外の施設に転用していくという考えが初めて示されたのである。
この方針に基づき、区教育委員会は最初にモデル校に指定した池袋第一小学校、椎名町小学校、要町小学校の空き教室を約54億円かけて改造し、平成2(1990)年度から地域の区民グループ・サークル等の団体を対象に区民への貸出を開始した。あわせてそれまで2校のみで試行実施していた校庭・体育館の一般開放についても、児童の遊び場開放と曜日・時間帯を区分することにより全29小学校に拡大した。そしてこのモデル校での成果を踏まえ、翌3(1991)年にまとめた検討委員会の最終報告において、今後も小学校の地域開放を推進していく方向性を改めて示し、順次実施校を拡大していった(※4)。
この開放事業を実施するにあたり、各小学校ではPTAや地区町会、青少年育成団体などの代表で構成される「学校施設利用委員会」(現在の「学校開放運営委員会」の前身)が組織化された。利用日や時間等の調整を行うための会議ではあったが、学校施設の運営に区民が参加することは地域に開かれた学校づくりの先駆的な取り組みとなった。
こうして平成7(1995)年には17の小学校で58の特別教室が整備され地域にも解放されていったが(※5)、しかしまだ多くの空き教室を抱える状況に変わりはなかった。また特別教室の中には、当時としては高価な材料を使ったログハウスや床の間付きの和室をはじめ、高額な経費をかけて改修したものもあり、区民から疑問や批判の声が上がり、その費用対効果が問われていくことになった。平成7(1995)年度の行政監査でも、空き教室の活用が各学校の判断に任されている実態に対し、必ずしも計画的・効率的な活用がなされていないことが課題として指摘された。このため、平成9(1997)年1月に策定された行財政改革計画(※6)において、「地域の中核的な位置に存在する学校は、地域住民の多様化かつ高度化する文化・学習などの身近な活動の場として、地域社会にとっては貴重な財産」であるとの考えに基づき、特別教室の利用実態について必然性や効率性の観点から見直しを行うとともに、空き教室を他の施設へ転用するにあたっては原則として施設の改造は行わず、地域区民が気軽に利用できる施設として活用していくとの方針が打ち出されたのである。
昭和30年代後半から始まった児童・生徒数の減少は、40年代には学校改築(鉄筋化)とともに1教室に50人以上が詰め込まれていた「すし詰め教室」が解消され、一人ひとりに行き届いた教育ができる「40人学級」への道を開いた。また50年代には通学区域の再編や空き教室対策を通じて学校と地域との関係が見直され、開かれた学校づくりの先駆的な取り組みへとつながっていった。しかしその間にも児童・生徒数の減少は止まらず、学校・学級の小規模化が進み、学習指導やクラス運営上の問題を生じさせ、そして平成へと移行する中で小規模校の問題はさらに深刻さを増しいった。こうして昭和54(1979)年に通学区域適正化審議会から提起された「小規模校の児童数増をはかるための行政的措置」という課題にいよいよ直面することとなるのである。
この開放事業を実施するにあたり、各小学校ではPTAや地区町会、青少年育成団体などの代表で構成される「学校施設利用委員会」(現在の「学校開放運営委員会」の前身)が組織化された。利用日や時間等の調整を行うための会議ではあったが、学校施設の運営に区民が参加することは地域に開かれた学校づくりの先駆的な取り組みとなった。
こうして平成7(1995)年には17の小学校で58の特別教室が整備され地域にも解放されていったが(※5)、しかしまだ多くの空き教室を抱える状況に変わりはなかった。また特別教室の中には、当時としては高価な材料を使ったログハウスや床の間付きの和室をはじめ、高額な経費をかけて改修したものもあり、区民から疑問や批判の声が上がり、その費用対効果が問われていくことになった。平成7(1995)年度の行政監査でも、空き教室の活用が各学校の判断に任されている実態に対し、必ずしも計画的・効率的な活用がなされていないことが課題として指摘された。このため、平成9(1997)年1月に策定された行財政改革計画(※6)において、「地域の中核的な位置に存在する学校は、地域住民の多様化かつ高度化する文化・学習などの身近な活動の場として、地域社会にとっては貴重な財産」であるとの考えに基づき、特別教室の利用実態について必然性や効率性の観点から見直しを行うとともに、空き教室を他の施設へ転用するにあたっては原則として施設の改造は行わず、地域区民が気軽に利用できる施設として活用していくとの方針が打ち出されたのである。
昭和30年代後半から始まった児童・生徒数の減少は、40年代には学校改築(鉄筋化)とともに1教室に50人以上が詰め込まれていた「すし詰め教室」が解消され、一人ひとりに行き届いた教育ができる「40人学級」への道を開いた。また50年代には通学区域の再編や空き教室対策を通じて学校と地域との関係が見直され、開かれた学校づくりの先駆的な取り組みへとつながっていった。しかしその間にも児童・生徒数の減少は止まらず、学校・学級の小規模化が進み、学習指導やクラス運営上の問題を生じさせ、そして平成へと移行する中で小規模校の問題はさらに深刻さを増しいった。こうして昭和54(1979)年に通学区域適正化審議会から提起された「小規模校の児童数増をはかるための行政的措置」という課題にいよいよ直面することとなるのである。
区立学校の適正規模等に関する審議会
児童・生徒数の減少は平成に入っても一向に歯止めがかからず、平成元(1989)年には、児童数生徒数のいずれもが昭和30年代ピーク時の約3分の1まで減少していた。また、都教育庁の推計では5年後の平成6(1994)年には児童数24.0%、生徒数27.7%のさらなる減少が見込まれ、小規模化に伴う影響は教育現場である学校にも様々な影響が懸念された。
このため区教育委員会は、平成元(1989)年6月、内部に「区立小中学校適正規模等検討委員会」設置し、児童・生徒数の減少に伴う諸課題について検討を開始した。同検討委員会がまとめた「教育環境上の諸問題検討報告書」は、学校教育法施行規則第17条の「小学校の学級数は12学級以上18学級以下を標準とする(中学校にも準用)」との規定に則り、1学年に1学級しか編成できない、いわゆる単学級が存在する学校を「小規模校」と位置づけ、単学級や学級児童数の減少が学習活動等に及ぼす様々な影響を整理し、少なくとも1学年2学級の確保が必要としている。さらに同検討委員会報告書に付された「審議機関を設置し、広く意見を聞き、十分な論議を重ねることが適当」との考えを踏まえ、翌2(1990)年6月、教育委員会の附属機関として「豊島区立学校の適正規模等に関する審議会」(会長:下村哲夫筑波大学教授、以下「適正規模等審議会」)を設置した。学識経験者、区議会議員、区民代表、区立学校教職員、区職員から構成される適正規模等審議会は、「小中学校の適正規模及び適正配置について」の諮問を受け、まずは適正規模について検討を重ね、その基本的考え方を取りまとめ、3(1991)年7月24日に「中間報告」として提出した(※7)。
そこでは豊島区の教育目標である「社会の一員として自立できる子どもの育成」に基づき、「個性と社会性の調和のとれた育成のための一定規模の子ども集団の確保」「教員の指導力を高めていくための教員集団・組織」「区立学校の教育環境の均衡化」の3つを教育環境改善の基本的視点に据え、区立学校の教育活動を効果的に進めていく上での学年・学校の適正規模について、以下のように具体的な数値で示している。
・中学校 9~18学級、生徒数243名以上(81名×3学年)
そこでは豊島区の教育目標である「社会の一員として自立できる子どもの育成」に基づき、「個性と社会性の調和のとれた育成のための一定規模の子ども集団の確保」「教員の指導力を高めていくための教員集団・組織」「区立学校の教育環境の均衡化」の3つを教育環境改善の基本的視点に据え、区立学校の教育活動を効果的に進めていく上での学年・学校の適正規模について、以下のように具体的な数値で示している。
【学年規模】
1学年複数学級(2学級以上)【学校規模】
・小学校 12~18学級、児童数246名以上(41名×6 学年)・中学校 9~18学級、生徒数243名以上(81名×3学年)
この中間報告提出後、適正規模等審議会は残された課題である適正配置の検討に入った。しかしそれは実際に今ある小中学校を対象とすることから、機械的に適正規模の数値基準をあてはめて線引きするというわけにはいかず、様々な観点からの検討が必要となる。そのため以下の4点を「学校配置を考える基準」とし、区全体を4つのブロックに分け、それぞれブロック毎の実態と問題点を整理しつつ、検討を進めていくこととした。
- ①適正通学距離(時間)
- ・直線距離で小学校1,000m(約20分)、中学校1,500m(約20分)を上限とする
- ・通学路の安全確保のため、幹線道路、鉄道による通学区域の分断をなるべく避ける
- ②地域社会との緊密な結びつき
- ・1町会区域は3校以上の区域で分断しない
- ・通学区域の設定は幹線道路、鉄道、町丁名、町会境で区切り、分かりやすいものとする
- ③学校の適正規模
- ・複数学校間の対等合併と通学区域の変更により、基本的に単学年単学級を廃し、教育環境の均衡化を図る
- ・対等合併にあたっては、原則として新しい通学区域のほぼ中心に新しい学校を設置し、校名・校歌も新しく定める
- (旧校の歴史・伝統が何らかの形で残るよう配慮、新校地の確保が困難な場合は、統合するいずれかの校地を活用)
- ④児童生徒の生活圏への配慮
- ・中学校の通学区域は、小学校の通学区域を分断しない
- ・1中学校へ2校以上の小学校から進学するようにする
一方、都の推計値(東京都教育人口等推計)では、既にこの検討段階で、小学校29校のうち21校、中学校13校のうち4校が5年後の平成8(1996)年度には適正規模に満たなくなると予測されていた。そうした将来予測に基づき、適正規模等審議会は適正配置の具体的な方法として、対等合併と通学区域の変更により現在の29小学校を23校に、13中学校を10校に再編する案を取りまとめ、平成4(1992)年4月22日、最終答申として区教育区委員会に提出した(※8)。
答申の中で合併統合の対象校に挙げられたのは、小学校では時習・大塚台小学校、日出・雑司谷・高田小学校、大明・池袋第五小学校、要町・平和小学校、千川・大成小学校の計11校、中学校では大塚・朝日中学校、高田・雑司谷中学校、第十・千早中学校の計6校であったが、その他小規模化が懸念される学校についても今後の検討課題とされた。また答申は対等合併により新設する統合校の建築に関する基本的な考え方を示すとともに、区教育委員会に対し、答申を踏まえて総合的な実施計画を策定し具体化していくことを要望して提言を締めくくっている。
この答申を受け、区教育委員会は次のステップとして実施計画の策定作業に入ることになるはずだったが、実際に計画が策定されたのは5年後の平成9(1997)年1月のこととなる。その背景には様々な事情が推察されるが、子どもたちを通わせている保護者は言うまでもなく、学校を地域の核とする地元住民の受け止め方も様々あり、具体的に校名があがった地区では、当然のことながら「総論賛成、各論反対」の声があがることが予想された。
だが、それ以上にこの適正配置の推進に歯止めをかけたのは財源問題であった。答申では統合対象校間の公平・公正を期すために、対等合併を原則とし、統合する通学区域のほぼ中心に統合校の校舎を新設することとされていた。しかし新校の建設には1校あたり約40~50億円の経費が想定され、悪化の一途をたどっていた当時の区財政の状況では、小学校5校、中学校3校計8校の統合新設校の建設など、およそ実現不可能なことだったのである。こうした財源問題に加え、平成4(1992)年度から検討が開始された新基本計画との整合性を図る必要も生じ、ようやく適正配置案をまとめたものの、教育委員会が独自に計画を進められる状況ではなかった。そのため、答申が報告された平成4(1992)年4月30日の区議会文教委員会において、答申の取り扱いを巡り各委員から様々な質問が出された際も、教育委員会としては早期の実施が望ましいとしつつ、その時点での具体的なスケジュールは全く白紙の状態だったのである。
答申の中で合併統合の対象校に挙げられたのは、小学校では時習・大塚台小学校、日出・雑司谷・高田小学校、大明・池袋第五小学校、要町・平和小学校、千川・大成小学校の計11校、中学校では大塚・朝日中学校、高田・雑司谷中学校、第十・千早中学校の計6校であったが、その他小規模化が懸念される学校についても今後の検討課題とされた。また答申は対等合併により新設する統合校の建築に関する基本的な考え方を示すとともに、区教育委員会に対し、答申を踏まえて総合的な実施計画を策定し具体化していくことを要望して提言を締めくくっている。
この答申を受け、区教育委員会は次のステップとして実施計画の策定作業に入ることになるはずだったが、実際に計画が策定されたのは5年後の平成9(1997)年1月のこととなる。その背景には様々な事情が推察されるが、子どもたちを通わせている保護者は言うまでもなく、学校を地域の核とする地元住民の受け止め方も様々あり、具体的に校名があがった地区では、当然のことながら「総論賛成、各論反対」の声があがることが予想された。
だが、それ以上にこの適正配置の推進に歯止めをかけたのは財源問題であった。答申では統合対象校間の公平・公正を期すために、対等合併を原則とし、統合する通学区域のほぼ中心に統合校の校舎を新設することとされていた。しかし新校の建設には1校あたり約40~50億円の経費が想定され、悪化の一途をたどっていた当時の区財政の状況では、小学校5校、中学校3校計8校の統合新設校の建設など、およそ実現不可能なことだったのである。こうした財源問題に加え、平成4(1992)年度から検討が開始された新基本計画との整合性を図る必要も生じ、ようやく適正配置案をまとめたものの、教育委員会が独自に計画を進められる状況ではなかった。そのため、答申が報告された平成4(1992)年4月30日の区議会文教委員会において、答申の取り扱いを巡り各委員から様々な質問が出された際も、教育委員会としては早期の実施が望ましいとしつつ、その時点での具体的なスケジュールは全く白紙の状態だったのである。
区立小・中学校の適正化第一次整備計画
平成4(1992)年に答申が出されてから、すっかり忘れ去られたかのようになっていた適正化計画が、再び俎上に載ったのは平成8(1996)年3月の予算議会であった。8年度当初予算案の中に前触れもなく、統合対象校の説明会経費として約300万円が計上されたのである。
この経費を巡り3月8日に開かれた予算委員会では、実施計画の内容について何の説明もないまま説明会の予算が先に出てきたことに各委員から異議が唱えられた。これに対し区教育委員会は、平成4(1992)年に答申が出された翌5(1993)年には事務レベルで実施計画案を作成したものの、財源の裏付けが取れなかったため表に出せなかったという、これまでの経緯を明かした。そして、実施計画は基本計画との整合性を図る必要があったが、8(1996)年1月15日付け広報紙に「区の財政に赤信号」という衝撃的なタイトルで区財政の現状が区民に伝えられ、いよいよ区財政が非常事態に陥る中で、当初8年秋に予定されていた基本計画の策定時期も不透明になっていた。そうした中でもようやく統合モデル1校分の建設費約42億円が基本計画の財政フレームに折り込まれる方向が固まったため、新年度予算に説明会経費を計上した、との説明がされた。
さらにこの予算審議では前年1月の阪神淡路大震災を受けて、防災拠点となる学校の耐震補強が喫緊の課題となっている中、新校建設より耐震工事を優先すべきと計画に反対する意見も出されたが、学校の倒壊で児童・生徒が死亡するようなことはあってはならず、第一の問題として耐震補強を行う必要があるが、一方で児童・生徒数がどんどん減っている状況も「このまま手をこまねいているわけにはいかない」と、学校の耐震補強と適正配置の2本立てで進めていくとの方針が教育長より示された。
この経費を巡り3月8日に開かれた予算委員会では、実施計画の内容について何の説明もないまま説明会の予算が先に出てきたことに各委員から異議が唱えられた。これに対し区教育委員会は、平成4(1992)年に答申が出された翌5(1993)年には事務レベルで実施計画案を作成したものの、財源の裏付けが取れなかったため表に出せなかったという、これまでの経緯を明かした。そして、実施計画は基本計画との整合性を図る必要があったが、8(1996)年1月15日付け広報紙に「区の財政に赤信号」という衝撃的なタイトルで区財政の現状が区民に伝えられ、いよいよ区財政が非常事態に陥る中で、当初8年秋に予定されていた基本計画の策定時期も不透明になっていた。そうした中でもようやく統合モデル1校分の建設費約42億円が基本計画の財政フレームに折り込まれる方向が固まったため、新年度予算に説明会経費を計上した、との説明がされた。
さらにこの予算審議では前年1月の阪神淡路大震災を受けて、防災拠点となる学校の耐震補強が喫緊の課題となっている中、新校建設より耐震工事を優先すべきと計画に反対する意見も出されたが、学校の倒壊で児童・生徒が死亡するようなことはあってはならず、第一の問題として耐震補強を行う必要があるが、一方で児童・生徒数がどんどん減っている状況も「このまま手をこまねいているわけにはいかない」と、学校の耐震補強と適正配置の2本立てで進めていくとの方針が教育長より示された。
さらに同8(1996)年12月13日の区議会決算委員会において、9(1997)年度の新入生が10名を切る小学校が予想される中、子どもたちや保護者の不安を解消するためにも適正配置に対する区の基本姿勢を示すべきだとの意見が出された。これに対し加藤区長は、基本計画に合わせて翌年1月には10か年の適正化計画を策定することを約するとともに、新設校1校あたり約50億円、8校分400億円にものぼる財源の裏付けを得るのは「百年河清を俟つ思い」であり、遅滞なく統合を進めていくために新設ではなく現校舎の改修という形を一部に取り入れていきたいとの方針転換を明らかにした。
こうした紆余曲折を経て、適正規模等審議会の答申から5年が経過した平成9(1997)年1月、「豊島区立小・中学校の適正化第一次整備計画」(以下「第一次整備計画」)がようやく策定された(※9)。
第一次整備計画は、答申の主旨を尊重しつつも答申後の様々な環境変化を踏まえ、一定の見直しを行った上で緊急性の高い学校から取り組んでいくことを基本的な考え方とした。前述した耐震補強の必要性に加え、ほとんどの校舎が昭和30年代から40年代に鉄筋化されたもので、老朽化が問題となっている学校も多かった。そのため、第一次整備計画では前年議会での区長発言を反映し、答申であげられた統合対象校について「老朽校舎の改築」と「既存施設の活用」という二つの視点を加味し、平成 9(1997)年度からの10か年計画で順次統合していくスケジュールが示された。また今後の児童・生徒数の推移を注視し、概ね5年後に見直すとともに統合対象校のPTA・教職員・地域住民代表による統合推進協議会を設置し、統合新校の校名、校歌等を決定していくこととしている。
図表1-⑦は答申から第一次整備計画への変更内容をまとめたものであるが、統合対象校は答申で挙げられた小学校11校、中学校6校に変更はなかったものの、答申通りに校舎の新設が予定されたのは、高田・雑司谷中学校統合校、日出・雑司谷・高田小学校統合校の2校のみで、残りの6校は耐震補強・改修により既存校舎の活用を図ることとされた。なお、計画策定直後の平成9(1997)年度新入生がわずか2名であった平和小学校については、急遽1年前倒して統合が実施されることとなった(※10)。この平和小学校の例は、地域はもとより、教育委員会をはじめ学校関係者や保護者にも大きな衝撃を与え、統合化を促進するきっかけとなった。また策定5年後に見直しが行われた13(2001)年度改訂では、中学校生徒数が予想より著しく減少していることから、第十・千早中学校に長崎中学校を加えた3校統合と、新たに道和・真和中学校の統合が計画され、両統合校とも新校を建設することとされた(※11)。
こうした紆余曲折を経て、適正規模等審議会の答申から5年が経過した平成9(1997)年1月、「豊島区立小・中学校の適正化第一次整備計画」(以下「第一次整備計画」)がようやく策定された(※9)。
第一次整備計画は、答申の主旨を尊重しつつも答申後の様々な環境変化を踏まえ、一定の見直しを行った上で緊急性の高い学校から取り組んでいくことを基本的な考え方とした。前述した耐震補強の必要性に加え、ほとんどの校舎が昭和30年代から40年代に鉄筋化されたもので、老朽化が問題となっている学校も多かった。そのため、第一次整備計画では前年議会での区長発言を反映し、答申であげられた統合対象校について「老朽校舎の改築」と「既存施設の活用」という二つの視点を加味し、平成 9(1997)年度からの10か年計画で順次統合していくスケジュールが示された。また今後の児童・生徒数の推移を注視し、概ね5年後に見直すとともに統合対象校のPTA・教職員・地域住民代表による統合推進協議会を設置し、統合新校の校名、校歌等を決定していくこととしている。
図表1-⑦は答申から第一次整備計画への変更内容をまとめたものであるが、統合対象校は答申で挙げられた小学校11校、中学校6校に変更はなかったものの、答申通りに校舎の新設が予定されたのは、高田・雑司谷中学校統合校、日出・雑司谷・高田小学校統合校の2校のみで、残りの6校は耐震補強・改修により既存校舎の活用を図ることとされた。なお、計画策定直後の平成9(1997)年度新入生がわずか2名であった平和小学校については、急遽1年前倒して統合が実施されることとなった(※10)。この平和小学校の例は、地域はもとより、教育委員会をはじめ学校関係者や保護者にも大きな衝撃を与え、統合化を促進するきっかけとなった。また策定5年後に見直しが行われた13(2001)年度改訂では、中学校生徒数が予想より著しく減少していることから、第十・千早中学校に長崎中学校を加えた3校統合と、新たに道和・真和中学校の統合が計画され、両統合校とも新校を建設することとされた(※11)。
第一次整備計画と同じく平成9(1997)年1月に策定された基本計画では、「区立学校の適正配置」は計画事業に位置づけられるとともに、9~11(1999)年度の計画事業実施計画の中に、3か年の事業費として約8億5千万円が組み込まれた。その上で平成9(1997)年度当初予算には、先行する高田・雑司谷中学校、高田・雑司谷・日出小学校、要町・平和小学校の3つの統合地区での説明会経費として約1,500万円が計上された。その審議にあたって出された統合8校の適正配置・耐震工事事業費見込額は、平成8~18(1996~2006)年度までの総額で106億4,700万円にのぼったが、それは8校すべてを新設とした場合に想定された約400億円の4分の1に圧縮された額であった(※12)。そして平成7(1995)年の阪神淡路大震災の経験を踏まえ、前年の予算委員会で教育長が述べた通り、以後、学校環境整備は適正配置と耐震補強の2本立てで進められていった。図表1-⑧は平成9(1997)年度から両事業が完了する18(2006)年度までの当初予算額とその内容をまとめたものである。11(1999)年4月の加藤区政から高野区政への移行を挟んだこの10年間は、区の財政状況が最も厳しかった時期であり、投資的経費のみならず経常経費さえも縮減を余儀なくされる中、適正配置に約100億円、耐震補強に約40億円、総額140億円をかけて計画通りに両事業を完遂したことは、子どもたちの安全確保はもとより、まさに21世紀を担う「子どもたちの未来」への投資であったからに他ならない。
小中学校の統合
以下、各校統合の経緯を概略する。
【高田・雑司谷中学校】
第一次整備計画が策定された平成9(1997)年5月1日現在の生徒数は、高田中学校241名(7学級)・雑司谷中学校219名(7学級)と、いずれも適正規模等審議会の答申で示された基準の243名を下回っており、都の13(2001)年度推計でさらなる減少が予測されていたことに加え、校舎の老朽化も著しく、耐震性にも不安があったことから計画に基づく統合第1号校に位置づけられた。地元説明会では統合に反対する意見も一部あったが、9(1997)年7月には町会・地区育成委員会・同窓会・PTA各役員、各校長等から構成される統合推進協議会が設置され、新校名等についての協議を開始、翌10(1998)年2月、新校名「千登世橋中学校」が決定された。この校名は「千登世」が明治・大正時代の旧地名の一部であったことに加え、都内初の立体交差橋として名高い「千登世橋」が両校の中間に位置していることにちなみ、新中学校が両校と両地域をつなぐ「架け橋」となって欲しいとの願いを込めて選定された(※13)。
こうして、平成11(1999)年 4月に統合された千登世橋中学校の新校舎は、高田中学校跡地に建設されることとなり、新校舎に移転するまでの3年間は、仮校舎として雑司谷中学校校舎が使用された。新校舎の設計は民間の専門性・創造性を活かすため、区立学校では初となる公募型プロポーザル方式で選定された(※14)。そして、平成10(1998)年度基本設計、11(1999)年度実施設計を経て、12(2000)年から建設工事に着手し、14(2002)年3月に新校舎が竣工した(※15)。区立学校の新校舎建設は27年ぶりであり、次代を担う生徒たちに豊かな学習環境を提供するとともに、地域に開かれた学校のモデルとなるよう意図された校舎は、従来より広い普通教室や多目的ルーム、情報教育の核となるコンピューター室などの充実に加え、地域住民が生涯学習や生涯スポーツ活動を行うことができる「地域開放ゾーン」も設けられ、新しい校舎のあり方を示すものになった。3月17日の落成式には生徒代表 30 名をはじめPTAや地域住民などおよそ 300人が参加し、地域をあげてこの新校舎の誕生を祝ったのである。
こうして、平成11(1999)年 4月に統合された千登世橋中学校の新校舎は、高田中学校跡地に建設されることとなり、新校舎に移転するまでの3年間は、仮校舎として雑司谷中学校校舎が使用された。新校舎の設計は民間の専門性・創造性を活かすため、区立学校では初となる公募型プロポーザル方式で選定された(※14)。そして、平成10(1998)年度基本設計、11(1999)年度実施設計を経て、12(2000)年から建設工事に着手し、14(2002)年3月に新校舎が竣工した(※15)。区立学校の新校舎建設は27年ぶりであり、次代を担う生徒たちに豊かな学習環境を提供するとともに、地域に開かれた学校のモデルとなるよう意図された校舎は、従来より広い普通教室や多目的ルーム、情報教育の核となるコンピューター室などの充実に加え、地域住民が生涯学習や生涯スポーツ活動を行うことができる「地域開放ゾーン」も設けられ、新しい校舎のあり方を示すものになった。3月17日の落成式には生徒代表 30 名をはじめPTAや地域住民などおよそ 300人が参加し、地域をあげてこの新校舎の誕生を祝ったのである。
【要町・平和小学校】
要町・平和小学校の統合は、第一次整備計画策定時には平成12(2000)年度の予定だったが、平成9(1997)年5月1日現在で平和小学校全校児童数が区内最小の109名、さらに新入学生がわずか2名という事態に衝撃が走り、地元からも早期統合に向けての強い要望が出された。同年7月に開催された学校別説明会でも、「計画の前倒しを積極的に考えてほしい」「統合推進協議会を早く発足させてほしい」などの切迫した声が上がり、これを受けて11月に計画を一部変更し、両校の統合は1年早め、11(1999)年4月に実施されることとなった。またこれに先立って9月には統合推進協議会が設置され、翌10(1998)年1月には新校名「要小学校」が決定された。校名の由来は、新小学校の所在地名の一部であるとともに、地域コミュニティの「要」になってほしい、豊島区の小学校の「要」になるような学校になってほしいとの願いが込められている(※16)。
ただこの二校の統合は、旧平和小学校の新入生が男女児各1名という予想を超えた状況を目の当たりにして急がれたもので、統合へのコンセンサスは順調に進んだものの、小学校としては初めてのケースであったことに加え、統合後の校舎は旧要町小学校舎を使い、校名にも「要」の文字が使われる一方、「平和小」の痕跡は何も残されないことに旧平和小学校の保護者の中には複雑な思いを持ち、子どもたちへの影響を懸念する人もいたという。
こうして、前掲の高田・雑司谷中学校と、要町・平和小学校の4校は平成11(1999)年3月をもって閉校し、4月からはそれぞれ千登世橋中学校、要小学校としての新たなページを開くこととなった。なお、要小学校の新校歌は、同校教職員の合作によって作った詞に、男声コーラスグループの草分けであるダークダックスの一員で、長年学区内に住んでいる喜早哲氏に依頼、ダークダックスメンバーにより作曲されたものである(※17)。
ただこの二校の統合は、旧平和小学校の新入生が男女児各1名という予想を超えた状況を目の当たりにして急がれたもので、統合へのコンセンサスは順調に進んだものの、小学校としては初めてのケースであったことに加え、統合後の校舎は旧要町小学校舎を使い、校名にも「要」の文字が使われる一方、「平和小」の痕跡は何も残されないことに旧平和小学校の保護者の中には複雑な思いを持ち、子どもたちへの影響を懸念する人もいたという。
こうして、前掲の高田・雑司谷中学校と、要町・平和小学校の4校は平成11(1999)年3月をもって閉校し、4月からはそれぞれ千登世橋中学校、要小学校としての新たなページを開くこととなった。なお、要小学校の新校歌は、同校教職員の合作によって作った詞に、男声コーラスグループの草分けであるダークダックスの一員で、長年学区内に住んでいる喜早哲氏に依頼、ダークダックスメンバーにより作曲されたものである(※17)。
【高田・雑司谷・日出小学校】
高田・雑司谷・日出小学校の平成9(1997)年5月1日現在の児童数は、それぞれ211名(8学級)・136名(6学級)・126名(6学級)で、雑司谷・日出小学校は既に全学年が単学級となっていた。さらに高田小学校も都の13(2001)年度推計で全学年単学級化が予測されていたため、3小学校を学区域とする高田・雑司谷中学校と一体的に3小学校の統合・再編スケジュールも組まれることとなった。小学校3校の統合は2年後の平成13(2001)年4月とし、中学校の統合を先行させ、千登世橋中学校完成移転後の雑司が谷中学校跡地に統合小学校の新校舎を建設するという計画であった。しかし新校舎完成予定が平成16(2004)年4月であったため、その間の新小学校の校舎をどこに置くかが問題となった。雑司谷小学校(4,687㎡)は区立小・中学校42校中最も校地が狭く、3校の中で一番校地の広い日出小学校(7,741㎡)も、都市計画道路環状5の1号線の進捗により約2,685㎡の縮減が見込まれていたことから、高田小学校(7, 503㎡)を仮校舎として使用することとなった(※18)。
11(1999)年3月と5月に開催された地元説明会では、「統合は(新校舎ができる)16(2004)年に延期した方がよい」という意見と「新校舎を建てず、現校舎を改修して使用することにより1年でも早く統合をしてほしい」という、相反する意見が出された。それらも含め統合推進協議会で話し合っていくこととして、10月に同協議会が設置された。しかしそこでも統合時期や方法論を巡り意見が分かれ、その間に、16(2004)年の統合を要望する日出小学校PTAから「統合計画内容の調査及び再検討」についての陳情が議会に出されるなど、それぞれの学校ごとに保護者間の考え方が異なり、協議会は紛糾した。11(1999)年4月に統合が実施された要町・平和小学校のように、比較的近距離の2校間でのケースと異なり、学区域が広域となる3校統合では通学路の安全確保など様々な課題があり、皆が納得できる合意点を見出すことの難しさがあった(※19)。それでも児童数減少に歯止めがかからない状況が続く中で、最終的には「何が子どもたちにとって最善か」という原点に立ち返り、議論は13(2001)年4月の統合を推進していく方向で収束していった。そうした議論を経て、12(2000)年6月の第8回協議会において、新小学校が新たに建設される「南池袋」の土地にしっかり根づいた学校になってほしいとの願いを込めて新校名は「南池袋小学校」と決定された(※20)。
その後いよいよ統合や移転に向けての準備が本格化し、平成13(2001)年4月、高田小学校を仮校舎として「南池袋小学校」が開校、14~15(2002~2003)年度に建設工事が進められ、16(2004)年3月に新校舎が落成した。新校舎は廊下と教室の間の壁がなく、広々としたオープンスペースでつながる開放的な構造が特徴的で、環境に配慮した様々な工夫が随所に施された(※21)。また校舎入口の一画には、地元雑司が谷鬼子母神の郷土玩具「すすきみみずく」にちなみ、校章のデザインにも取り入れられたみみずくやふくろうの資料を展示する「みみずく資料館」が開設された(※22)。
11(1999)年3月と5月に開催された地元説明会では、「統合は(新校舎ができる)16(2004)年に延期した方がよい」という意見と「新校舎を建てず、現校舎を改修して使用することにより1年でも早く統合をしてほしい」という、相反する意見が出された。それらも含め統合推進協議会で話し合っていくこととして、10月に同協議会が設置された。しかしそこでも統合時期や方法論を巡り意見が分かれ、その間に、16(2004)年の統合を要望する日出小学校PTAから「統合計画内容の調査及び再検討」についての陳情が議会に出されるなど、それぞれの学校ごとに保護者間の考え方が異なり、協議会は紛糾した。11(1999)年4月に統合が実施された要町・平和小学校のように、比較的近距離の2校間でのケースと異なり、学区域が広域となる3校統合では通学路の安全確保など様々な課題があり、皆が納得できる合意点を見出すことの難しさがあった(※19)。それでも児童数減少に歯止めがかからない状況が続く中で、最終的には「何が子どもたちにとって最善か」という原点に立ち返り、議論は13(2001)年4月の統合を推進していく方向で収束していった。そうした議論を経て、12(2000)年6月の第8回協議会において、新小学校が新たに建設される「南池袋」の土地にしっかり根づいた学校になってほしいとの願いを込めて新校名は「南池袋小学校」と決定された(※20)。
その後いよいよ統合や移転に向けての準備が本格化し、平成13(2001)年4月、高田小学校を仮校舎として「南池袋小学校」が開校、14~15(2002~2003)年度に建設工事が進められ、16(2004)年3月に新校舎が落成した。新校舎は廊下と教室の間の壁がなく、広々としたオープンスペースでつながる開放的な構造が特徴的で、環境に配慮した様々な工夫が随所に施された(※21)。また校舎入口の一画には、地元雑司が谷鬼子母神の郷土玩具「すすきみみずく」にちなみ、校章のデザインにも取り入れられたみみずくやふくろうの資料を展示する「みみずく資料館」が開設された(※22)。
【朝日・大塚中学校】
高田・雑司谷・日出小学校と同じく平成13(2001)年4月の統合が計画されたのが朝日・大塚中学校であった。平成9(1997)年5月1日現在の両校の生徒数はそれぞれ93名(3学級)、389名(12学級)で、100名を切る区内最小規模の朝日中学校と、比較的生徒数が多く大規模校に分類される大塚中学校との統合ケースとなった。大塚中学校跡に既存校舎を使用して統合校を設置する計画が明らかになって以降、朝日中学校への新入学者数は減少傾向にあったが、さらに統合時の転校を避けたい生徒・保護者の希望に応じ、統合予定の2年前にあたる11(1999)年度から通学区域の指定校変更申請が認められたことにより、入学予定者の多くが大塚中学校に流れる雪崩現象が生じた。その結果、11年度の朝日中学校入学者数はわずか3名しかおらず、その3名も順次転校した平成12(2000)年度の1・2学年の生徒数はゼロで3学年1学級20名を残すのみとなり、統合時には在校生がゼロとなる可能性も出ていた。
こうした状況を背景に、平成11(1999)年4月に設置された統合推進協議会では、対等合併とすることへの疑問や大塚中学校への吸収合併でよいのではないかとの意見が出された。新校名についても、同窓会等の母校の名前を残したいとの思惑はどの地区にも共通して根強く、片や「大塚中学校の名前を残してほしい」、片や「新校名で出発してほしい」と意見が分かれたが、対等合併の原則に則り、同年11月の第5回協議会で新校名「巣鴨北中学校」が決定された。巣鴨の地名は区内にとどまらず全国的にも知名度が高く、新中学校が旧巣鴨村の北部に位置することが選定理由であった。こうした経緯を経て、改修工事が施された大塚中学校を統合校舎として、平成13(2001)年4月、巣鴨北中学校は開校した(※23)。
統合計画が生徒数の減少に拍車をかけた形となった朝日中学校については、受験を控えた3年生とその保護者が朝日中学校で卒業式を迎えたいとの希望により、平成13(2001)年3月まで存続した。しかし、最後まで残った3年生20名にとって下級生もおらず、自分たちが卒業すれば実質的に廃校となってしまう状況は決して望んだものではなかっただろう。また一度は入学した3名にとっても、ひとりまたひとりと転校していく中でどれほどの不安を抱えていたことだろう。協議会の委員のひとりからも、対等合併と言いながらこうした事態を招いたことについて、子どもたちに悲しい思いをさせないよう、今後の統合で同じ問題が二度とおきないよう強く要望するとの意見が出された。
どの統合ケースもそれぞれの学校ごとに事情は異なるが、子どもたちの教育環境の改善が目的であったとしても、時として子どもたちに犠牲を強いるリスクもあることが改めて問われたのである。
こうした状況を背景に、平成11(1999)年4月に設置された統合推進協議会では、対等合併とすることへの疑問や大塚中学校への吸収合併でよいのではないかとの意見が出された。新校名についても、同窓会等の母校の名前を残したいとの思惑はどの地区にも共通して根強く、片や「大塚中学校の名前を残してほしい」、片や「新校名で出発してほしい」と意見が分かれたが、対等合併の原則に則り、同年11月の第5回協議会で新校名「巣鴨北中学校」が決定された。巣鴨の地名は区内にとどまらず全国的にも知名度が高く、新中学校が旧巣鴨村の北部に位置することが選定理由であった。こうした経緯を経て、改修工事が施された大塚中学校を統合校舎として、平成13(2001)年4月、巣鴨北中学校は開校した(※23)。
統合計画が生徒数の減少に拍車をかけた形となった朝日中学校については、受験を控えた3年生とその保護者が朝日中学校で卒業式を迎えたいとの希望により、平成13(2001)年3月まで存続した。しかし、最後まで残った3年生20名にとって下級生もおらず、自分たちが卒業すれば実質的に廃校となってしまう状況は決して望んだものではなかっただろう。また一度は入学した3名にとっても、ひとりまたひとりと転校していく中でどれほどの不安を抱えていたことだろう。協議会の委員のひとりからも、対等合併と言いながらこうした事態を招いたことについて、子どもたちに悲しい思いをさせないよう、今後の統合で同じ問題が二度とおきないよう強く要望するとの意見が出された。
どの統合ケースもそれぞれの学校ごとに事情は異なるが、子どもたちの教育環境の改善が目的であったとしても、時として子どもたちに犠牲を強いるリスクもあることが改めて問われたのである。
【千川・大成小】
統合計画の5番目の実施校となった千川・大成小学校の平成9(1997)年5月1日現在の児童数は、それぞれ137名(6学級)、346名(12学級)で、既に千川小学校は全学年が単学級となっており、その後もさらに減少が予測された。巣鴨北中学校と同じく小規模校と比較的大規模な学校との組み合わせであったが、計画が公表されて以降、同様に千川小学校児童数の減少に拍車がかかり、3年後の平成12(2000)年度に77名、統合予定前年の13(2001)年度には57名にまで減少し、6学年のうち5学年で10人を割る状態になっていた。しかし大成小学校の方もその分が流れきて増加するという現象もなく、逆に13(2001)年度児童数は317名と減少しており、地域全体として児童数は減少傾向にあった。
そうした背景があったからか、学校別説明会の段階から統合については特に反対意見はなく、むしろ統合校の校舎となる大成小学校の改修内容について様々な要望が出された。それは千登世橋中学校や南池袋小学校のように新たに校舎を建設するのではなく既存校舎を改修して活用することとなるため、この機会に少しでも学校環境の改善を願う保護者たちの正直な声だった。統合の設置条例案が審議された13(2001)年7月の区議会文教委員会においても、財政難を理由に統合校間で格差が生じることに異議が呈されたが、区教育委員会としては、限られた予算の中で可能な限り要望に応えていくことが精一杯であった。そうした中でも、コンピュータールームの拡充や多目的室の全面改修などが盛り込まれたのは、情報教育や学習指導要領の改訂に伴い14(2002)年度から実施が予定されていた「総合的な学習の時間」など、今後の新たな学習活動の展開に備えてのものであった。
統合を前提にした両校間の協力関係は、12(2000)年6月に設置された統合推進協議会においても保たれた。新校名の決定にあたっても円滑に協議が進められ、同年10月の第3回協議会で「さくら小学校」に決定された。その選定理由は、両校の所在がかつての千川上水の桜堤の地域にあり、その当時の桜並木のイメージが地域住民に根付いていること、両校とも校庭には桜の樹が多くあり、児童、地域住民に親しまれていること、そして、子どもたちにもわかりやすく、かつ親しみやすくするため、ひらがな名が採用されたものである。それまでの統合4校はいずれもが地名にちなんだものであったが、地域ゆかりの「さくら」という優しい響きには、年々減少しつつある子どもたちを、地域で大切に育てていこうとの思いが込められているかのようである。
そうした背景があったからか、学校別説明会の段階から統合については特に反対意見はなく、むしろ統合校の校舎となる大成小学校の改修内容について様々な要望が出された。それは千登世橋中学校や南池袋小学校のように新たに校舎を建設するのではなく既存校舎を改修して活用することとなるため、この機会に少しでも学校環境の改善を願う保護者たちの正直な声だった。統合の設置条例案が審議された13(2001)年7月の区議会文教委員会においても、財政難を理由に統合校間で格差が生じることに異議が呈されたが、区教育委員会としては、限られた予算の中で可能な限り要望に応えていくことが精一杯であった。そうした中でも、コンピュータールームの拡充や多目的室の全面改修などが盛り込まれたのは、情報教育や学習指導要領の改訂に伴い14(2002)年度から実施が予定されていた「総合的な学習の時間」など、今後の新たな学習活動の展開に備えてのものであった。
統合を前提にした両校間の協力関係は、12(2000)年6月に設置された統合推進協議会においても保たれた。新校名の決定にあたっても円滑に協議が進められ、同年10月の第3回協議会で「さくら小学校」に決定された。その選定理由は、両校の所在がかつての千川上水の桜堤の地域にあり、その当時の桜並木のイメージが地域住民に根付いていること、両校とも校庭には桜の樹が多くあり、児童、地域住民に親しまれていること、そして、子どもたちにもわかりやすく、かつ親しみやすくするため、ひらがな名が採用されたものである。それまでの統合4校はいずれもが地名にちなんだものであったが、地域ゆかりの「さくら」という優しい響きには、年々減少しつつある子どもたちを、地域で大切に育てていこうとの思いが込められているかのようである。
こうして平成14(2002)年4月、全校児童361名により、新たに「さくら小学校」としての開校の日を迎えたのである(※24)。
【時習・大塚台小学校】
千川・大成小学校に続いて、15(2003)年4月の統合が計画された時習・大塚台小学校の平成9(1997)年5月1日現在の児童数は、それぞれ171名(8学級、身障学級13名2学級含む)と285名(11学級)で、時習小学校は既に全学年が単学級となっており、大塚台小学校の方も単学級の学年が出始めていた。また計画公表から4年後、統合に向けて具体的に動き出した13(2001)年5月1日現在の各校児童数は136名と291名で地域全体として子どもの減少傾向が見られた。このため同年9月に出された第一次整備計画改訂版においても、当初の計画通りに大塚台小学校の既存校舎を改修・活用し、平成15(2003)年4月に統合を実施することとされた。
これを受けて11月から統合説明会が開始されたが、廃校となる時習小学校側から統合に反対する声が次々あがった(※25)。時習小学校は明治34(1901)年5月に旧巣鴨村の時習尋常小学校として創立され、その校名は論語冒頭の「学而時習之、不亦説乎(学びて時に之〔これ〕を習ふ、亦〔また〕説〔よろこ〕ばしからずや)」にちなみ、平成13(2001)年のこの年に創立100周年の節目を迎えた伝統校であった。その卒業生や同窓会を中心に説明会前から反対の動きが見られ、9月には「時習小学校の存続を考える会」代表者外2,518名により「時習小学校の存続についての陳情」が区議会に提出された。この陳情の趣旨は、学校周辺で今後高層マンション建設が続くことが予想されることから、「地域の実情を調査し、平成15年と限定せず、教育環境の充実(20人学級)をも考慮に入れ、再検討を図っていただきたい」ということと、「伝統ある『時習』の校名を残していただきたい」という2点であった。
その年の3月に時習小学校の通学区域内に241戸のタワーマンションが建設され、さらに13(2001)年度中に59戸、15(2003)年度にも229戸の中高層マンションの建設が予定されていた。しかし前年の都の推計では241戸のマンションにより51名の児童数増が見込まれていたものの、実際にそのマンションから時習小学校に通うことになったのはわずか3名で、大塚台小学校への4名と合わせても7名に過ぎず、マンション建設による大幅な児童数増は期待できなかった。都の推計値は、集合住宅による児童生徒の出現率を三多摩地区も含めた都全体の平均値を基に算出しているため、東池袋の過密な都心部の実態とは乖離が見られたのである(※26)。
こうした結果を踏まえ、現状の区域では今後も20名程度の入学者数しか見込めないこと、また既に統合した各校においては児童生徒数の増加により教室内に活気が芽生え、教職員集団やPTA活動にもよい効果が生じていることなどの説明を受け、時習小学校PTAも統合はやむを得ないという意見にまとまっていった。そして13(2001)年12月19日に統合推進協議会が設置され、その3日後の22日には大塚台小学校PTA主催のもちつき大会に時習小学校の児童・保護者が参加する形で両校の交流会ももたれた。また、統合校の新校名については、依然として「時習」の校名存続を望む声も根強くあったが、統合推進協議会での話し合いの中で両校の校名の由来を踏まえて候補名を選定していくこととし、最終的には投票により「朋有小学校」に決定された。時習小学校の校名の由来である論語冒頭に続く一節「有朋自遠方来、不亦樂乎(朋〔とも〕有り遠方より来る、亦〔また〕楽しからずや)」から採られたものである。時習小学校、大塚台小学校の両校が統合し、たくさんの友だちが集まり、活気があって楽しい学校になるようにとの願いが込められている。それはまた、「朋友」の前に「時習」があった歴史を刻むとともに、「時習」の校名存続を願った人々に対する敬意とともにその伝統を引継いでいこうとの呼びかけのようにも聞こえる。
こうして、時習小学校から引き継がれた身障学級も含め、全普通教室に冷房を設置するなど、改修工事により学校環境の改善が図られた大塚台小学校を新校舎として、平成15(2003)年4月、朋有小学校が開校したのである(※27)。
これを受けて11月から統合説明会が開始されたが、廃校となる時習小学校側から統合に反対する声が次々あがった(※25)。時習小学校は明治34(1901)年5月に旧巣鴨村の時習尋常小学校として創立され、その校名は論語冒頭の「学而時習之、不亦説乎(学びて時に之〔これ〕を習ふ、亦〔また〕説〔よろこ〕ばしからずや)」にちなみ、平成13(2001)年のこの年に創立100周年の節目を迎えた伝統校であった。その卒業生や同窓会を中心に説明会前から反対の動きが見られ、9月には「時習小学校の存続を考える会」代表者外2,518名により「時習小学校の存続についての陳情」が区議会に提出された。この陳情の趣旨は、学校周辺で今後高層マンション建設が続くことが予想されることから、「地域の実情を調査し、平成15年と限定せず、教育環境の充実(20人学級)をも考慮に入れ、再検討を図っていただきたい」ということと、「伝統ある『時習』の校名を残していただきたい」という2点であった。
その年の3月に時習小学校の通学区域内に241戸のタワーマンションが建設され、さらに13(2001)年度中に59戸、15(2003)年度にも229戸の中高層マンションの建設が予定されていた。しかし前年の都の推計では241戸のマンションにより51名の児童数増が見込まれていたものの、実際にそのマンションから時習小学校に通うことになったのはわずか3名で、大塚台小学校への4名と合わせても7名に過ぎず、マンション建設による大幅な児童数増は期待できなかった。都の推計値は、集合住宅による児童生徒の出現率を三多摩地区も含めた都全体の平均値を基に算出しているため、東池袋の過密な都心部の実態とは乖離が見られたのである(※26)。
こうした結果を踏まえ、現状の区域では今後も20名程度の入学者数しか見込めないこと、また既に統合した各校においては児童生徒数の増加により教室内に活気が芽生え、教職員集団やPTA活動にもよい効果が生じていることなどの説明を受け、時習小学校PTAも統合はやむを得ないという意見にまとまっていった。そして13(2001)年12月19日に統合推進協議会が設置され、その3日後の22日には大塚台小学校PTA主催のもちつき大会に時習小学校の児童・保護者が参加する形で両校の交流会ももたれた。また、統合校の新校名については、依然として「時習」の校名存続を望む声も根強くあったが、統合推進協議会での話し合いの中で両校の校名の由来を踏まえて候補名を選定していくこととし、最終的には投票により「朋有小学校」に決定された。時習小学校の校名の由来である論語冒頭に続く一節「有朋自遠方来、不亦樂乎(朋〔とも〕有り遠方より来る、亦〔また〕楽しからずや)」から採られたものである。時習小学校、大塚台小学校の両校が統合し、たくさんの友だちが集まり、活気があって楽しい学校になるようにとの願いが込められている。それはまた、「朋友」の前に「時習」があった歴史を刻むとともに、「時習」の校名存続を願った人々に対する敬意とともにその伝統を引継いでいこうとの呼びかけのようにも聞こえる。
こうして、時習小学校から引き継がれた身障学級も含め、全普通教室に冷房を設置するなど、改修工事により学校環境の改善が図られた大塚台小学校を新校舎として、平成15(2003)年4月、朋有小学校が開校したのである(※27)。
【大明・池袋第五小学校】
第一次整備計画による小学校統合としては最後となる大明・池袋第五小学校の平成9(1997)年5月1日現在の児童数は、それぞれ203名(6学級)と312名(14学級、身障学級26名2学級含む)で、既に大明小学校は全学年が単学級となっていた。さらに、13(2001)年5月1日現在には157名(6学級)、264名(13学級、同34名3学級含む)といずれも減少しており、池袋第五小学校でも単学級の学年が出始めていた。こうしたことから同年9月に出された第一次整備計画改訂版においても、当初の計画通りに池袋第五小学校校舎を改修・活用し、平成17(2005)年4月に両校の統合を実施することとされた。
平成13(2001)年12月に開催された第1回目の統合説明会では、統合自体に対する反対意見は出なかったものの、統合新校の設置位置に関しては、池袋第五小学校が劇場通りに面し、川越街道にも近接していることから、「地域環境は大明小学校の方が良い」「大気汚染の影響は考えているのか」「環境測定はしているのか」「どちらを残すか、地元の話を聞いて十分検討すべきだ」など、池袋第五小学校案に反対する意見が噴出した。翌14(2002)年1月の説明会でも、区教育委員会から基準値以下との環境調査結果が示されたが、「池五小に決まった理由のみ示し、大明小を新校とする検討がなされていない」「財政状況を考えたら、新校を大明小とし、池五小は別の有効活用方法を考えた方がよい」「跡地活用については教育委員会ではなく区長部局と話し合いたい」と、計画ありきでの説明に納得できない地域住民と教育委員会の話し合いは平行線をたどった(※28)。
一方、これら区教育委員会による説明会より前の13(2001)年11月、「大明小学校跡地を考える会」代表者外48名による「大明小学校と池袋第五小学校との統合に伴う街づくりについての陳情」と、池袋2丁目曙町会長外9名による「池袋西口の街づくりについての陳情」が同時に区議会に出されていた。陳情者は異なるが、いずれも池袋第五小学校を統合新校の校舎にせず有効活用を図るべきとの点で一致していたのである。
こうした陳情が出されてきた背景には、第一次整備計画の改訂とほぼ並行して、行財政改革推進本部による「公共施設の再構築・区有財産の活用」(本部素案)が公表されたことも関わっていた。その素案には、今後閉校が予定されている学校跡地のひとつに大明小学校があげられ、施設開放事業として暫定活用した後、西部地域大型児童館、社会教育会館を整備するとの活用案が示されていた。それに対しこれらの陳情では、池袋駅により近く、立地条件の良い池袋第五小学校こそ池袋西口の将来的な街づくりの視点から有効活用すべきとの代案が示されたのである。統合計画に端を発し、跡地活用にまで議論が拡大したことで、両陳情は区議会としては容易には結論づけられない問題として「継続審査」の取り扱いとされた。しかし区教育委員会としては現状校舎の規模等を比較し、池袋第五小学校は普通教室12・特別教室10に対し、大明小学校は普通教室6・特別教室9であったため、大明小学校を統合校舎とした場合には必要な教室数を確保できず、増築しなければならないなどの諸条件を勘案し、統合新校校舎は池袋第五小学校を活用するしかないとの判断に立っていた。また区長部局も、学校施設については教育目的が優先されるべきとの基本姿勢を示したことにより、以後、教育委員会は地元の意見を聞きながら、統合の必要性や校舎の位置に関してより丁寧な説明と話し合いを重ねていくこととなったのである(※29)。
こうして当初紛糾した説明会も、約1年をかけて協議を積み重ねる中で、将来の改築も含め、子どもたちの学校環境としてより柔軟な対応が期待できる池袋第五小学校を統合校の校舎とする方向で意見集約が図られていった。そして地域の意見を反映させながら、平成14(2002)年度から3年度に渡る改修工事が施され、平成17(2005)年4月、統合新校「池袋小学校」が開校した。この新校名についても、平成15(2003)年1月に設置された統合推進協議会の話し合いの中で決定された。池袋は地域を代表する地名であり、その池袋に立地し、池袋の地域の子どもたちが通う小学校、地域の人々が支え育み、地域の人々に愛される小学校ということから選定されたものである(※30)。
統合問題とともに廃校跡施設・跡地活用というもうひとつの側面が問題提起されたケースであったが、地域の核となる学校は、その地域のまちづくりと密接な関係にあることを再認識させられる契機となった。そしてそうした考え方は、後の地域住民の自主管理運営方式による大明小学校跡施設の活用へとつながっていくことになるのである。
平成13(2001)年12月に開催された第1回目の統合説明会では、統合自体に対する反対意見は出なかったものの、統合新校の設置位置に関しては、池袋第五小学校が劇場通りに面し、川越街道にも近接していることから、「地域環境は大明小学校の方が良い」「大気汚染の影響は考えているのか」「環境測定はしているのか」「どちらを残すか、地元の話を聞いて十分検討すべきだ」など、池袋第五小学校案に反対する意見が噴出した。翌14(2002)年1月の説明会でも、区教育委員会から基準値以下との環境調査結果が示されたが、「池五小に決まった理由のみ示し、大明小を新校とする検討がなされていない」「財政状況を考えたら、新校を大明小とし、池五小は別の有効活用方法を考えた方がよい」「跡地活用については教育委員会ではなく区長部局と話し合いたい」と、計画ありきでの説明に納得できない地域住民と教育委員会の話し合いは平行線をたどった(※28)。
一方、これら区教育委員会による説明会より前の13(2001)年11月、「大明小学校跡地を考える会」代表者外48名による「大明小学校と池袋第五小学校との統合に伴う街づくりについての陳情」と、池袋2丁目曙町会長外9名による「池袋西口の街づくりについての陳情」が同時に区議会に出されていた。陳情者は異なるが、いずれも池袋第五小学校を統合新校の校舎にせず有効活用を図るべきとの点で一致していたのである。
こうした陳情が出されてきた背景には、第一次整備計画の改訂とほぼ並行して、行財政改革推進本部による「公共施設の再構築・区有財産の活用」(本部素案)が公表されたことも関わっていた。その素案には、今後閉校が予定されている学校跡地のひとつに大明小学校があげられ、施設開放事業として暫定活用した後、西部地域大型児童館、社会教育会館を整備するとの活用案が示されていた。それに対しこれらの陳情では、池袋駅により近く、立地条件の良い池袋第五小学校こそ池袋西口の将来的な街づくりの視点から有効活用すべきとの代案が示されたのである。統合計画に端を発し、跡地活用にまで議論が拡大したことで、両陳情は区議会としては容易には結論づけられない問題として「継続審査」の取り扱いとされた。しかし区教育委員会としては現状校舎の規模等を比較し、池袋第五小学校は普通教室12・特別教室10に対し、大明小学校は普通教室6・特別教室9であったため、大明小学校を統合校舎とした場合には必要な教室数を確保できず、増築しなければならないなどの諸条件を勘案し、統合新校校舎は池袋第五小学校を活用するしかないとの判断に立っていた。また区長部局も、学校施設については教育目的が優先されるべきとの基本姿勢を示したことにより、以後、教育委員会は地元の意見を聞きながら、統合の必要性や校舎の位置に関してより丁寧な説明と話し合いを重ねていくこととなったのである(※29)。
こうして当初紛糾した説明会も、約1年をかけて協議を積み重ねる中で、将来の改築も含め、子どもたちの学校環境としてより柔軟な対応が期待できる池袋第五小学校を統合校の校舎とする方向で意見集約が図られていった。そして地域の意見を反映させながら、平成14(2002)年度から3年度に渡る改修工事が施され、平成17(2005)年4月、統合新校「池袋小学校」が開校した。この新校名についても、平成15(2003)年1月に設置された統合推進協議会の話し合いの中で決定された。池袋は地域を代表する地名であり、その池袋に立地し、池袋の地域の子どもたちが通う小学校、地域の人々が支え育み、地域の人々に愛される小学校ということから選定されたものである(※30)。
統合問題とともに廃校跡施設・跡地活用というもうひとつの側面が問題提起されたケースであったが、地域の核となる学校は、その地域のまちづくりと密接な関係にあることを再認識させられる契機となった。そしてそうした考え方は、後の地域住民の自主管理運営方式による大明小学校跡施設の活用へとつながっていくことになるのである。
【道和・真和中学校】
道和・真和中学校の統合は、第一次整備計画の計画期間10か年の折り返し点にあたる平成13(2001)年9月の改訂時に、新たな対象校として盛り込まれたものである(※31)。当初の計画が策定された平成9(1997)年5月1日現在の道和・真和中学校の生徒数は、それぞれ356名(11学級)、257名(8学級)であったのだが、13(2001)年時点で294名(9学級)、180名(6学級)にまで激減し、特に真和中学校は平成4(1992)年の適正規模等審議会答申で示された中学校の適正基準(9~18学級、生徒数243名以上)を大きく下回っていた。なお答申では、真和中学校の小規模化が進行した場合には長崎中学校との統合を検討すると提言されていたが、長崎中学校の小規模化も著しく、両校を統合しても適正規模を確保することが困難な状況にあったため見送られた。一方の道和中学校も想定以上の減少傾向が見られ、13(2001)年時点では何とか基準をクリアしていたものの、16(2004)年推計で232名(6学級)と急速な小規模化が予測された。
このため直線距離にして約400mと近接する2校を統合することとし、両校の通学区域を合わせた全体のほぼ中央に位置する道和中学校に統合新校を設置することとした。ただ道和中学校の校舎は昭和36(1961)年の建築で既に40年が経過していることから建て替えることとし、真和中学校を仮校舎として平成17(2005)年4月に両校を統合し、その後17~18(2006)年度の2か年で道和中学校跡に新校舎を建設、19(2007)年4月に仮校舎から新校舎に移転というスケジュールが組まれた。
しかしこの建て替え計画には、平成5(1993)年から一般区民の利用にも供している温水プールがネックとなった。温水プールを残したままの建て替えでは、建築規制等により現在の校舎や校庭の面積は確保できないことから、14(2002)年12月、建て替えによるのではなく、既存校舎の土台・柱・梁を残して行う大規模改修、いわゆるスーパーリニューアルへの変更を決定した。ところがその工事費の概算が約24億円にものぼることが見込まれ、また後述する長崎・第十・千早中学校の統合新校の建設も16~17(2004~2005)年度に予定されていたことから、当時の財政状況でそれだけの金額を捻出することは困難との判断に至り、再度の見直しが行われた。そして15(2003)年11月、当面は耐震補強工事と温水プールも含めた大規模改修工事(工事費概算約10億円)で対応し、財政状況を勘案しながらできるだけ早期に建て替えを行うこととして実質的には先送りされた(※32)。
この間、平成15(2003)年10月に、道和中学校地元の立教大学地区まちづくり協議会から統合については予定通り進められたいとした上で、スーパーリニューアルの再検討を求める陳情が区議会に提出された。この陳情では、区財政の厳しい現状を踏まえながらより長期的な展望に立ち、都市計画道路172号線開通後の新校建設や温水プールの移転も含めた見直し、さらに新校建設にあたっては地域代表・PTA代表・教育委員会・学校管理者・設計者の5者協議による地域に開かれた学校づくりなどの要望があげられていた。そして前述したとおり、この陳情が区議会で審査中にスーパーリニューアル工事の見直しが決定されたことを受け、一部修正し再提出された陳情が区議会で採択され、後に新たに策定する区全体の学校改築計画において、統合新校の建て替えを最優先することが確認された。
また平成15(2003)年6月に設置された統合推進協議会による新校名の検討も進められ、同年11月の第4回協議会において、新校名「西池袋中学校」が決定された。西池袋は新中学校が設置される地名であり、わかりやすく、地域に愛され、育まれる学校になるようにとの願いが込められている(※33)。
こうして、17(2005)年4月、仮校舎となった真和中学校において、西池袋中学校は統合新校としての開校の日を迎えた。改修工事の2度の見直しという混乱を経て、先の陳情で提起された区民参加の学校づくりは、平成18(2006)年11月に設立された「西池袋中の改築等を考える会」により具体化され、平成20(2008)年3月の同会提言は、同年7月策定の「区立小・中学校改築計画」に活かされていくこととなるのである(※34)。
このため直線距離にして約400mと近接する2校を統合することとし、両校の通学区域を合わせた全体のほぼ中央に位置する道和中学校に統合新校を設置することとした。ただ道和中学校の校舎は昭和36(1961)年の建築で既に40年が経過していることから建て替えることとし、真和中学校を仮校舎として平成17(2005)年4月に両校を統合し、その後17~18(2006)年度の2か年で道和中学校跡に新校舎を建設、19(2007)年4月に仮校舎から新校舎に移転というスケジュールが組まれた。
しかしこの建て替え計画には、平成5(1993)年から一般区民の利用にも供している温水プールがネックとなった。温水プールを残したままの建て替えでは、建築規制等により現在の校舎や校庭の面積は確保できないことから、14(2002)年12月、建て替えによるのではなく、既存校舎の土台・柱・梁を残して行う大規模改修、いわゆるスーパーリニューアルへの変更を決定した。ところがその工事費の概算が約24億円にものぼることが見込まれ、また後述する長崎・第十・千早中学校の統合新校の建設も16~17(2004~2005)年度に予定されていたことから、当時の財政状況でそれだけの金額を捻出することは困難との判断に至り、再度の見直しが行われた。そして15(2003)年11月、当面は耐震補強工事と温水プールも含めた大規模改修工事(工事費概算約10億円)で対応し、財政状況を勘案しながらできるだけ早期に建て替えを行うこととして実質的には先送りされた(※32)。
この間、平成15(2003)年10月に、道和中学校地元の立教大学地区まちづくり協議会から統合については予定通り進められたいとした上で、スーパーリニューアルの再検討を求める陳情が区議会に提出された。この陳情では、区財政の厳しい現状を踏まえながらより長期的な展望に立ち、都市計画道路172号線開通後の新校建設や温水プールの移転も含めた見直し、さらに新校建設にあたっては地域代表・PTA代表・教育委員会・学校管理者・設計者の5者協議による地域に開かれた学校づくりなどの要望があげられていた。そして前述したとおり、この陳情が区議会で審査中にスーパーリニューアル工事の見直しが決定されたことを受け、一部修正し再提出された陳情が区議会で採択され、後に新たに策定する区全体の学校改築計画において、統合新校の建て替えを最優先することが確認された。
また平成15(2003)年6月に設置された統合推進協議会による新校名の検討も進められ、同年11月の第4回協議会において、新校名「西池袋中学校」が決定された。西池袋は新中学校が設置される地名であり、わかりやすく、地域に愛され、育まれる学校になるようにとの願いが込められている(※33)。
こうして、17(2005)年4月、仮校舎となった真和中学校において、西池袋中学校は統合新校としての開校の日を迎えた。改修工事の2度の見直しという混乱を経て、先の陳情で提起された区民参加の学校づくりは、平成18(2006)年11月に設立された「西池袋中の改築等を考える会」により具体化され、平成20(2008)年3月の同会提言は、同年7月策定の「区立小・中学校改築計画」に活かされていくこととなるのである(※34)。
【長崎・第十・千早中学校】
長崎・第十・千早中学校の統合は、平成9(1997)年の第一次整備計画策定当初では第十・千早の2校のみが対象であったが、その後の生徒数の推移を踏まえ、13(2001)年改訂時に長崎中学校を加えた3校統合に変更された(※35)。平成9(1997)年5月1日現在の長崎・第十・千早各中学校の生徒数は、それぞれ179名(6学級)、234名(7学級)、133名(5学級)であったが、13年時点で161名(6学級)、209名(6学級)、116名(4学級)と、いずれも適正規模等審議会答申の適正基準(9~18学級、生徒数243名以上)を満たさない状況となっていた。さらに都の15(2003)年度推計で生徒数が100人を切り、全学年単学級となることが予測される千早中学校の小規模化が著しく、当初計画の第十中学校と統合しても適正基準を確保できない状況が見込まれた。一方、長崎中学校も平成17(2005)年度には全学年が単学級となることが予測されたため、生徒数の将来動向を踏まえ、3校統合に計画変更することとなったものである。
また、当初計画では第十中学校を改修し、統合新校の校舎として活用する予定であったが、3校統合となり、区域内の通学距離基準(半径1,500m)を満たす千早中学校に校舎を新設することとされた。そして、第十中学校を仮校舎として、地元からも早期実施の要望が出されている千早中学校と第十中学校を平成16(2004)年4月に先行して統合し、16~17(2005)年度に千早中学校跡に新校を建設、新校竣工後の18(2006)年4月に長崎中学校を新校に統合するとの2段階の統合スケジュールが組まれた。
計画公表後の平成13(2001)年11月から12月に開催された統合説明会では、総じて統合に対する一定の理解は示されたが、突然計画に組み込まれた長崎中学校関係者からは、「子どものことを第一に考えれば二段階よりも一度にすべき」「後から統合になる長崎中学校の生徒は対等といっても吸収される意識は拭えない」など2段階の統合を疑問視する意見が出され、また西武線による通学区域の分断や西武線踏切をまたぎ長距離となる通学路の安全性に対する不安の声も聞かれた(※36)。翌14(2002)年2月には、長崎中学校地元住民から3校統合の見直しを求める陳情が区議会に出されたが、様々な課題は今後調整していく必要があるとしても、基本的には統合を推進すべきという意見が多数を占め、この陳情は不採択とされた。
そして平成14(2002)年5月、そうした諸課題の調整をしていく統合推進協議会が設置され、第5回協議会において新校名「明豊中学校」が決定された。「常に希望のひかりに照らされながら、明るく輝ける中学生として、心豊かに自ら学び、明日に向かって進んでほしい」という願いが込められているとともに、「豊」の字には、豊島区にある中学校であることも表わされている。
こうした新校名に豊島区の次代を担う子どもたちへの思いを託す一方、いずれ統合されるなら入学後に教育環境が変わるより最初から統合校で過ごさせたいというのも偽らざる親心であろう。学校統合はもはや時代の流れと受け止められ、翌15(2003)年度の千早中学校入学者数はついに0名となり、長崎中学校も10名に止まった(※37)。さらに平成16(2004)年4月に第十・千早中学校が統合され、明豊中学校が開校された後は16・17年度とも長崎中学校へ入学する1年生は一人もおらず、段階的にするまでもない結果となったのである。
その間にも校舎新築工事は進められ、18(2006)年3月に明豊中学校新校舎が竣工した(※38)。そして、3月11日、15(2003)年度に入学し、最後まで残った3年生10名を送る卒業式が執り行われ、長崎中学校はその歴史の幕を閉じた(※39)。これにより翌4月の統合時に長崎中学校から明豊中学校に移る生徒はいなかったことになるが、この第2段階の統合をもって、平成4(1992)年の適正規模等審議会答申に端を発し、平成9(1997)年からスタートした区立小・中学校の適正化第一次整備計画は完了することとなったのである。
また、当初計画では第十中学校を改修し、統合新校の校舎として活用する予定であったが、3校統合となり、区域内の通学距離基準(半径1,500m)を満たす千早中学校に校舎を新設することとされた。そして、第十中学校を仮校舎として、地元からも早期実施の要望が出されている千早中学校と第十中学校を平成16(2004)年4月に先行して統合し、16~17(2005)年度に千早中学校跡に新校を建設、新校竣工後の18(2006)年4月に長崎中学校を新校に統合するとの2段階の統合スケジュールが組まれた。
計画公表後の平成13(2001)年11月から12月に開催された統合説明会では、総じて統合に対する一定の理解は示されたが、突然計画に組み込まれた長崎中学校関係者からは、「子どものことを第一に考えれば二段階よりも一度にすべき」「後から統合になる長崎中学校の生徒は対等といっても吸収される意識は拭えない」など2段階の統合を疑問視する意見が出され、また西武線による通学区域の分断や西武線踏切をまたぎ長距離となる通学路の安全性に対する不安の声も聞かれた(※36)。翌14(2002)年2月には、長崎中学校地元住民から3校統合の見直しを求める陳情が区議会に出されたが、様々な課題は今後調整していく必要があるとしても、基本的には統合を推進すべきという意見が多数を占め、この陳情は不採択とされた。
そして平成14(2002)年5月、そうした諸課題の調整をしていく統合推進協議会が設置され、第5回協議会において新校名「明豊中学校」が決定された。「常に希望のひかりに照らされながら、明るく輝ける中学生として、心豊かに自ら学び、明日に向かって進んでほしい」という願いが込められているとともに、「豊」の字には、豊島区にある中学校であることも表わされている。
こうした新校名に豊島区の次代を担う子どもたちへの思いを託す一方、いずれ統合されるなら入学後に教育環境が変わるより最初から統合校で過ごさせたいというのも偽らざる親心であろう。学校統合はもはや時代の流れと受け止められ、翌15(2003)年度の千早中学校入学者数はついに0名となり、長崎中学校も10名に止まった(※37)。さらに平成16(2004)年4月に第十・千早中学校が統合され、明豊中学校が開校された後は16・17年度とも長崎中学校へ入学する1年生は一人もおらず、段階的にするまでもない結果となったのである。
その間にも校舎新築工事は進められ、18(2006)年3月に明豊中学校新校舎が竣工した(※38)。そして、3月11日、15(2003)年度に入学し、最後まで残った3年生10名を送る卒業式が執り行われ、長崎中学校はその歴史の幕を閉じた(※39)。これにより翌4月の統合時に長崎中学校から明豊中学校に移る生徒はいなかったことになるが、この第2段階の統合をもって、平成4(1992)年の適正規模等審議会答申に端を発し、平成9(1997)年からスタートした区立小・中学校の適正化第一次整備計画は完了することとなったのである。